梅ヶ峠(大休庵) 砲台
2012.3.18 探索
2014.3.15 再探索
2014.4.12 再探索
全体図
左:砲座?西北部、右:砲座?南東部
弾薬庫?
山陰線梅ヶ峠駅の北東付近に、ラ式15cmカノン砲2門から成る砲台があったらしいが、明確な遺構は発見できずに居る。3回行ったものの、地元の方に聞き込みが出来ていないのも大きい。
推定として砲座としている遺構は、上水槽から北西に進んだ辺り(A〜E)である。東側の崩落跡は、尾根の南裏に崩落した地下壕入口らしきものが対になっており、可能性としては比較的高そうに思える。西側のものは15cmカノン砲座というには小さすぎであり、工事途中だったか、もしくは砲台とは別の施設跡かもしれない。1本北東下の昔の道沿いにも2ヶ所程、崩落した地形があり、特に北西側のものは規模も大きく、そちらの可能性もある。
記録によると、以下のような記事が残っている:
・洞窟掘開終了。コンクリ打設一部実施。火砲は陣地付近まで運搬。[1]
・ラ式15加4門:2門は第15軍隷下の第59軍(鬼城兵団)に配属され、山陰本線梅ヶ峠駅北方高地に陣地構築。駅前に火砲到着時終戦。閉鎖機を破壊。(大深中尉)[2]
・下関重砲兵連隊小隊:
大休庵西北高地 左20度、右30度、射程2500〜15000m。[3]
日付
記事(特記以外、現代本邦築城史より)
昭和20年5月下旬
海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
第5中隊15K(角島)の1個小隊 独立混成124旅団へ
[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 下関重砲兵連隊史
[3] 独立混成第124旅団行動概要(防衛省戦史資料室、文庫-柚-140)
左:砲座っぽい崩落跡Aを西上から、右:同左南西面
左:砲座っぽい崩落跡Aの南隅、南面へと伸びる通路跡か?、右:Aを北東下から
左:砲座っぽい崩落跡Aを南上から、右:尾根を挟んで南面にある崩落した地下壕入口っぽい窪地
左:上水槽Bを西上から、右:同左北東下から、真ん中のコンクリート構造物(黄色矢印)が怪しい…気がする
左:崩落した地下壕跡Cを西上から、右:同左の南西上側
左:Cから平坦地Dを、右:平坦地DからCを
左:平坦地Dを西から、右:東から
左:崩落した地下壕入口Eを北東から、右:同左反対から
左:崩落した地下壕入口Eを南東上から、右:同左続き
左:崩落した地下壕Gを北西から、右:同左正面
左:崩落した地下壕Hを北東から、右:同左正面
左:昔の道沿いにある崩落跡1、右:同左の奥
左:昔の道沿いにある崩落跡2、右:同左正面
砲座っぽい崩落跡Aは、竹薮になり写真だと形状がわかり辛いが、幅が5m弱ある。元々は道が横断していたようだが、それを削るようにして掘られている。ただコンクリートの破片すら見当たらない。裏口へと続く通路があったのか、南隅から南方向にかけて、多少窪みが強くなっている。それに相対するかのように、尾根を挟んで南面には、裏口と思われる崩落した地下壕入口っぽい窪地がある。
Aの南東には戦後に造られた上水槽Bがある。ここまで麓から道が続いているが、この道は元々はここで終わらずに、AからEを経由し、更に北西奥へと繋がっていたようである。水槽の北東下には、水槽とは関係無さそうなコンクリート構造物があるものの、砲座の残骸なのかは不明である。もしかすると、この水槽の場所に砲座を造ろうとしており、その際の一部コンクリ打ちの終わった箇所がこのコンクリート塊なのか?と穿ってしまう。
Aから少し北西に進むと、2ヶ所の崩落した地下壕CとE、そしてCの北東下に平坦地Dがある。仮にここが砲座跡だとすると、Eが砲座で、Cは裏口(ここは山が厚いので、尾根の反対側から掘ると長くなりすぎる為、同じ面側から裏口を掘った可能性がある。高知の
手結砲台
がこの形式である)。ただ実際にどうなのかは良くわからない。Eの幅は2〜3m、Cの最も広い所で3mくらいである。
また、この近くに炭焼き釜Fがある。
民家寄りの場所に、2ヶ所の崩落した地下壕GとHがある。AとEが砲座だとすると、少し離れてはいるが弾薬庫か何かだったのではないだろうか。
また北東下の古い道沿いにも、2ヶ所ほど崩落跡らしいものがある。ただ不明瞭で、実際どうだったのかはわからない。
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