数珠山 演習砲台



2012.3.10 探索
2011.11.3 探索


米軍の航空写真(左:R515-2-6 国土地理院、右:山口県の空襲より[9])


1975年頃の航空写真(CKU7424-C14-7 国土地理院)




 金比羅砲台の南約1km、筋ヶ浜の西上の山の中に、数珠山演習砲台があった。北側に28cm榴弾砲4門、南側に24cmカノン砲4門が備砲されていた。しかし28cm榴弾砲台は2000年頃に開発の為に消失してしまった。24cmカノン砲台は辛うじて残っているが、いつまで残っているかは不明である。

 築城時期やその後の経緯については明確に判らない。現代本邦築城史には演習砲台の記述は無く、アジア歴史資料センターで関係ありそうなものを引っ張って並べてみたが、いつの時点で数珠山演習砲台が竣工したのかは不明確である。




日付 記事
大正4年10月27日 下関要塞数珠山演習砲台竣工図書調製[1]
大正13年9月6日 陸密第225号 下関重砲兵連隊演習砲台(28cm?)新設工事[2]
大正14年4月30日 陸密第225号 28cm砲台? 竣工[2]
大正15年2月3日 28cm榴弾砲4門 備砲工事竣工[3]
大正15年7月7日 陸密第112号 下関重砲兵連隊24cm加農演習砲台新設工事[4]
大正15年7月27日 24cmカノン砲4門 大久野島より移設[5]
昭和2年3月31日 24cmカノン砲 備砲工事竣工[5]
昭和4年4月8日 88式海岸射撃具用観測所増設工事(28cm榴弾砲台) 竣工[6]
昭和10年2月2日 88式海岸射撃具用観測所増設工事(24cmカノン砲台) 竣工[7]
昭和20年9月 米軍への引渡:28cm榴弾砲4門、7.5cm野砲1門[8]

[1] 下関要塞演習砲台関係竣功図書の件_C01007468800 [2] 演習砲台新設に関する件(アジア歴史資料センター:C03022702100)
[3] 演習砲台備砲工事実施の件(アジア歴史資料センター:C03012228400)
[4] 下関重砲兵聯隊24糎加農演習砲台新設工事実施の件(アジア歴史資料センター:C03022754500)
[5] 演習砲台備砲工事実施並兵器調弁の件(アジア歴史資料センター:C01006063200)
[6] 下関要塞数珠演習砲台増築の件(アジア歴史資料センター:C01003861100)
[7] 下関要塞演習砲台珠数山分観測所増築工事実施の件(アジア歴史資料センター:C01007484900)
[8] 下関重砲兵連隊史
[9] 写真が語る山口県の空襲 米軍が記録した偵察・攻撃・損害(著者・発行者 工藤洋三)








左:砲座Aを南西から、右:同左


左:砲座A内部北西面、右:砲座Aを北東から


左:斜面を下る通路(左)と28cm榴弾砲台への軍道(右)、右:弾薬庫Bとその上の小隊長位置


左:小隊長位置と弾薬庫B、右:小隊長位置


左:弾薬庫B、右:Bの南にあるNTTの電波施設




左:砲座Cを南西から、右:同左


左:平坦地D(探照灯壕跡)、右:同左


左:砲座Eを北東から、右:同左


左:砲座Eの南隅、右:砲座Eの内部


左:弾薬庫F、右:同左上のボルト跡




左:弾薬庫F内部、右:同左


左:砲座Eを西から、右:同左


左:砲座Eの西にあるコンクリート構造物、右:同左続き、弾薬庫Fの裏手のコンクリート構造物


左:弾薬庫Fの裏手から北東方向を、右:弾薬庫Fの上の小隊長位置


左:砲座Gを西から、右:同左


左:砲座Gの北西縁、右:同左南西縁




左:左翼観測所Hを南東から、右:北西側


左:観測所Hの西側、右:東側の内部


左:観測所Hの真ん中の階段、右:同左上の指揮所


左:指揮所左手の穴、右:右手の穴


左:指揮所の縁、右:観測所H西側の部屋から東側の部屋を




左:南東側を、右:観測具の基礎


左:観測具基礎、右:同左の北東側


左:観測具の南西側、右:西側、内部にあった鉄板とリベットの跡


左:観測所Hを北西上から、右:同左アップ、元々は手前側もコンクリートで覆われていた




左:観測所Hの北西側、穴とその手前に剥いだコンクリ板、右:観測所Hを北から


左:HとJの間から西を、右:同左からJを


左:HとJの間から東を、右:聴音機壕Iの跡の平坦地


左:聴音機壕Iの跡の平坦地、右:窪地Jを南東から


左:窪地Jを北西から、右:陸軍の標柱




 住宅地に囲まれた狭い尾根の上に、4基の砲座と弾薬庫、観測所などの遺構が残っている。

 北東から南西にかけてA、C、E、Gの4基の24cmカノン砲座が並んでいる。それぞれ内径が約9.5mであり、AとCの間にB、EとGの間にFと、弾薬庫がそれぞれ配置されている。また弾薬庫の上には小隊長位置が設けられている。弾薬庫Fの北裏には、何らかの構造物と思われるコンクリート板が幾つか土に埋まっている。

 砲台の南西端には観測所Hがある。東西に2ヶ所の部屋があり、その中間には2階にある指揮所へ上る階段がある。西側の部屋の北には観測具が置かれていた空間がある。中央に観測具の基礎があり、周囲に部分的に壁が残っている。内面に鉄板とリベットの跡が残っている事から、内側が鉄板で囲まれ、それをコンクリートで覆っていたものが、戦後の金偏景気の際に崩され、中の鉄板が盗られてしまった跡であると思われる。
 資料に[7]、「左翼観測所西方約15m標高約44m付近に88式海岸射撃具用観測所1を設く」とあり、また望月さんの記録にもHの南側に別の構造物の写真が載っている事から、もう1ヵ所遺構が残っている可能性が高い。

 第二次世界大戦時には、この敷地に照空陣地が置かれていた。航空写真を見るとDの位置に探照灯壕が、Iの位置に聴音機壕が写っているのだが、戦後埋められてしまったのか、Dはほぼ何も痕跡が無く、Iは薄っすらと円形窪地の跡が残っているのみである。Iの西隣には窪地Jがある。地下壕が崩落した跡か、半地下式の指揮所跡か何かだと思われるが、良くわからない。

 北西に降る尾根上に、陸軍標柱が1本建っていた。








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