だんじりドライブ

平成17年9月18日〜19日




加太港、右の船が友が島への渡船



○9月19日

午前5時半に起床。昨日買ったコッペパンとコロッケで簡単に朝食を摂る。コロッケは衣に水と油が回り切っているし、コッペパンもボソボソトして美味しく無い。部屋に冷蔵庫があれば卵サンドでも買っておきたかったが、といって部屋代が高くなるのも…。クーラーバックでも持ってきて置けばよかった。



明るくなりつつある和歌山市内を南へ。
秋葉山公園の西側にある県民プールの駐車場に車を停めて、秋葉山を登る。




弥勒寺山城


左:展望台から平坦地、右:平坦地を南から


左:南側の平坦地の東側の段、右:段の上




麓から5分ほど。山頂は広い平坦地になっている。南側の平坦地の東側に一段高い段があるが、土塁なのか本丸の最高所なのかはわからない。他に堀とか土塁といった遺構は存在しない。

天正5年(1577年)の、第1回雑賀合戦の際の雑賀側の本陣。南北に流れる雑賀川沿いに砦を幾つも設けて織田方の6万の軍勢を迎え撃ったが、2週間ほどで降伏した。本願寺の別院が鷺森に移る前にこの地にあったともいわれている。



弥勒寺山城のすぐ南の小山が雑賀城だが、登り口が判らなくて変な小路に迷い込んでしまう。山の北東に交番があり、その西が公園になっており、その奥に登り口がある。車を停められるような場所が無いので、県民プールに置いたまま歩いてくるのが良いだろう。ちなみに我々は、困った挙句に交番の駐車場にこっそりと置かせてもらったのだが、この事実は口が裂けても言えない。




雑賀城


左:本丸?に建つ御堂の東側、右:御堂の正面の階段(南側)


左:西側、天神山の展望台が見える、右:公園と登り口




本丸?に御堂が建っており、そこに道が通じている。
本丸?は狭い。地図を見ると北西方向に山が延びているので、そちらにも郭が続いているものと思われるが、木が生茂っていて入ることが出来なかった。

鈴木佐太夫が築いたといわれている。雑賀合戦の際は支城の一つとして使われた。



南海和歌山港線と南海加太線を乗り潰したいという電車男窪谷さんを和歌山港駅で降ろし、榊さんと二人で和歌山城へ行く。
ただ友が島行きの渡船の時間まで余り無いので、30分程で回らなければならない。




和歌山城


左:天守への入り口、右:南西から


左:南側の石垣、右:本丸下の石垣




門跡を利用した駐車場に車を停めて、山を登る。こじんまりした城で、天守閣に登ったりしなければ30分で回ることもできる。というか朝早すぎて開いていないので入れなかった。

天正13年(1585年)の紀州平定の後、和泉・紀州の2カ国を与えられた羽柴秀長の居城として、若山に秀吉自らの縄張りで城を築いたのが初めとである。関が原の戦いの後には浅野幸長が37万石で入城。元和年間には広島に国替えとなった浅野氏に代わって徳川家康の第十子頼宣が55万石で入城。正保年間(1644年〜48年)まで断続的に普請が続けられたが、幕府から嫌疑がかかるようになり、途中で普請工事を中止することとなった。



県道7号線を加太港へ。朝方で空いていたので30分程で到着。

車を駐車場に停めて港で窪谷さんを待つも、なかなか現れない。携帯に電話してみても電源が切られていて繋がらない。

渡船は9:00出港で、10分前の8:50から乗船が始まるのだが、乗船が始まっても姿が見えない。もう一度電話をかけようとしたら、こちらの残高が無くなって(未だにプリペード式を使っている)電話をかけられない。頭が真っ白になる。
そこへ運良く窪谷さんから電話がかかる。
「港はどこ?」
「赤い橋の下です」
「赤い橋?え、そうなの?さっき渡って、ずっと先に行っちゃったよ」
「直ぐに引き返してください」
榊さんに3人分の乗船券を買っておいてもらい、窪谷さんを探しに行く。堤防の上に立つと、遠くでこちらに引き返している窪谷さんを見つけ、手を振る。窪谷さんの方でも気がつき手を振り返す。判り難い道を案内して乗り場に誘導。どうにか出港3分前に乗船する事が出来た。
ところが窪谷さんが水を買っていなかったので、「Webの情報によると島には何も売っていないですよ」と言って水を購入しておいてもらう。しかし島に渡ったら売店も自販機もあり、これまた面目丸つぶれになる。夏期限定なのだろうけど。


地図で見ると近そうだが、20分ほどかかる。途中、深山砲台の真下を走るのだが、もやが出ていたので良い写真が撮れなかった。虎島への通路もしかり。




友が島要塞




上陸。海水浴の出来なくなった時期だが、釣り客、キャンプ客、ハイカー等で案外と賑わっている。
まずは第5砲台から始め、第3、第1、第2の順で回り、時間的に余裕が出たら第4砲台も回るという予定で開始した。






友が島第5砲台


左:弾薬庫跡、右:12cmカノン砲座


左:刻んだ倒木と雑木・雑草に覆われている、右:オリジナルの鉄扉?


海の家から旧軍道の山道に入って10分ほど。砲台と弾薬庫の2ヶ所に分かれている。弾薬庫区画には2棟の建て屋跡があり、奥の弾薬庫跡は建物が辛うじて残っている。
弾薬庫の台座は通気性確保の為か煉瓦で頑丈なアーチが組まれている。やたらと頑丈な土台を組むのは、12cmカノン砲の砲弾とは言え一応重量物を載せる為なのだろう。
砲台そのものは良く残っているのだが、雑草が生茂り、倒木を切り刻んだ丸太が散乱している。見せる気が無いのだろうか。

明治36年(1903年)着工、38年竣工。スカ式12cm速射カノン砲6門。太平洋戦争中も使用され、戦後爆破された。



次に第3砲台へ。島の最高所(約120m)にあるだけあって、軍道でも登るのは辛い。15分程かかったような記憶がある。




友が島第3砲台


左:背面(北側)の通路、右:擂鉢状の28cm榴弾砲砲座


左:砲座間にある指揮所、右:指揮所への登り口、梯子を掛けるらしい


左:砲座間の地下通路、右:地下弾薬庫からの揚弾孔


左:揚弾用の滑車とレール、右:地下通路から見た砲座


左:地下弾薬庫、奥天井に揚弾孔がある、右:棲息掩蔽部


左:看守衛舎、右側の穴は銃眼、右:左翼観測所への通路


島で最大の砲台(28cm榴弾砲8門)。施設も大掛かりであり、保存も一番良い。
しかし、それでも左翼の4門(東側)の砲座は泥が溜まっていた(入らなかった)。また砲座の周囲も雑木が群生しており、地下通路を使わないと移動も困難である。

明治23年(1890年)着工、25年に竣工。28cm榴弾砲8門で、備砲は明治29年に終了。太平洋戦争中も配備ついていた。



時間が無い事がわかり、第4砲台は諦めて第1砲台へと向かう。途中に海軍の聴音所への分岐点があった。



左:第1砲台東下の平坦部、現在はキャンプ地、右:井戸がある

第1砲台のある丘の東側は窪地になっており、貯水池や兵舎等があったものと思われる。現在は芝生の植わったキャンプ場となっている。飲用にはできないものの当時の井戸も使われている。




友が島第1砲台


左:左翼の観測所、右:天蓋に塗られたコンクリートが剥がれ落ちている


左:観測所内部、開口部は移動式、右:後部の出入口


左:棲息掩蔽部、現在は立ち入り禁止、右:カノン砲座


左:カノン砲座、右:右翼観測所を望む


灯台と展望台になっている。左翼の観測所と、砲座が2ヶ所程入れる他は立ち入り禁止になっている。また潅木も繁茂している。右翼の観測所は時間が無かったので調べていない。
この第1砲台の観測所には、珍しく鉄製の施設が残っている。一般的に要塞にあった武器以外の鉄製品は、付近の住民の略奪にあってことごとく無くなってしまっているものだが、島に有った為か掠奪にあわずに残っている。ただ錆びてサイパンの97式戦車みたいになってしまっているので、早く保存処理を施してもらいところである。

明治22年(1889年)に着工、23年に竣工。防盾付きス式27cmカノン砲4門。備砲は29年。太平洋戦争時にも使用されたが、戦後に爆破された。



時間が無いので、大急ぎで山を下る。富士旅館の西側の奥にある。




第2砲台の左翼(南)の山に、トーチカらしきものを発見する。時間があれば出入口の調査くらいしておきたかったが、1分でも惜しかったので写真を撮るだけにする。形からして太平洋戦争の頃のものと思われるが、第1砲台の後部を防御する為に作られたのだろうか。



友が島第2砲台


左:左翼後方から、右:海岸方向(西側)から、崩落が激しい


左:左翼の海岸側、段差構造が珍しい、右:左翼施設、比較的良く残っている


左:右からの2番目の砲座、ほぼバラバラ、右:左翼半分


左:右翼の砲座間施設は完全に無い、右:最右翼はほぼ消滅


5分ほどで見なければならなかったので、立ち入り禁止の内部には入らなかった。もう15分程あれば色々と見れたかと思うと残念である。ただ崩落が激しく、南海地震でもあれば崩壊してしまう恐れがあるので、用心しなければならない。
構造は余り見ない珍しいもので、それだけに残念でもある。復元に挑戦する奇特な方はいないのだろうか。

明治27年(1894年)着工、31年に竣工。カ式鋼製28口径27cmカノン砲4門で、明治31年に備砲完了。



大急ぎで桟橋に戻る。第2砲台から桟橋まで10分というところで、本当に出港10分前に第2砲台を後にしたので、早足で時計を睨みながらの強行軍となった。どうにか間に合って11時30分の便で友が島を後にする。





男良谷砲台とその下(海岸部)の謎の施設。トンネルの出口のようなものが2つ見える。一つは海岸へ降りるトンネルで、もう一つは排水口か何かだろうか。釣りかキャンプをしているのか、人が海岸に居た。



県道65号線を北上、大阪府に入って深日から国道26号線に入り、更に北上。しかし国道に入った直後から渋滞に引っかかる。
3〜4kmを走るのに30分以上かかる。ナビの判断ミスで抜け道に入り損ねてしまい、気が重くなる。渋滞の原因だが、どうもバイパス別れの右折レーンが短すぎて、それが蜿蜒と引っ張っていたようである。

阪南市に入ってからはまともに進み始めたが、それでもあまり早くない。泉南市からは海岸沿いの県道を走るが、今思うと渋滞原因になっていた国道26号線のバイパスに素直に入っておいた方が良かったのではとも思う。

泉佐野市、貝塚市と越えて、漸く岸和田市へと突入。



岸和田城


左:本丸南東部、右:本丸北東部


左:本丸東部、右:二の丸北西部




イメージよりも立派な城で驚く。堀と石垣だけなら和歌山城と良い勝負だ。天守閣には入らずに、30分くらいかけて1週する。

今の岸和田城の南東に古城があったといわれており、応永年間(1394年〜1428年)頃に山名氏清の家臣であった信濃氏が今の岸和田城の位置に城を移したとされている。その後、入れ替わり立ち代りに城主が替わり、文禄4年(1595年)頃から小出秀政によって今のような本格的な城郭へと築城されていった。元和5年(1619年)には松平康重が5万石で転封され、寛永17年(1640年)には岡部宣勝が6万石(松平氏が検地も無しに勝手に1万石増申告した為に1万石増)で入城。和歌山への備えとして更に普請を続け、6万石としては過分な城郭に整備した。その後岡部氏のまま明治維新を迎えた。



以上で遠征日程全て終了。大急ぎで天王寺駅へと向かう。
国道26号線を北上するのだが、西成区に入った辺りで沿線の様子がガラッと悪くなる。狭い道で名古屋駐車は止めて欲しい。運転も乱暴である。
スモーク入りの高級車に注意しながら、ガソリンを満タンにして新今宮で右折すると、途端に渋滞に引っかかる。天王寺駅のゴールまで、結局15分くらいかかる。16時までの返却期限で、駅に着いたのは15時30分だった。ギリギリである。

車を返却する際にレンタカー屋のおやじから、天王寺周辺はどうしても渋滞する事、どのみち新大阪から帰るのであれば、JRのレンタカーだと50km範囲なら乗り捨て無料なので、新大阪駅で乗り捨てれば早かった、と言われた。今度からは気をつけよう。

新大阪まで移動し、そこで窪谷さん、榊さんと別れる。
一人広島に帰るのだが、結婚式の背広と、引き出物とで移動が大変だった。




一応総括:
念願の友が島、そして楠木氏関連の城郭に行けたので、内容の濃い2日間だった。
しかし、友が島の第4砲台を逃したのは大きい。謎の地下施設等もあり、第2砲台の再訪とも絡めて、もう一度は行ってみたい。その際には対岸の男良谷砲台と、その海岸の謎の施設も同時に落としておきたい。


戦果
	攻撃対象	17城

	うち 棄権	0城

			17城	攻略



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