金比羅山、老の山、戦場ヶ野、一里山


2002.3.22 探索
2011.11.12 探索(筋山)
2015.2.21 探索(田の首)






金比羅山堡塁


左:終戦直後の航空写真(R390-16、国土地理院)、右:昭和44年の航空写真(MCG695-C2-2、国土地理院)



 昭和45年頃、下関市により徹底的に破壊され、公園となる。地形的なもの以外、何も残っていない。




現代本邦築城史より:

金比羅山堡塁

任務:
 一般首線の方向は80度に向わしむ、而して之に備える28cm榴弾砲は専ら敵艦を射撃し、且つ老ノ山砲台及び安岡村付近を射撃するにあり。12cmカノンは海浜及び陸地の守禦に任じ、主として武久川の河盂(?河口のこと?)を掃射するに在り。

備砲:
 12cmカノン:4門、28cm榴弾砲:8門、機関砲:4門

起工:明治23年6月1日、竣工:明治26年4月30日

除籍:昭和10年3月11日 陸密第153号にて一部除籍

 大正8年 要塞整理要領にて備砲を28cm榴弾砲4門のみとす







左:北西隅を、右:同左


左:南西隅を、右:同左


左:内部、右:同左












老の山砲台


左:終戦直後の航空写真(R515-2-4、国土地理院)


1975年頃の航空写真(CKU7424-C15-16、国土地理院)


 昭和50年頃に、下関市によって徹底的に破壊され、公園となる。
 しかも平成20年過ぎにも再度整備され、電波標定機のすり鉢形状を残していた花壇も無くなり、棲息掩蔽部も殆ど見えなくなってしまった。
 北東端の地下道の一部は残っているようである。また終戦末期の彦島砲台は、この地下道の先に造られたようである。また広場の南西下に観測所が辛うじて残っている。

 電燈所は未調査だが、1975年頃の航空写真を見ると、それっぽいものが写っている。




現代本邦築城史より:

老ノ山砲台

任務:
 専ら彦島西部の守禦に充て敵艦の安息繋泊と敵軍の上陸動作を妨害するを主眼とし、併せて本島守防上の一支豫点に侠し、尚時期に応じては湾内に向かい逆○撃を施行す。

備砲:
 28cm榴弾砲:10門(最初は240mm臼砲予定)、砲座:2基×4、1基×2

起工:明治20年10月26日、竣工:明治23年1月31日

除籍:昭和12年10月28日 陸密第1481号にて一部除籍
   昭和17年6月26日 陸密第1815号にて全部除籍

 明治32年 砲兵庫、観測所増築
 明治34年 平射、装薬調整所、炸薬填装所増築
 昭和12年 再修正計画に依り廃止と決定




老ノ山電燈所

射光機(90cm)1、機関舎1、電燈座1

起工:明治25年9月23日、竣工:明治26年7月2日

除籍:昭和10年7月20日 陸密第541号にて全部除籍
   廃止後は射光機は永輿湾要塞に付属換して虎島電燈に備附す

 昭和2年度に「改造ス式90」に改造す




近代築城史より:

 老の山電灯は砲台の西南約300m、標高30mの地に発電所を設け、照明所は、発電所の前方に馬蹄形の交通路を造り、交通路に沿って2ヶ所設けてある。射光機はスペリー式90cm可搬式電灯であった。



2002年3月(改装工事前):

左:北東側、右:電波標定機のすり鉢形状が残った花壇(現在は埋め立てられる)


左:南西側の広場、右:南東下の駐車場


左:当時のものと思われる石段、右:当時のものと思われる建物基礎


2011年以降(改装工事以降):

左:駐車場、右:地下道入口(2002年当時は塞がれていた)


左:地下道内部、右:棲息掩蔽部のあった場所


左:広場南西下の観測所、右:逆方向から


左:内部は土が詰められている、右:南西側の広場から北東方向を












戦場ヶ野堡塁


左:終戦直後の航空写真(R390-16、国土地理院)


 昭和50年頃に、下関に徹底的に破壊され、公園となる。何も残っていない。




現代本邦築城史より:

戦場ヶ野堡塁

任務:
  一般首線の方向は10度に向わしむ、而して其の目的は一里山堡塁に異なる事なく東方一里山の前方より西方、北方及び武久村付近を射撃し、併せて隣方堡塁を側防するに在り。

備砲:
 12cmカノン:8門、15cm臼砲:4門、機関砲:4門

起工:明治24年4月1日、竣工:明治25年10月22日

除籍:昭和10年3月12日 陸密第153号にて全部除籍

 大正8年 要塞整理要領にて廃止と決定







左:12cmカノンがあったと思われる土盛、右:同左反対側


左:展望台から西を、右:東を


左:南を、右:左翼の土塁跡?












一里山堡塁


左:終戦直後の航空写真(R390-16、国土地理院)


 昭和50年頃に、下関に徹底的に破壊され、野外活動センターとなる。何も残っていない。



現代本邦築城史より:

一里山堡塁

任務:
  一般首線の方向は正比(真北の事か?)に向わしむ、而して之に備える12cmカノンは専ら東方の火ノ山及び龍司山の麓より西方戦場ヶ野堡塁の前方を側防し、且つ武久川の河盂(?河口のこと?)及び垢田村付近を射撃す。

備砲:
 12cmカノン:4門、15cm臼砲:4門、機関砲:4門

起工:明治28年10月9日、竣工:明治30年7月1日

除籍:昭和10年3月12日 陸密第153号にて全部除籍

 大正3年 4月24日陸機密第45号にて廃止と予定せらる







左:敷地内のどこか、右:どこか


左:どこか、右:どこでもいいじゃないか…







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