火の山砲台


2002.3.24 探索
2011.10.10 探索



当時の地図(現地看板より)


現在の地図(現地看板より)


左:1945年7月2日の航空写真(写真が語る山口県の空襲 [1])



火の山公園一帯。公園整備の為、第4砲台を除き、ほぼ壊滅。

第二次世界大戦中に高射砲陣地、照空陣地、電波標定機陣地が置かれていたが、詳細はわからない。





現代本邦築城史より:

任務(第1、第2砲台):
 海峡の東方即ち早鞆の迫門に向けて襲来する敵艦を遠地に射撃し以て此の海峡に接近し能わざらしむるに在りと雖も、敵艦尚ほ進みて海峡に侵入するか或いは西海峡を強迫経過して下関湾内に闖入するに方りては宜しく其の火砲一部の方向を変転し湾内をも射撃し又下関背面の防禦力を挟援せしむるに在り

備砲:
第1砲台:28cm榴弾砲 4門(砲座2)、第2砲台:28cm榴弾砲 4門(砲座2)



任務(第3砲台):
 海峡口に向けて其の砲火を集中し戦艦の最弱部即ち甲板を瞰射するにありと雖も、未だ敵艦の有効射程距離内に進み来らざるに方りては其の遠近に応じ或いは擲射或いは平射を以て敵艦を猛射し其の海峡口に接近するに先だち予め多少の損害を与つ

備砲:
23口径24cmカノン 8門(砲座4)



任務(第4砲台):
 海門の東方即ち早鞆迫門に向かって襲来する敵艦を遠地より射撃す。尚時として背後陸地防禦の援助をなす。

備砲:
28cm榴弾砲 2門(砲座1)、12cmカノン 4門(砲座2)、15cm臼砲 4門(砲座2)



起工:明治21年1月4日、竣工:明治24年2月28日

除籍:昭和10年3月12日 陸密第153号にて全部除籍

大正8年 要塞整理要領にて廃止の部類に入る 大正15年 8月27日陸機密第59号にて随時廃止と予定せらる
昭和15年1月 第1、第2、第4砲台の28cm榴弾砲を撤去す



[1] 写真が語る山口県の空襲 米軍が記録した偵察・攻撃・損害(著者・発行者 工藤洋三)










第2砲台、第3砲台:


左:展望台近くにある遺構、右:同左付近の恐らくは高射砲陣地時代の遺構


左:展望台近くにある棲息掩蔽部、右:同左反対側、露出している


左:第2砲台の観測所、右:同左を上から


左:第3砲台の北西側を南西から、右:第3砲台の南東側、綺麗に削られて跡形も無い


左:手前部分を削られてトンネルになってしまった棲息掩蔽部、右:別の棲息掩蔽部

 第1砲台はロープウェーの駅となり文字通り全滅した。第2砲台は展望台となりほぼ壊滅したが、観測所と棲息掩蔽部の一部が辛うじて残っている。また高射砲陣地時代のものと思われるコンクリート構造物もあるが、退避壕か砲側弾薬庫かと思われる。
 第3砲台は、砲座部分は土ごと削られて消滅。辛うじて砲座間にあった棲息掩蔽部が残るが、かなり手が入ってしまい、当時の面影も糞も無い。平成13年と16年にそれぞれ発掘調査されたようだが、図書館のデータベースを調べても発掘調査報告書が無いことを見ると、ただ掘ってみただけなのかもしれない。







第4砲台:


現在の第4砲台の地図(現地看板より)


左:第4砲台の南西端付近から北西方向を(当時は遊園地が無かった)、右:東方向を


左:北西から棲息掩蔽部を、右:棲息掩蔽部を北東から


左:南西方向を、右:北方向(標定機陣地)を


左:周りが削られて露出した12cmカノンの砲床部、右:同左を逆から


左:電波標定機陣地、右:同左


左:電波標定機陣地、右:同左


現在の第4砲台の地図(現地看板より)


左:東端にあるNHKの電波施設、右:同左付近


左:NHKの電波施設西の弾薬庫、右:同左前から南西を


左:南西を、右:その先


左:小隊長位置?、右:28cm榴弾砲座を南西から


左:北西面へ下る階段、右:同左から地下指揮所


左:北東側の28cm榴弾砲座、右:同左から北西面へ下る階段


左:北東側の28cm榴弾砲座、右:同左から地下指揮所を


左:地下指揮所へ、右:同左内部


左:南西側、右:指揮所上の観測所


左:観測所、右:観測所から南西側の砲座を


現在の第4砲台の地図(現地看板より)

 第4砲台は比較的良く残っているのだが、最近になって遊具施設が設置され、更に破壊が進められた。2002年当時(雨の日に撮影された写真)と2011年(緑が濃い写真)を比べてみると、かなり手を加えているようだ。

 中央の小判型の丘の北東と南西に28cm榴弾砲が1門づつと、その間に観測所と指揮所、その地下に第4砲台の棲息掩蔽部がある。南西側の28cm榴弾砲砲座は戦後に地下水槽を作った際に潰されてしまったようだ(戦中に既に潰されていた可能性もある)。棲息掩蔽部から砲座脇にかけて揚弾用の施設が設けられていたようだが(当時、写真撮ってなかった。戦捜録に何枚か写真在り)、現在は危険なので潰されている…ような気がする。

 北端と東端には元々は15cm臼砲の砲座があったと思われるが、北端の砲座は戦争中に(恐らくは)聴音機壕→電波標定機(タ号2型)壕へと改造され、東端の砲座も戦後にNHKの電波施設が建てられてしまった。ただどちらも地下弾薬庫のみは残っている(いずれもアルミの扉が取り付けられ、中に入れない)。

 現在の電波標定機壕の南隣と南東隣に12cmカノン砲座があったようだが、南隣の砲座のコンクリート製砲床がむき出しになっている他は良くわからなくなっている。


 一周ぐるりと土塁で囲んでいたようだが、南西側の土塁は遊歩道を作った際に潰してしまったようだ。






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