生石山砲台



2003.4.17更新



要塞関係の情報というのは少なくて、中世城郭の様に図書館やネット上で山ほどの資料が揃うわけでもなく、また数少ない貴重な資料である日本築城史の概略地図がいい加減で、鳴門要塞で全然違う場所を徘徊させられた痛い経験もある。そうした事を考えると、知り得た情報はなるべく発表して同様な被害者を少なくしなければならない。
実際、しっかりと情報がHPにまとめられていた下関要塞や加太要塞では、すんなりと見て回れた事実を見ても、先達の情報は重要なのである。恩返しの意味にも、がんばらなければならない。

と言う事で第一弾は、HP上にも情報が存在しない、淡路島方面の由良要塞の生石山砲台から行きたいと思う。




由良要塞一覧



由良は淡路島の南東の端。洲本市の南東10kmにある。対岸には紀伊半島が突き出し、紀淡海峡を生成している。大阪湾防衛の為、この紀淡海峡の両岸と海峡上の友が島に、由良要塞として多くの砲台が作られた。
今回紹介する生石山砲台は、由良の町の南部にある標高100mほどの山の上にある。南東に海が広がり景色も良く、戦後も海上自衛隊の監視所、展望台、灯台、ホテルと様々な物が作られている。現在は両端に生石山展望台と淡路島ビラ(ホテル)とが存在し、その間は手付かずの荒れ山になっている。









生石山第一砲台


左:28cm榴弾砲砲座、右:砲側庫

武装:28cm榴弾砲6門、首線:SW5度、射界:270度
着工:明治22年5月 ― 竣工:明治23年7月
備砲:明治28年11月―29年12月

東西100mほどに、28cm榴弾砲が2門づつ配備されていた。戦後米軍により砲側庫等が破壊されている。
現在はすぐ南に展望台が造られているが、砲台は樹木に覆われている為に展望台からは砲台の存在には気付き難くなっている。
破壊された砲側庫の瓦礫が転がり歩きづらい。横墻の上にある筈の観測所は、瓦礫が崩れる危険があったので確認できず。



生石山第二砲台

謎の構造物、第2次大戦中の高射砲の砲座か?


武装:28cm榴弾砲6門、首線:SE35度、射界:270度
着工:明治22年8月 ― 竣工:明治23年8月
備砲:明治27年3月―28年10月

第一砲台の北東に連なっている。第一砲台と同様の造りで、28cm榴弾砲が2門づつ配置されている。ここも樹木繁生している上に、破壊されたコンクリートやレンガの瓦礫が転がり、更に自衛隊時代のフェンスが走っているために回りづらくなっている。横墻の上にある筈の観測所は、瓦礫とフェンスに阻まれて確認できず。
第一砲台と第二砲台の折れ角部の南東には灯台があり、その灯台の北側には写真にあるような謎の建築物跡が残っている。かなり初期の観測所の跡かとも思われるが、詳細は不明。



生石山第三砲台


左:24cmカノン砲砲座、右:観測所

武装(右翼):ス式36口径24cmカノン砲4門、首線:SE50度、射界:230度
武装(左翼):ス式26口径24cmカノン砲4門、首線:SE50度、射界:230度
着工:明治22年3月 ― 竣工:明治23年10月
備砲:明治30年10月―31年3月

生石山砲台の中では最も早く着工されている。
生石山展望台へと向かう道の途中で淡路島ビラへと分かれるY字路がある。この中間にある小さな道を進むと、海上自衛隊大阪基地隊淡路警備所跡の門に行当たる。門は閉ざされ、左右にはフェンスが走っていて中には入れない。入れなかったのだから、第3砲台に関する以後の記述は、夢で見た記憶を基に書いているのに間違いない。写真も念写である。
(夢の中で)門をくぐると、道は警備所のトイレ跡等を経由して、監視所跡に至っている。この途中、左手に三角点の小山があるのだが、実はここが既に砲台の横墻の一つとなっている。手前の砲座1基分は、道を作る際に埋め立てられているようだ。
ここから北に7基の砲座が連なっているが、途中でフェンスに阻まれてしまい、一度西側の一段下がった塁道に降りなければならなくなる。この階段を下りると、日本築城史に写真が載っている貯水所跡がある。
北の端には観測所跡があり、その北は断崖絶壁となっている。第5砲台はこの崖下に位置している。
砲側庫は半地下式となっているが、現在は埋もれてしまい、フェンスに邪魔されたのも合わせて内部を確認する事は出来なかった。
この第3砲台と南東の第2砲台の間にある最高地の小山に、別途観測所が設けられているらしいが、とても山に入る元気も無かったので確認はしていない。



生石山第四砲台


左:砲座間の横墻、中:観測所、右:砲側庫

武装:ス式30口径27cmカノン砲4門、首線:SE85度、射界:210度
着工:明治22年4月 ― 竣工:明治23年5月
備砲:明治29年3月―29年12月

淡路島ビラの北側に樹木の生い茂った小山があり、ここが第4砲台のなれの果てである。戦前は無かった、北側を回り込む道路が造られた際に砲座後部の塁道の北側は削り取られ、南側は埋め立てられ、まともに見れる砲側庫は2ヶ所しかない。(もちろんここも破壊はされているが)
砲座も最北の1個とその南の半分だけが残る。最北の砲座の北側の小山には観測所跡があるが、ここも破壊が激しい。
樹木も繁生し、道路から一見しただけでは分からなくなっている。淡路島ビラとしては、不気味な砲台跡が見えない方が良いのか知れないが、もう少し何とかして欲しいものである。



生石山第五砲台


左:砲側庫?、中:砲座下部、右:12cmカノン砲砲座

武装:ク式40口径12cmカノン砲4門、首線:SE85度、射界:210度
着工:明治32年5月 ― 竣工:明治35年12月
備砲:明治33年4月―33年4月

第4砲台から第3砲台のY字路へ向かう途中、東側の斜面に獣道のような山道が北東へと続いており、ここを登ると第5砲台へと至る。分かり辛いので大体の所で斜面を直登してもよいかもしれない。
年代も新しく、小口径の砲台なので、構造が他の4砲台とは全く違っている。他の要塞の12cmカノン砲台と比べても砲側庫の規模が小さい。砲台のすぐ北には観測所跡らしきものが残っているが、コンクリートが粉々に粉砕されていて、実際に観測所があったかどうか分からない。
本来、砲台には軍道が繋がっているものだが、ここにはそれらしきものが無い。西側を走る舗装道路を作る際に削られてしまったのかもしれない。



生石山堡塁


左:塹壕の通路壁、中:堡塁内に飾ってある24cmカノン砲(?)の砲身、右:堡塁内部

武装:15cm臼砲4門(砲座のみ)、首線:―、射界:―
着工:明治28年12月 ― 竣工:明治30年3月

第一砲台にある展望台の北に、展望台用の駐車場がある。周りがレンガや石垣で覆われており、また堡塁独特の塹壕(通路?)も北西部を走っており、ここが生石山堡塁ではないかと思われる。しかし、明治期国土防衛史に付図によると、生石山堡塁はここより更に西に100mほど行った地点に記入されており、こことは別に本物の堡塁が存在している可能性がある。
駐車場へと入る道の脇から、この堡塁の北東を廻って北へと続く軍道跡がある。200mほど進んでみたが、どうも下へと降りる道らしい。
現在では展望台の一部として整備され、駐車場の他にベンチが作られている。また24cmカノン砲らしき砲身の残骸が飾られている。今度行く際には物差しを持っていかなければならない。




生石山砲台の遺構としては、この他にも第4砲台の北東に電灯照明場が、また第3砲台の東の谷に弾薬庫や発電所跡等があるのだが、未確認である。ただ地図を見る限り、道路や自衛隊関連施設が造られた際に破壊された可能性もある。


生石山砲台(2005.1.8.再訪)


第4砲台の砲側庫、堡塁の塹壕



第1砲台の砲側庫、砲座と横楼に上がる階段



第1と第2砲台の間にある台座(観測器?)、駐車場から高崎砲台



発電所の冷却水用貯水池?、発電所取水口?



取水口上部にあるい井戸、発電所建屋とその裏の瓦礫




2年ぶりくらいに来たら、潅木や雑草がある程度切り払われて見学しやすくなっていた。しかし相変わらず第2、第3砲台は開放されておらず、他の部分も整備されているとは言えない状態のままであることには変わりない。

また偶然に発電所を発見。案外と凝った造りの上によく残っていた。この発電所の裏手に電灯所があったものと思われるが、時間が無かったので見れなかった。



成山砲台


観測所から成山第1砲台(21cmカノン砲×6)、第1砲台の15cmカノン砲砲台



南方、高崎砲台・生石山砲台を望む、西側下平坦地にある井戸





元々陸続きだったものが江戸中期に運河で分離され、明治時代には砲台が築かれ、戦後には国民宿舎が建設され、平成には何も無くなった。今は砲台の残骸を中心に残っているだけで、由良城の痕跡は全く残っていない。
砲台の残骸も少ない。
成山第1砲台南部の15cmカノン砲台は形だけは残しているものの、爆破によってコンクリートと煉瓦の遺構は破片となって転がっている。更に雑草や潅木も生茂り、撮影は困難である。
第1砲台北部の21cmカノン砲台は、観測所の一部を残して、真っ更になってしまった。探せば何か出てくるのかもしれないが、ススキが生茂って地形を把握するのも難しい。
北側にある成山第2砲台の28cm榴弾砲台は、完全に矢竹に覆われて入る事すら出来ない。入り口に手が加わっていないので意外と奇麗な形で残っているのかもしれないが、直径1cm以上もある竹を片っ端から刈り取らない限り、入る事も撮る事も不可能である。
北西隅にある筈の第2砲台の12cmカノン砲台は、時間が無かったので行かなかった。以前に一人で来た際に、それらしき場所を歩いた事があるのだが、砲台のようなものが有ったという記憶が無い。恐らく15cmカノン砲台と同様に、爆破で破片となったコンクリ片が草に埋もれてしまっているのだろう。
21cmカノン砲台の西手から下に下りる軍道は、国民宿舎時代にも使われていたようでしっかりと残っている。この軍道脇には、要塞時代の井戸や排水口、炊事場の跡等が点在している。


成山砲台:紀淡海峡を封鎖する為に、明治23年から建設された。火砲によって備砲の時期はまちまちで、全部の火砲の備砲が終わったのは、明治32年である。またその殆どは、大正13年の要塞整理で廃止となった。




主な参考資料:

・明治期国土防衛史 付図
・日本築城史

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