肥後・天草遠征 2日目
平成27年1月10日〜12日
棚底城の石垣
左:天草諸島、右:熊本周辺(GoogleMapを基に作図、クリックで拡大)
○1月11日
意外と大きな天草下島をぐるっと1周するのに時間もかかりそうなので、日が昇る前に移動を開始して距離を稼ぐことに。
小宮地城
左:主郭平坦面、右:主郭の東下の平坦地
左:主郭西下の二重堀切、右:同左の東側の掘切
左:西側の堀切、右:北に伸びる細い平坦地
左:北端の土塁、右:同左の北下の堀切
左:北下の堀切を横から、右:最北端
左:南麓の神社の北裏にある堀切、右:神社
天草下島親和町小宮地集落の北にある。南西麓の元小学校の土俵裏から神社に登る道があり、神社裏手を尾根筋に主郭へと登る。
薮なようで、道はそれなりにしっかりしている。単調な尾根を切ってメリハリを付ける必要から、規模の割に明確な二重堀切がある。
南に伸びる尾根上に神社があるが、この神社関連の平坦地も縄張に含まれるのかもしれない。
小松崎砲台
左:砲座正面、右:同左
左:内部、右:所々に鉄筋盗りの跡有り
左:弾薬置き場らしい凹み、右:天井のフックは盗難済み
左:出入口、右壁面の小さな複数の穴は武装解除時の爆破跡、右:出入口の外、崩されている
左:道路から、右:崩れ落ちたコンクリート塊
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C67-9、国土地理院)
ダイビングで有名な小松崎の北の谷筋に、砲台とその関連施設があった。砲台は2ヵ所あり、南東側の砲台は道路のすぐ近くでアクセスも比較的(道があるわけではない)楽だが、それよりも奥の遺構は薮が酷くて近寄れなかった。(施設位置は「熊本の戦争遺跡」による)
南東側の砲台は、鉄筋盗りによる破壊が一部は行っているものの、良く形状を残している。備砲は12cm高角砲。北側に出入口が設けられているが、破壊されたのかそれとも土砂崩れで壊れたのか、部分的にコンクリート壁が崩落している。
1970年代の航空写真を見ると、砲台の東にあるコボシ岬の尾根に、南西に向けて切り欠きのようなものが写っている。長崎平戸の生月砲台で同様の造作があったので、初期にこちらで工事をしていて、途中で現在の位置に変更されたのかと思い、該当する場所に入ってみたものの、それらしい地形は残っていなかった。ただ写真の地形とも異なっており、どこかで出た土砂で埋められてしまったのではないか…と思いたい。
久玉城
左:東麓の屋敷跡付近、右:南東端の社の下の石垣
左:南東の郭、右:同左南下の石垣
左:主郭、右:主郭北西の土塁
左:北端の堀切、右:主郭から東に伸びる郭群の一つ、薮
左:谷地、右:同左奥にある井戸跡
天草下島南端の久玉町にある。国道266号線を挟んで久玉小学校の西にある山が久玉城である。
ほぼ全域が整備されているが、主郭から東に伸びる尾根上の郭群は薮に埋もれている。所々に石垣が見受けられる。
河内浦城
左:北端の郭にある縦堀、右:北端の郭から主郭方向を
左:主郭北下の堀切、右:同左から主郭方向を
左:主郭、右:主郭の南下の郭
左:更に南下の郭、右:西下の長い平坦地、一見林道だが郭
天草下島の中央から少し南にある河浦町の中心部にある。城山の東麓に温泉施設があり、ここの駐車場を利用できる。
よく整備されているが、空中通路のような木の階段は、10年もすると使い物にならなくなるような気がする。
富岡城
左:二の丸の北隅の櫓、右:出丸の北西下の石垣
左:二の丸北西面、右:二の丸西下
左:伊勢守丸の西下、右:本丸の北下の縦堀
左:本丸と二の丸の南西面、右:大手口?
左:本丸への入り口、右:同左から北方向を
左:本丸、右:二の丸の南東面
左:二の丸の立像、右:二の丸から本丸を
左:百間土手、右上に城山が見える、右:百間土手の北東側
左:大手門の石垣、右:百間土手の上
天草下島の北西に突き出た陸繋島の中央部にある。
修復と言うよりも、新規築城中というような感じになっていた。構造物もボリュームがあり、また城山からの眺めも素晴らしく、一般人向けの観光名所としては良い場所だとは思うが。ちょっとやりすぎなようにも。
富岡砲台
左:矢印付近に砲座がある、右:右奥に
左:砲座、右:内部
左:天井部、右:少し横から
左:射界は殆ど無い、右:弾薬庫の痕跡
同じ富岡の、四季咲岬の近くに海軍の海面砲台跡がある。
12cm高角砲が2門配備されていたが、残っているのは西側のコンクリート製の砲座のみである。「熊本の戦争遺跡」によると、東側の砲座は素掘りに木材補強しただけのもので、現在は何も残っていないらしい。2基の砲座の中間に弾薬庫の横穴があったらしいが、崩れた痕跡しかない。また北の尾根上には観測所跡が、また砲座のある谷の東の山頂には海軍の特設見張所がある。
民家の横にあるので、掘り込まれた駐車場のように見える。小松崎にある砲座と比べて天井のコンクリートが薄い。右奥南方向に出入口があるが崩落している。調べれば反対側の出入口の痕跡もあるのかもしれない。
戦争末期の砲台の特徴である、海上から視認し難いものの射界が殆ど無い配置をしている。
志岐城
左:主郭、右:主郭の南隅の土塁
左:主郭から北西を、右:主郭の南東下の郭
左:南西面、右:北西方向
左:北西端の郭、右:上水施設から主郭方向を
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C75-3、国土地理院)
苓北町の南東、消防署の苓北分署裏手から山頂へ登る車道が出ており、主郭の直ぐ下まで車で登る事が出来る。
全域が公園として整備されており、またそれぞれの郭も広いが、土塁や堀切といった防御施設が乏しく、単調でもある。
下内野城
左:東から(碑は建て直してある)、右:社ピーク手前の平坦地
左:社、右:社のある平坦地の西側
左:社のある平坦地の西下の堀切?、右:社のある平坦地北縁の土塁
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C74-12、国土地理院)
天草下島の北東側、県道47号線沿いの手野集落の北約500mにある。
HP上で調べると東側の道脇に碑が建っているとあったのだが見つからない。よく調べてみると碑は倒れて草むらに隠れていた。登り口もある事はあり山頂に行くことができたが、社のある郭の西半分から先は薮になっており、社のある郭の西から北に回る土塁を確認して撤退する。
GoogleEarthを見ると、西半分は畑になっており、そちらから回り込めば最高所まで行けたかもしれない。
上野原(三川)城
左:北側のピークを南下から、右:同左北西にある土塁
左:北側のピーク、右:同左北側
左:真ん中のピークを望む、右:真ん中のピークから北側を
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C75-12、国土地理院)
登り道が判りづらい。偶々山の持ち主が畑をしており、伺うと途中まで案内していただけた。案内慣れされていたので、こうして訪ねる人も多いのだろう。
縄張図を見ると3ヶ所のピークがあるようだが、南側のピークに行く道は見つけられなかった。
本渡城
左:取り付き部から南に伸びる尾根を、右:同左付近から北側の郭を
左:東面の(まばらな)石垣、右:同左続き
左:主郭の南下の郭、右:主郭東下の郭
左:主郭南端の土塁…だったような、右:主郭
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C49-17、国土地理院)
天草上島東にある本渡の西にある。明徳寺の駐車場に車を停められるが、寺前の道路は一方通行で、南側からしか登れない。
明徳時南側の墓地から登るが、案内も何も無い。墓地の端から山に入るのだが、地形図を見ながらエイヤで登るしかない。今回は上手く昔の道に行き当たった。多少薮に埋もれてはいたが、鉈鎌までは必要なかった。
山に埋もれつつある。石垣があるが、小さな玉石なので、後年の畑のものかもしれない。
棚底城
左:郭8、右:郭8から郭7を
左:郭7の東面の石垣、右:同左
左:郭7の南面の石垣、右:郭6の虎口
左:郭5から郭4を、右:郭4から郭5を
左:郭4、右:郭3の東下の石垣
左:郭3から郭2を、右:郭2から郭3を
左:郭2から郭1を、右:郭1の北下の平坦地、奥に土塁というか横堀
左:北下の横堀、右:横堀だったような、そうでないような
左:横堀、右:西端の堀切と土橋
左:郭1の北西端から南東を、右:郭1の南東端から北西を
左:北西の櫓台のようなもの、右:郭1から郭2を
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C53-33、国土地理院)
天草上島の南側中央部、倉岳集落の北西にある。
国指定になり整備も良くされており、登り口にはカラーのパンフレットも置かれている。
尾根沿いに郭が一直線に連なった典型的な縄張りだが、それぞれの段差がメリハリがあるか、無くとも石垣が見受けられ十分に楽しめる。また郭1(主郭)の北下面には3重の横堀がある。
時間が無くて回れなかったが、倉岳集落には石塁で囲まれた民家が多く、車で走っていても面白かった。パンフレットによると、他にも石造り地下式用水路もあるらしい。
栖本(湯船原)城
左:主郭部、一応ここまで車で登れる、右:主郭を別角度から
左:上水設備、右:同左東奥のピーク
左:主郭南下の郭、右:主郭南東下の円性寺
右:1970年代の航空写真(CKU7418-C52-28、国土地理院)
主郭まで歩いて登ってみると、主郭まで車で登れたことが判明。
看板や碑はあるが、平坦地のみで土塁や堀切等のメリハリは無い。
宇土まで戻って一泊。
近くの馬肉屋直営の焼肉屋で夕食。
美味しいのだが、それなりに高い。
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