龍司山保塁


2013.2.3 探索



1960年頃の航空写真(MKU613-C7-7、国土地理院)











 霊鷲山山頂付近が龍司山保塁である。戦後、仏舎利塔や公園の建築により、砲座を含む大部分が破壊されてしまったが、棲息掩蔽部と周囲の壕や一部のトーチカ、兵舎跡平坦地はどうにか残っている。アクセスは、火の山の南西麓附近の駐車場から旧軍道を長距離歩くか、山の南東下もしくは山の北下から登山するしか無い。



現代本邦築城史より:

任務:
 堡塁一般の首線を伊倉村の方向に置き、その兵備を以て火ノ山砲台の背後及び一里山、戦場ヶ原堡塁を援助し、且つ綾羅木川の河盂(?河口のこと?)を射撃し、12cmカノンの内少なくとも2門は豊浦方向を射撃し得るを要す(改正の分)

備砲:
15cm臼砲2、12cm速射カノン6、9cm臼砲4、機関砲4

起工:明治30年11月4日、竣工:明治33年2月3日

除籍:昭和10年3月12日 陸密第153号にて全部除籍

大正3年 4月24日陸機密第45号にて廃止と予定せらる
昭和9年10月 12cm速射カノンを撤去す










兵舎:



左:平坦地Aを南東から、右:平坦地Aを西から


左:平坦地Aの石製の建物基礎、右:平坦地Aを北上から


左:平坦地Bの北西隅を南から、左下隅のものは瓦、右:平坦地Bを西亜kら


左:平坦地Bの西端にある石製の排水溝、右:平坦地Bを北上から、奥下に平坦地Aが


左:平坦地Bを北上から、東側、右:動作西側




左:平坦地Bの斜面下の土留め、右:平坦地B東側の瓦礫、左側の陶器破片は湯たんぽ


左:平坦地B東端の石段、右:平坦地Bに落ちていた三ツ矢サイダーのビン、他にも色々なビンが


左:平坦地Cの東側、右:同左西側


左:井戸のある平坦地Dを北上から、右:同左北東上から




 堡塁の南西下付近に、兵舎の敷地らしい平坦地群がある。
 平坦地Aは最も外れにあるもので、石製の基礎やレンガ製基礎がある。昭和期の物などと比べると、昔の日本家屋らしい基礎である。
 平坦地Bは東西に長く、途中でくの字に折れている。あちこちに石やレンガで造られた構造物や、その残骸が散らばっている。東端には立派な石段があるが、恐らくはFにある道へと繋がっているのではないかと思われる。また空き瓶が多く転がっていた。  平坦地Cは陶器辺などが転がっていたものの、目だった瓦礫や構造物は見当たらなかった。
 平坦地Dは少し下った辺りにあり、井戸が設置されている。

 他にもトイレや烹炊所、風呂などがあると思われるが、そこまで探していない。






堡塁:



左:堡塁南下の道路脇の平坦地、右:同左のコンクリート製瓦礫


左:トーチカEを南から、右:堡塁の南西斜面、中ほどに塹壕Gが廻っている


左:塹壕アップ、右:トーチカEを南西から


左:トーチカEの西面、右:南面


左:トーチカEの南面アップ、右:開口部の内部


左:トーチカEのに紙面アップ、レンガの組み方が面白い、右:トーチカEを北西から




左:穴F、一部コンクリートが残っている(左上)、右:兵舎へと下る道?


左:堡塁の北西の壕、右:同左から堡塁斜面を、中ほどに塹壕Gが


左:塹壕G、右:同左反対方向


左:北西の壕、H方向を、右:同左付近からの堡塁斜面、途中に塹壕G


左:H付近を西下から、右:同左から塹壕Gを




左:Hの西下にあるトーチカのレンガ片、右:同左


左:Hから南を、正面に塹壕G、右:Hから南西方向を


左:Hから南を、右:Hから南東を、左に壕I、右に塹壕G


左:壕Iを退く製から、右:南東へと続く塹壕G


左:壕Iを北から、右:塹壕Gを北から




左:壕内部からH方向をを、右:壕I、南東方向を


左:壕Iの南東端付近、右:石垣J


左:石垣J近くの塹壕G内部、右:同左反対方向


左:壕Iを南西上から、右:同左


左:塹壕Gの北西側から壕を、右:H近くの塹壕G内部




左:Hの南側、塹壕G内部、右:Hの南東下のトーチカのレンガ片


左:旧砲座部を北から、何も無い、右:同左を南上から、何も無い


左:棲息掩蔽部Lの上から南東方向を、右:棲息掩蔽部Lを西から


左:棲息掩蔽部Lを南東から、右:Lの西側、手前の壁部分が破壊されている


左:棲息掩蔽部Lの内部(西端の1本、奥に貯水施設?)、右:東奥


左:標柱、右:標柱



 五角形の形をした堡塁で、全国でもここだけのような。それにもかかわらず半分くらい破壊されている。5辺の内、北側の2辺は幅10m程の壕と、壕の手前に塹壕を設け、更に頂点H付近の壕内にレンガ製のトーチカを設置して、壕内を側面から掃射可能な構造にしている。南西の辺は兵舎部へと続く斜面であるため壕こそ無いが、トーチカEを置き、南西と南東を射撃できるようにしている。南面、東面は藪が酷くて確認できていないが、恐らく塹壕も廻っており、もしかしたら南東隅にトーチカEと同じようなトーチカが設けられているかもしれない。また戦捜録によると(当時の方が状態が良かった…)、北東隅にレンガ製のトーチカがあるようだ。


 トーチカEはレンガ製で、西と南とに銃眼が設けられている。鉄筋コンクリートの無かった当時、左右に広いスリットを造ろうとすると、こうなるのか…という面白い形状である。下面は緩やかに手前に下りており、兆弾が内部に入りやすくなっている。もう少し後だと段々構造になっていたかもしれない。天井が破壊されているようで、内部は瓦礫で一杯である。手前側以外は瓦礫と藪に埋もれていて、全体形状がどうなっているのかは良くわからない。
 穴Fは、良くわからない。ただ一部分にコンクリートが残っているので、何らかの構造物だと思われる。南側に兵舎方向へ下る道がある。
 堡塁の北西には壕が設けられ、内側に塹壕Gがある。この付近の塹壕Gは浅いが、落ち葉で埋もれてしまったのか、防御壁が壊されてしまったのかはわからない。
 北の頂点Hは面白い構造になっている。現在は遊歩道が通されてしまっているが、元々はそのようなものは無く、東西の壕を掃射可能な地下トーチカがあったと思われる。辛うじて残骸らしきレンガの壁面が東西に1ヵ所づつ残っている。
 北東側の壕Iはかなり立派である。東側は石垣になり、傾斜もほぼ直角である。石垣に変わった辺りから先、藪が酷くて進まなかったが、レンガ製トーチカが北東隅にもあったようだ。
 砲座のあった辺りはすっかり破壊され、何も残っていない。自動車も入れない、麓から30分以上もかかるこんな山奥に、何故グラウンドを造らないとならなかったのか…。もう下関市の考えはわからない。
 堡塁の南側には棲息掩蔽部Lがある、手前の壁は全て壊されているが、何とか残ってくれている。ここから南側は仏舎利塔が建てられ、殆ど何も残っていない。これもなぜ建てられたのか…。






ここから以下のページへいけます。