大島(洞窟) 砲台



2014.2.23 探索(初期位置)
2014.3.9 探索


左:全体図、右:米軍の航空写真(M122-94、国土地理院)


左:変更後の砲台、右:米軍の航空写真(M122-94、国土地理院)




 宗像大島(筑前大島)の津和瀬集落の南に、洞窟砲台跡がある。
 最初は津和瀬集落のすぐ南にある尾根で作業が行われていたが、地質不良で南東へ変更となる。航空写真を見ると、2ヶ所の砲座と砲座から流れ落ちる土砂、北東の谷地にある建物らしきものと、軍道が明確に写っている。

 射線は南西方向で、福津から福岡方面にかけて上陸してくる敵を海上で迎え撃つ目的だったと思われる。
 備砲について明確な記録は無いが、大島の露天砲台からの移設であれば、45式改造固定15cmカノン2門である。


 1回目は初期位置で外れを引き、津和瀬の民宿のお爺さんの話と航空写真から、2回目にして当たりを引く。ただ記述の通り崖は移動が困難で地下通路を通らざるを得ず、緊張しながらの探索で見落としが多い。また猪の巣であり、そちらの方の警戒も要する。一応軍道はあるものの藪に埋もれつつあり、鉈が有った方が移動しやすい。

 福岡から下関にかけての洞窟砲台では最も状態の良い貴重な場所であり、危険ではあるものの、何とか保存整備してほしいものである。



下関重砲兵連隊史によると、以下の通りであった:

(大島の)2門は砲台の南西方約1.5km(津和瀬の南側)の稜線に洞窟陣地を構築し、第154師団の大島守備隊となる。備砲完了、試射直前に終戦。弾薬は村民と協力して海中に投棄。指揮官は大石中尉。



日付 記事[1]
昭和20年2月下旬 第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)
津和瀬(第6中隊98名)で洞窟砲台工事開始
昭和20年時期不明 地質不良による作業困難により、島内の他の場所に変更
昭和20年8月 洞窟開削 コンクリ作業終了 備砲完了

[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)








左:砲台Aの入口を東から、右:同左を北から


左:砲台Aの地下通路、右:同左中央部にある脇の部屋


左:砲台Aの地下通路、砲座の手前、右:砲座側から


左:砲座A、右:同左を外から


左:砲座Aの南西平坦地、右:結構狭い




左:砲座A上部、右:砲座A


左:北西部、右:南東部


左:内部、右:砲座掘り込み部、射角は約60度、水中の材木は当時のものか?


左:掘り込みの南東側、右:北西側


左:武装解除時の砲架の爆破痕、右:同左




左:砲台Aをもう一回正面から、右:地下通路、入口方向を


左:砲台Aの出口付近の平坦地、右:同左から谷地を見る


左:弾薬庫?C、右:同左内部


左:D付近の袋に入ったまま固まったコンクリート、右:攪拌中のまま固まったコンクリート


左:砲台Bの入口方向を、右:砲台Bの入口脇の石垣


左:砲台Bの入口、右:砲台Bの地下通路、行き止まり


左:砲台Bの真上付近から海を、右:軍道



 崖が急すぎて、砲台Aも砲台Bも崖から回り込むことが出来なかった。

 砲台Aは辛うじて地下通路が通れる状態にある。ただ崩落も激しい。途中、脇に小部屋が造られているが用途不明。弾薬の一時置き場か?
 砲座はほぼ南西方向に向かっている。幅約5m、長さ約7mで、射角60度で砲架の掘り込みがされている。砲架の形状が非対称であるためか、掘り込みも非対称である。基礎部は水没し、また木材などが積もり、確認できない。砲座前の平坦地は狭い。
 砲台Aはこれで完成状態であると考えられるが、開口部がトンネルのように広く、正面を厚いコンクリートで囲おうとはされていない。内部のコンクリートも、他の建設中の構造などを見るに鉄筋は入っていないようで、コンクリートの厚さからも耐弾性は考慮されておらず、崩落防止のみが目的のようである。
 内壁には、武装解除時の砲架の爆破痕らしき傷がついており、備砲されていた事が伺われる。

 砲台Bは、現状不明である。地下通路に入ってみたものの途中で行き止まっている。空気も流れておらず、完全に塞がれた状態である。これが掘りかけなのか、崩落してしまったのかはわからない。崖を回りこんだ際に削りだされた地形は確認したものの、トンネルまでは見れなかった。

 砲台Aの北西には、行き止まりの地下壕Cがある。入口付近が砲台AやBのように手の込んだものではないため、掘りかけの砲台ではなく、倉庫や弾薬庫といった用途なのではないかと思われる。

 砲台の北東側の谷地はなだらかで、航空写真を見ると建物らしきものも写っているが、建物基礎らしいものは確認できなかった。AとBの入口の間のD付近には、袋に入ったまま固まってしまったコンクリートと、攪拌中に固まってしまったコンクリートがある。コンクリート打ちの最中に終戦を迎え、工事が中断したのではないかと思われる。







初期砲台、未完成の痕跡




左:掘りかけの地下壕入口(西側の谷)、右:同左内部、行き止まり


左:上の壕の反対側(海側)の掘りかけ、右:同左から伸びる溝


左:崩落した地下壕その1(東側の谷)、右:崩落した地下壕その2(東側の谷)

 記録によると、当初は別の場所で工事をしていたものの、地質不良で現在の場所に変更になったとある。津和瀬集落の南にある尾根付近には、その当初の場所だと思われる、地下壕跡が幾つかある。
 最もよく残っているのが西側の谷にあるもので、5m程の地下壕が残っている。そしてこの壕とは尾根を挟んで反対側(海側)に、掘りかけと思われる窪地がある。土質であり、岩質の場所よりも工事が面倒になる(岩よりも崩落防止が大変になる)ことから、現在の場所に変更になったのではないかと思われる。

 東側の谷にも2ヶ所の崩落した地下壕跡がある。






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