ドイツの防空の起源は、1870年から71年にかけての普仏戦争にまでさかのぼる。包囲されたパリからコミュニストが熱気球を使って脱出を行ったことから、ドイツ軍はこのフランスの気球と交戦可能な兵器を緊急に要望するに至った。クルップの兵器工場はすぐに移動可能な台車に装備した36mm対気球砲(Ballonabwehrkanone、もしくはB.A.K.)を製造した。しかしこれを気球に命中させて撃墜することは、当初考えていたよりも困難であった。包囲中に66基の気球が離陸したが、ドイツ軍が撃墜出来たのは1870年11月12日の「Daguerre」のたった1基のみであった。事実、気球や飛行船、航空機を対象とした場合に関連する技術的、機械的問題は、その後75年にも渡り、対空砲によって空の標的との交戦を困難にする主要因であり続けるのである。例えば、ドイツ軍の砲手はフランスの首都周辺を全てカバーする為に、分散配置して機動力に頼っていた。1870年の終わりの時点で、ドイツ軍はまだこうした砲を、都市の全周囲で6門しか持っていなかった為である。気球に砲弾が命中したとしても、36mm砲弾の破片では気球を貫通出来ても撃墜させるほどまでの損傷を与えることが出来ない事が多かった。こうした事があって、フランス側は気球砲による脅威を最小限にする為に、単純に気球を夜に離陸させるようになる。1871年にパリが完全に陥落すると、以後35年間、ドイツの防空研究と開発も中断されることになる。
20世紀に入って飛行船や飛行機が出始めると、空気よりも軽い航空機(飛行船)と空気よりも重い航空機(飛行機)のどちらもが、偵察や砲撃という面から、軍事的能力における重要性を増してくるようになった。第一次世界大戦までの数年間に、ドイツは飛行船の建造に多くの資材を投入した。Count Ferdinand von Zeppelin(ツェッペリン)は、こうした航空機が高価であるものの、飛行船ならどんな天気でも、夜でも昼でも、敵の部隊を攻撃することが可能であることを軍を説得した。こうしてツェッペリンは軍にも、民間の金持ちにも飛行船を売り込むことに成功したのである。民間への売り込みでは、ツェッペリンは1910年から14年にかけてドイツ国内で約34000人の乗客を運び、商業的にも成功している。しかしツェッペリンの大流行は悪影響も生じ、当時(外国に対して)脅威となっていた海軍と同じように、イギリスとフランスに対してツェッペリンによる爆撃の脅威を与える切欠となった。Bremerhaven(北部の港町)のドイツの小学生達は悪い事をすると「フィッシャー艦隊が来るわよ!」と注意をされていたが、同じように彼らの敵対国であるイギリスとフランスとでは、ドイツによる空からの奇襲という幻想を恐れていたのである。
飛行船の設計と製造において他国よりも進歩している一方で、ドイツの工業界は飛行船を撃墜可能な対空砲の開発も開始したが、ここでは対気球砲の手法が使われた。1906年に国防省の砲兵試験委員会(Artillery Providing Commision)は、フランスの気球技術が進んでいることについて警告している。1906年の1月29日付の命令でSixt von Arnim大将(General)は、フランスの潜在的な脅威に対抗する手段を取らなければらならない事を警告している。こうして将軍は砲兵学校に対して問題の研究と委員会への報告書の準備を命令した。
ドイツの工業界もまた対空砲の需要を認識し、いくつかの試作品を作成した。1906年のベルリンの自動車博覧会で、Rheinische Metallwaren und Maschinenfabrik、後のラインメタルが、軽い装甲を施した自動車に搭載した、対飛行船砲として使用する50mm砲を展示した。1908年にはクルップの兵器工場が、回転可能な円盤に搭載して360度の全周旋回可能とし、また60度までの仰角を取る事のできるようにした65mm砲を製造した。1909年のフランクフルト国際博覧会でも、クルップとラインメタルはこのような対空砲を再び展示した。クルップはこの65mm砲に加えて、自動車に搭載した75mm砲と艦艇での防空用の105mm砲を紹介した。面白い事に、こうした砲の幾つかに砲手を保護する装甲が装備されていたが、気球や飛行船が対空砲の砲手の脅威にはならない事を認識していれば、これは無駄なことと見られただろう。こうした初期の設計は好奇心を誘いはしたが、ヨーロッパの陸軍から注文されることは殆ど無かった。
一方で、ドイツ陸軍は防空分野に急に興味を抱くようになり、一般兵器による対空攻撃を評価する幾つかのテストを行った。1907年に、陸軍は一般的な野砲によってモーターボートに曳航した気球を射撃させた。結果は満足のいくものではなく、一般の野砲は空中目標との戦闘には適さない事が判明した。1909年3月にJuterborgの歩兵学校で行われた2回目の射撃試験では、標準的な歩兵兵器の気球に対する評価が行われた。この試験では2個歩兵分隊(detachment)が参加し、高度4,000フィートに浮いた長さ50フィートの係留気球が用いられた。最初の歩兵分隊(squad)が4,800発のライフル弾を発射したが、はっきりとした変化は無かった。続いて次の部隊が2,700発を何丁かのマキシム機銃で発射したが、こちらも目立った効果が無かった。気球を地上に下ろしてみたところ、この試験で76発の穴が開いていたにもかかわらず、気球はまだ浮上可能な状態であった。この試験によって、目標に命中させることだけでなく(気球の機体に当たっていたのは全体の1%にすぎなかった)、使用する弾薬の種類も重要であることが判明したのである。こうした悪い結果を基に、ドイツ陸軍は歩兵の兵器では気球にはほとんど効果が無いという結論に至り、より適切な砲弾が必要であることを認識したのであった。
キャンバス地の気球を射撃することには、砲弾そのものの物理的形状と構成とに問題があった。砲弾を炸裂させる信管をどのようにするかも、技術的に難しかった。気球の柔らかい機体では反発力が弱く、相当に敏感な激発信管が必要とされたが、それは同時に腔発事故による危険性も含んでいた。それに加えて飛翔する砲弾を追跡するという更に厄介な問題も控えていた。一般的な砲での射撃の場合、砲弾の命中した地点を観測鏡によって測定し、距離と方位角の修正を行っていた。しかし空中の目標への射撃の場合はこれが不可能である。射撃修正を行う為に砲弾の軌跡を認識する何らかの別の手法が必要であった。そこでクルップの技術者が、焼夷物質を弾の前半分に、発煙物質を後半分に装填した砲弾を設計し、これによって問題の解決を図ろうとした。射撃すると、黒い雲が筋が砲弾の軌跡に残り、この軌跡を追う事で射撃修正を可能にしたのである。しかし、意図した目標と砲弾の炸裂した位置との関係を認識することは困難で、問題は解決しなかった。後に効率的な防空システムの構築を行う際においも、どのタイプの弾薬、砲弾、信管を使用するかという技術的問題において大きな障害が残ることになる。
ドイツ陸軍の上級指揮官もまた飛行船からの攻撃に対する防御の重要性が増していることを認識していた。1910年3月10日の覚書の中で、参謀総長のヘルムス・フォン・モルトケ大将(Helmuth von Moltke)は、フランスの飛行船の脅威について述べている。モルトケはドイツの飛行船の武装化を主張していたが、「しかし、敵の飛行船を撃墜するのは地上からでなければならない」と注意を喚起している。しかしモルトケは専用用途の砲の要求は却下している。彼は更にダンチヒ湾での長期にわたる対空射撃試験の早期実施も「こうした試験においていかなる困難があろうとも実施すべきだ」と強く主張している。モルトケは、特に飛行船の機動を追尾し測距を行う砲員の能力の詳細における防空能力についての報告を求めるとして、覚書を結んでいる。
モルトケの個人的努力は望んだ結果をもたらした。1910年の定期陸軍演習において、陸軍は対空兵器の基本となる2種類の兵器を試験した。1つ目は75mm砲をトラックの荷台に搭載したもので、もう一つは歩兵用の機銃を同じくトラックの荷台に搭載したものであった。どちらもコンセプトは砲に機動性を持たせるとしたものであるのは明白であったが、野砲をそのままトラックの荷台に搭載しただけだったので、砲手やトラックに色々な問題が発生した。射撃時の反動が相当な衝撃をトラックの車体にかかり、また空間が狭かった為に、弾の装填と砲の照準がかなり難しかった。そして最も大きかったのが、火器管制システムが無かった為に砲の有効性がほとんど無かった事である。照準望遠鏡による直接照準は技能以前の問題だった。それと対照的に、車載機銃の方は期待以上の結果が出た。自由に射撃姿勢を取りやすく、射撃速度が速さ、そして必要な空間が小さいこと、砲員の要求に合っていることが明らかに良い結果をもたらした。機銃の主な欠点は射程が短かった事である。これは大きな問題で、機銃の射程よりも高い高度では航空機に自由に行動されてしまうことになる。
第一次世界大戦の前の数年間の間に、飛行船だけではなく飛行機も急速に脅威となっていった。ドイツ参謀本部は、航空機技術の優位性が将来の軍事作戦と密接な関係を持つことになると認識していた。1911年から12年までのイタリアのリビアにおける作戦と、1912年におけるバルカン戦争での航空機の使用は、航空機の可能性を押し上げていった。ドイツに近いこともあって参謀本部にとってより気にかかったのは、フランスで実施された精密爆撃を含んだ飛行試験の成功であった。ドイツ航空隊の司令官だったErnst von Hoppner大将(General、ヘープナー)は、戦後の回想録の中で以下のように言っている。
ドイツ本土防衛に欠けていた大きなものは、ドイツでは幾つもの機関がそれぞれの権力をバラバラに持っていた事である。こうした機関としては、州政府(Lander)、官僚機関と警察、地方軍司令部、そして地方軍基地などがあった。この混沌として非効率なシステムを整理し、合理化する最初の試みとして、国防省は将校のHugo Grimme大佐に、ドイツ本土と西部国境、そして西部戦線における防空に関する改善点の調査と調整をさせた。その後の7月10日に、ドイツ軍の上級司令部は「高射砲兵総監(Inspekuteur der Fliegerabwehrkanonen)」という役職を作り、作戦地域と本土のどちらもの防衛を担当させた。それに加えて主要な軍のそれぞれの参謀に防空将校(Stabsoffizizier der Flakartillerie)の役職を新設した。
Grimme大佐は高射砲兵総監としてドイツ軍の総司令部に配属され、参謀総長の直属となった。Grimmeは陸軍全体の高射砲の配備と兵員の配属の権限を持っており、また高射砲学校の管理と防空操典(?regulation)の作成を監督していた。しかしGrimmeの陸軍内での影響力は限定されたもので、1916年の春には彼の反対にもかかわらず、陸軍補給部長(Chief of Ordnance)が高射砲の権限を持つようになった。補給部長は早速に馬牽引砲を各師団に分散し、車載砲を主要軍の高射砲参謀の配属とした。補給部長がGrimmeから権限を取り上げたことは、より伝統的な精神の陸軍将官の力が強く、かつ初めての防空組織が表面上のものだけであったことを物語っている。
組織改編に加えて、陸軍はまたドイツの対空兵器の資材不足にも注目した。連合軍によるドイツ本土の空襲によって、前線に配備する予定だった高射砲の一部を本土防衛用に転用することになった。1915年3月に国防省は「部隊向けの高射砲の増産が要望されているが、今は後方に配備する時である」と警告している。この配置転換は脆い状態だった本土防衛を強化する為にどうしても必要だった。1915年6月には本土に配備された高射砲は、前線で270門に対してまだ150門だけだった。本土防空用の高射砲の数を増やすのに加えて、北はハンブルグから南はミュンヘンまでの半円地帯に5か所の防空地域を作った。しかし連合軍の爆撃機の航続距離の短さから、ドイツはフランスと接する西部国境への防空力の集中をすることができた。防空地域の設立と関係して、1915年にはまた防空警戒隊(Flugmeldedienst)がドイツ本土の高射砲兵総監の下に作られた。この防空警戒隊は防空システムの要となった。敵の攻撃の兵力と方向とを事前警告することにより、空襲の前に迎撃機を発進させ高射砲部隊に警報を出す事が出来た。ドイツの西部国境沿いに二重に防空監視線を設け、これは後には全国へと広げられたが、それによって切迫している攻撃の認識を補助することになったが、しかし警戒システムそのものは非合理で非効率な連絡網のままであった。
ドイツの空と地上での防空の際組織に関係する最も大きな事は、1916年10月8日にErnst von Hoppener大将が新しく作られた航空隊司令官に任命された事である。1860年に生まれたHoppenerは、騎兵将校から始めてベルリンの軍事学校に入り、参謀本部に勤務していた。戦争の始めにはHoppenerは第3軍の参謀長だったが、航空隊司令官になる前には東部戦線の第75予備師団の師団長の職にあった。黎明期の航空隊の長となったHoppenerに与えられた仕事は、「軍事資材の同一開発に編成、そして雇用」だった。この再編成は、ドイツ航空隊と高射砲部隊、そして航空通信隊(Flying Signals Service)をHoppenerの下へと統合するものだった。ドイツ航空隊を作る皇帝の命令では、「空の戦いの重要性が大きくなり、陸軍の前線と本土とにある全ての空と防空資源を統合しなければならなくなった」と宣言されている。Hoppenerは自身の戦争の回顧録の中で自分に課せられた仕事を次のように言っている。: