航空機追尾システムに技術的不足があったものの、防空部隊は高射砲部隊の効率増大の為に、幾つかの組織的手法や訓練を導入した。例えば、第8航空指揮区域(Silesia/Protectorate)で出された指針では、新しい部隊をゼロから作ることによって引き起こされる問題を回避する為に、新しい高射砲連隊や中隊を既存の部隊から編成することを命じている。新しい部隊の中核となる中心的な幹部を維持することによって、部隊全体における専門的知識の度合を維持し、防空兵器全般での熟達レベルを増加させることを狙っていた。各種の常備並びに予備部隊での射撃訓練のレベルの違いを考慮して、ドイツ空軍は、第8将校補充年次集団(the 8th Officer Replacement Year Group、補充システムの一つらしいが詳細不明)の射撃訓練を、RerikとStolpemundeにある高射砲学校でも実施するようにした。それに加えて、ゲーリングは前線と本土との間での防空要員の交代を標準的なものとするよう命令した。要員の交代を行う事により、本土へ帰還する機会を提供するだけでなく、より活動的な西部戦線で戦闘経験を積んだ多くの将兵を供給することになったのである。
更なる効率改善のために、高射砲兵総監局(office of the Inspector of the Flak Artillery)は1941年1月から高射砲通信(Flak Newsletter、Flak Nachrichtenblatt)の発行を開始した。ドイツ空軍はこの高射砲通信によって、全ての将校と先任下士官に対して高射砲に関する情報を広めようとした。高射砲通信では重要な命令や指令、状況報告、指針、そして法令の抜粋を掲載していた。更に防空全般に関係する事象について、作戦部隊からのフィードバックを提供する公開討論会を開いた。高射砲兵科の上級指導者も、実戦の準備での理論的教育の重要性を重視し続けていた。例えば高射砲部隊は、射撃手法だけでなく、射撃操作への射撃用レーダーの組み込みといった事に焦点を置いた兵棋演習を実施した。
聴音機対レーダー
防空部隊の指導者は実用的な指導改善も重視していた。レーダーの不足から、防空部隊は探索や訓練、そして運用に聴音機を使用し続けなければならなかった。そこでドイツ空軍は、イギリスの爆撃機を探知する3種類の手法を評価する事で、最も効果的な音響手法を決定しようとしていた。1つ目の手法は、以前から行われていた2基の聴音機を離れた場所で使用し、双方から傍受した音響情報(aural intercept)をプロットするというものである。2つ目の手法は、聴音機をなるべく高射砲から離れた場所に設置し、大気中のノイズレベルを低減するというものである。そして3つ目の手法は2つ目とは対照的で、高射砲陣地内で何人かの聴音機操作員によって聴音機を操作し、高射砲の間近であっても良い結果が得られるかどうかを決定するというものである。高射砲開発局(Flak Development Office)の有名な局長であるWilhelm von Renz大将は、3番目の手法が最も成功を収めたとしている。それに加えてvon Renzは、「部隊が新しい射撃位置へ移動した時や、敵の部隊が決まったコースを誘導電波に従って飛行している時には、特に不意打ち射撃が成功した」と断言している。聴音機などによる探照灯の照射という事前警告の無い突然の射撃は、驚くほどの良い成績を収め、以後繰り返されることになる。
音による探知手法における主要な欠点は、爆撃機のエンジンで生成された音が聴音機操作員の耳に届くまでにかかる時間に、その航空機はある距離を移動してしまっているという「音速ラグ」にあった。そして更に気象条件が、航空機の位置探知と射撃諸元計算を複雑にした。それに加えて、RAFの密集編隊攻撃の採用とイギリスの爆撃機の速度の上昇は、こうした問題は更に悪化させて聴音機の効果を薄くしてしまった。しかし以上のような音響探知を煩わせる問題が多くあったにもかかわらず、1944年8月時点でも、ドイツ空軍では5500基を越す聴音機を使っていたのである。
1941年の初めには、非光学照準射撃に関する問題への解決策が具体化しつつあった。レーダー機器が次第に増強されるに従って、高射砲部隊に希望が広がっていった。ある顕著な例としては、射撃用レーダーからのRAFの爆撃機の正確な位置情報が繰り返し第25高射砲連隊の高射砲陣地にもたらされたことにより、2月10日夜に1機を未確認ながらも撃墜した、というものがある。一方で、結果が期待に添わなかった事が2月末に書かれた報告書に次のように表れている:
1941年春のレーダーによる戦力の上昇は、他の理由からも重要な事であった。ドイツ空軍は弾幕射撃手法を用いることで、RAFの爆撃機の攻撃を妨害し、爆撃精度を下げることには成功していたものの、その結果として弾薬の消耗量が大きくなっていた。3月にゲーリングは高射砲弾の不足に対して、88mm高射砲弾の生産を加速させるよう命令を出した。1月には既に、37mm高射機関砲弾の不足から、指揮照準射撃(?directed-fire、Vernichtungsfeuer)に制限するよう、軽高射砲中隊に対して通達が出されていた。しかし実際には、弾薬の不足による問題は主としてドイツ空軍が自ら招いたものであった。1940年6月にフランスが降伏した後、国防軍の作戦計画者が資材を潜水艦や航空機、そして戦車の製造へと振り向けたため、88mm高射砲の砲弾の目標生産数は100,000発を下回るようになっていたのである。
ドイツ空軍の作戦計画者は、すぐに高射砲弾の増産が必要だと認識し、月産数の割り当てを初めは400,000発から後に1,000,000発、そして段階的に2,000,000発まで増加した。そしてゲーリングは、兵器と弾薬大臣(?Reich Ministry for Armaments and Ammunition)であると同時に、帝国防衛評議会(Reich Defence Council)の議長である地位を利用して、兵器調達の為の2つの新しい特別な優先度を1941年2月に制定した。「S」と、更にその上の「SS」という優先度は、資源の割り当てと生産に関して最優先されることになる。高射砲とその弾薬はどちらも優先度は「SS」とされたが、限定された資源経済の閉鎖的なシステム内での生産において、割当量まで増産してゆくことはそれ程簡単なものではなかった。例えば、生産工程の中での幾つかの障害要素として、薬莢(shell casing)、発射薬、炸薬、そして時限信管があった。薬莢の場合では、ドイツ空軍は新しく製造する他に使用済みの砲弾の再利用を行っていた。しかし再利用した薬莢は再利用する前に清掃行程を経る必要があったものの、清掃行程の能力は限られていた。発射薬と炸薬の障害は、占領地域で接収した施設と工場の利用と、代用火薬の使用で部分的にではあるが緩和された。そして時限信管の製作は、精密な工作機械と高い技術を持つ作業者とが必要な複雑な工程であった。その為に増産の努力にもかかわらず、ドイツ空軍と海軍向けの時限信管の生産量の合計数は、1941年4月の初めの時点で月産600,000個であった。
88mm高射砲弾の製造に関する障害にもかかわらず、生産数は1941年の第2四半期で月産890,000発から第3四半期で1,260,000発、そして第4四半期で1,300,000発へと飛躍的に増大した。これは、9ヶ月間に88mm高射砲弾の生産数は月産で710,000発も増大したことになる。しかし月産200万発という目標はドイツの弾薬工業の能力を大幅に上回っており、1943年の第4四半期に88mm高射砲弾を月産1,440,000発生産したのが限界であった。
弾薬生産に関する障害は、防空部隊の設立と維持に必要な複雑で多大な労力に関する、幾つかの洞察をもたらした。しかしその一方で、弾薬消費量の増大からくる別の障害と問題が待っていた。弾薬の消費が増えることで高射砲の砲身の交換時期が早くなってしまったが、それ以前に高射砲は初速が大きかった為に一般の火砲よりも砲身寿命が短かく、問題はより悪化していた。1941年を通して、戦闘での破損や過度の使用による国防軍での88mm高射砲の月当たりの損耗数は41門であり、これは1940年の4倍であった。88mm高射砲の交換砲身と弾薬の不足に関連する問題によって、2月には「敵の攻撃機と認識された」航空機にのみ射撃を行うよう命令を出さざるを得なくなった。それに加えて高射砲陣地付近を飛行する航空機であっても、「射撃状況が良好なもの」のみ交戦を許可するという命令も出される始末であった。しかしその2週間後には交戦を制限した命令は撤回され、代わりに「いつ、どこにいようとも、敵機とは常に交戦すべし」という命令が出し直された。
高射砲部隊が直面している問題は、砲身寿命の短さや弾薬の大量消費だけではなかった。それに加えて高射砲部隊では、1941年春に砲身を破壊する腔発が多く発生していた。腔発は砲身を破壊するだけでなく砲手を危険にさらすことから深刻な問題であった。この事故の原因は2つある。まず砲弾そのものの、薬莢への弾頭の挿入に関しての組立作業が粗く(??砲弾の薬室への装填の仕方が悪く)、それが腔発(?premature detonation)を引き起こす原因の多くを占めていた。そして2つ目として、幾つかの例では弾薬の製造不良そのものが原因であった。そして前者では、高射砲部隊そのもので訓練不足や操作時の不注意が存在した兆候も示しているが、この不足は、より良い監督と詳細に至る深い注意によって修正する事は可能である。それとは対照的に後者の場合は、戦争における機会と摩擦の役割(??role of chance and friction in warfare)についての例であり、戦争遂行における固有の要因の1つである(?? an inherent element in the prosecution of armed conflict)。
1941年2月20日の状況報告で、高射砲兵総監のKurt Steudemann大将は、現在の高射砲に関する問題について次のように悲観的な記述をしている。「近い将来、機器、兵器、そして弾薬のいずれもが、任務の遂行に不足することになり得る。」同様に、高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)であるRudelも、発射速度を増やそうとするあまり、砲手が標準の射撃操作を守らなくなっていると不平を述べている。そしてRudelは高射砲の指揮官に対して「訓練と操作の標準化は、作戦準備の必須事項である」と強調している。彼はまた、直下の指揮官に対して「高射砲の能力を完全に発揮させる為には、高射砲を正しく使用させる事が絶対に必要である。」と注意した。
対空ミサイルという新しい選択肢
1941年2月、夜間の対空射撃に関する問題で高まる不満に対応するために、主計総監局(Quartermaster General's office)の軍事技術者であるDr. Friederich Halder大佐は、遠隔操作の対空ミサイルの開発計画を提案した。その後の5月7日には、第一次世界大戦の砲兵部門のベテランで、第三帝国のロケットとミサイル計画の中心人物の一人であるWalter Dornbergerは、Peenemundeの科学者に対して高度50,000から60,000フィートまで届く液体燃料の対空ミサイルの製造の可能性についての研究を命令した。ヴェルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)は、ドイツの「復讐兵器(vengeance weapon)」もしくはVミサイルの開発計画を行っていたPeenemundeでの、研究と発射施設におけるドイツのミサイル研究の責任者であった。フォン・ブラウンは対空ミサイルの製作計画を検討したが、代替案の方がより良いことを確信した。対空ミサイルの製造にはかなりの資材が必要となることから、フォン・ブラウンは地対空ミサイル(SAM)の代わりに、ロケット推進による迎撃機の構想に熱心になった。1941年6月、技術局の技術主任だったRoluf Luchtは、Peenemundeの複合研究施設を訪れた際にフォン・ブラウンとそのスタッフと話をし、自ら高射砲兵科からの代表者としての来ていたにもかかわらず、ロケット推進の迎撃機というロケット技術者達の提案を受け入れてしまった。6月に、Rudelはもう一度、イギリスの爆撃機と戦う為の遠隔操縦ミサイルの開発を主題とした提案を行ったが、彼の提案はドイツ空軍の上級指導者達から余り支持されなかった。結局、ドイツ空軍が対空ミサイルの開発計画に賛同するようになるまでに数年の歳月が要したが、この遅れは高射砲部隊の希望でもあった地対空ミサイル開発に大きな代償を与える事になった。
1941年春にドイツ空軍の上級司令部は、本土防空の効率改善のための幾つかの組織改革を実行していた。防空部隊の戦力向上の為の大きな組織的再構築は、1941年3月に行われた。1月の終わりに、第3並びに第4航空指揮区域の司令官だったHubert Weise大将は、本土防空を改良する為の航空指揮区域の組織再編に関する研究を完了した。デンマーク、ノルウェイ、そして西部における作戦が無事に終了した後、拡大した地域を吸収する為に、ドイツ空軍はノルウェイを含む第5航空管区を新たに追加した。そして第2並びに第3航空管区の拡張によって、ドイツ本土の航空指揮区域を1つの指揮下にまとめようとする動きとなった。Weiseは自らの研究の中で、本土防空の再構築のための3つの可能性について検討を行っている。まず1つ目は、ドイツ本土の全ての空軍部隊を指揮する本土航空管区(Air Region Homeland、Luftflotte Heimat)を創設するというものである。2つ目は、ドイツ本土の全ての航空指揮区域を、中間の航空管区を経由せず、ゲーリングの直接の管理下に移すというものである。3つ目は、本土防空軍(Air Defence Homeland、Luftverteidigung Heimat)という、ドイツ本土の迎撃機と地上防空のみの任務を受け持つ新しい司令部を組織するというものである。
ドイツ空軍は2番目の、独立した航空指揮区域の指揮官をゲーリングに直属させる案を拒否したが、これは独立した防空区域を幾つも作ってしまうと、ネットワークが分散化、異質化してしまうからである。それに加えてゲーリング自身、毎日の管理業務といった平凡な仕事を嫌っており、また帝国元帥閣下の大きな負担にもなってしまうために、この計画はもとから死文化していた。3番目の案は、ドイツ本土の防空任務を受け持っている全ての部隊を特にまとめようというものであるが、航空指揮区域に補給や管理上の補助を頼っているにもかかわらず、管理上航空指揮区域を飛ばしてしまう事になってしまう。そこで、最初の案が本土防空をまとめるのに最も良い解決方法のようであったので、ドイツ空軍は「空軍中央司令部(Air Force Commander, Center、Luftwaffenbefehlshaber mitte)」を1941年3月24日に創設した。
新しいシステムでは、本土の航空指揮区域にある全ての空軍の資産を、1つの司令部の下で集中管理することになり、これによって防空の手続(?procedure)の標準化や指揮系統の能率化が可能となった。特に、ゲーリングが高射砲兵科部門の将校だったWeiseを、新しい司令部の司令官に任命した。Weiseは西部戦線では第1高射砲軍団を指揮し、その後は第3並びに第4航空指揮区域の防空部隊を指揮していた。この「中央空軍司令官」という地位によって、Weiseは第3航空指揮区域(ベルリン)、第4航空指揮区域(ドレスデン)、第6航空指揮区域(ミュンスター)、第7航空指揮区域(ミュンヘン)、第11航空指揮区域(ハンブルグ)、第12並びに第13航空指揮区域(Wiesbaden)、そして第1夜間戦闘機師団(ユトレヒト近郊のZeist)の、全ての空軍部隊を指揮することになった。こうして空軍中央司令部の司令官として、Weiseはドイツ空軍の組織の中で変わった地位を占めることになったのである。実際に、空軍中央司令部は、航空指揮区域と主要な航空管区の間の特別な地位にあり、Weiseはドイツ空軍内の作戦用高射砲指揮官のトップとなった。
しかしこの再構築には幾つかの問題があり、完遂できなかった。ベルリンから何百マイルも離れたオランダにあるKammhuber指揮下の夜間戦闘機師団の位置は、Weiseにとって問題の一つであった。パイロット出身者以外に指揮権を渡す事を伝統的に嫌うパイロット気質から、Kammhuberは夜間戦闘機部隊の指揮権の独り占めを望み、空軍中央司令部から独立したまま存続できるように数々の努力をした。第3航空管区の指揮官だったSperrle空軍大将も、同様の問題をWeiseに負わせた。再構築されたにもかかわらず、ほとんどの迎撃機部隊とかなりの数の地上防空部隊とが西部占領諸国に残っており、Sperrleの管理下にあった。Kammhuberと同様に、Sperrleも自分の管区の高射砲部隊の指揮権を失う事を恐れ、またWeiseの新しい司令部に自分の作戦が統合されてしまう事を嫌がっていた。そしてSperrleは、第7、第12、第13航空指揮区域での管理と人事の両方の指揮権を、実際にはそれらの部隊がWeiseの作戦指揮下にあったにもかかわらず、強引に維持することに成功するのである。
一方で高射砲部隊の再編成によって良くなった面として、既存の防空司令部(Luftverteidigungskommandos)とほぼ同様に(?much like the existing air defence commands)、色々な航空指揮区域にある防空の重要性の高い地点(center of gravity)での編成における高射砲中隊の物理的配置が変更となった。その結果として、空港などの「カテゴリー1」の地域では、軽高射砲小隊が追加配備されることになった。更にドイツ空軍は、脅威の高い地域へ緊急に展開可能な機動予備部隊の必要性を重視し続けていた。
陸軍の高射砲に対する執念は、いくつかの面において完全に理解が可能である。北アフリカ、南東ヨーロッパ、そしてソビエト連邦での軍事作戦において、地上作戦を支援する高射砲部隊の効果が、再度知らしめられることとなったからである。例えばゲーリングに対する報告書の中で、陸軍に付属していた空軍大将(General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber des Heeres)は、北アフリカの砂漠をめぐる戦いにおいて、高射砲部隊が「必要不可欠な対戦車兵器」となっていることを指摘している。事実、1941年の終わりまでに、アフリカ軍団の2個の空軍高射砲大隊は、264台もの戦車と、たった42機の航空機を破壊している。それに加えて6個混成高射砲大隊と9個軽高射砲大隊は、13機の航空機と7台の戦車、30ヶ所のトーチカ、そして1ヶ所の戦車工場を南東ヨーロッパ戦線で破壊している。しかし、空軍の高射砲部隊が最も印象的な成功を収めたのは、東部のロシア戦線においてであった。1941年の終わりまでに、30個空軍混成高射砲大隊と11個軽高射砲大隊はソビエト連邦との作戦において、1,891機の航空機に926台の戦車、583ヶ所のトーチカという驚くような数の目標を破壊しているのである。ただし、高射砲部隊が活躍したこうした作戦におけるドイツ空軍の損害も大きく、合計で385名の将校と7,238名の兵が戦死している。
1942年2月28日のゲーリングに対する報告書で、陸軍に居た空軍の連絡将校はロシア戦線における高射砲部隊の効果についての評価を次のように行っている:
1941年秋にも防空部隊は急速に拡大しつつあった。この時点で高射砲戦力は、重高射砲中隊967個と軽高射砲中隊752個であった。それでもヒトラーは、9月に更なる地上防空の規模の拡大を命令した。例えば1941年9月15日から10月15日の間に、防空部隊は105mm重高射砲中隊が5個、37mm軽高射砲中隊が4個、20mm軽高射砲中隊が5個、そして鹵獲した40mm高射砲中隊が2個、そして150cm探照灯中隊が1個増加していた。そして同じ期間に、ドイツ空軍は49個の「弾幕射撃」中隊(barrier fire batteries、Sperrfeuerbatterien)を追加していた。この弾幕射撃中隊は、質的向上が量的拡大に追いついていない事を全く現わしている。こうした中隊では最も基本的な光学測距儀ですらほとんど欠けており、質より量の明確な例となっている。そして、こうした部隊の賛否両論についての綿密な分析によって、弾幕射撃の手法や究極的な効果の評価をより丁寧に行うことが可能となる。
弾幕射撃中隊創設の動きは、高射砲部隊の効果を測る為の標準に関しての、広い議論を反映している。撃墜数のみが防空部門の効果を構成するのか、それとも単に爆撃機の正確な攻撃を妨害する能力こそ高射砲の効果を測る手段となるのか?。1941年の終わりまでのRAFの空襲に対する防御での経験では、弾幕射撃の実際の唯一の利点が空襲の妨害と、それにより爆撃機の高度を上げさせ攻撃意図を消失させるという効果のみにある事が、明らかであった。実際にドイツ空軍から反対されていたものの、ヒトラーはこのような役割での高射砲の利用の提唱者であった。それに対して弾幕射撃手法の大きな欠点は、弾薬の消耗量の高さにあった。Milch達は、弾幕射撃の運用を非効果的で限られた資源を無駄にするものとして批判していた。Milchは実際に戦争を通して、高射砲については頑固な悲観主義者であり、高射砲指揮官をいびったり地上高射砲部隊の効果を誹謗することを大目に見ることもあった。そしてMilchは戦争中、一貫して高射砲よりも戦闘機を生産すべきだとしていた。Milchの高射砲に関する態度の原因を見つけるのは難しい。しかしMilchの高射砲嫌いは単純に、元砲兵将校としての、高射砲は一般的な大砲の「私生児」であるという軽蔑と、第一次世界大戦時に空中観測を経験した彼の、飛行機への強い贔屓からきたもののようである。
最終的な分析から、弾幕射撃に関係する議論で取り上げられる長短は、どちらも部分的には正しいといえる。弾幕射撃では膨大な弾薬を消費するが、しかし時間という面と、その役割と優勢な状況とを考慮して見なければならない。まず、弾幕射撃中隊のほとんどが、フランスやロシア、チェコ等で鹵獲した高射砲と機器を装備していた。この面において、鹵獲砲はドイツの弾薬に適応させる為に改造するか、もしくは鹵獲した弾薬の貯蔵品を使用する事ができたので、鹵獲兵器の使用は資源の大きな転換を要求しないのである。他の手法を採れば、それでも幾らかの資源の割り当てが必要となる事から、新しいドイツの高射砲を数百門、いや数千門製造するよりも、投資は比較的に少なく済むのである。その上、鹵獲した高射砲の品質が高い事も判明した。1941年7月に、ドイツ空軍はロシアの高射砲装備を調査し、国防軍で使用可能か評価する為の特殊部隊、空軍高射砲参謀(東部)(?Luftwaffe Flak Staff)を編成した。そしてドイツ空軍の予想に反して、鹵獲された兵器は例え単純な設計であっても高品質である事がわかったのである。次に、弾幕射撃中隊の殆どは、ドイツ本土にある偽施設での作戦に従事していた。偽施設は、イギリスの爆撃機軍団を上手く引き寄せる為に高射砲陣地を見せつけなければならなかった。その為に弾幕射撃中隊は、この作戦で短い時間に濃厚な射撃を行わなければならなかった。それに加えてこうした中隊は、未熟な高射砲兵が戦闘状況下で高射砲の運用の基本を学ぶための場でもあったのである。そして最後に、射撃指揮装置や射撃用レーダーを含めた、光学照準システムの不足は、大きな地方都市も防御する必要性が高まってきたこととも合わせて、弾幕射撃中隊を既存の部隊の補助として運用せざるを得なくした。以上の事から、こうした中隊が都市の防御に効果があったと見ることが可能であり、そして爆撃機の乗員に対する効果に加えて、空襲の間、住民にとってのある意味、精神的な満足と防御とになっていたのである。
弾幕射撃の例は、地上防空システムの特殊部分の評価に関連した多くの面を、上手く表している。探照灯中隊が高射砲と夜間戦闘機の両方を支援していたように、弾幕射撃中隊の運用も、特に偽施設の効果向上といった防空の他の部分に直接影響を及ぼしているのである。更にドイツ空軍は、鹵獲した高射砲を偽施設で使用することにより、高性能な機器や高射砲を他の場所に分配し、ドイツ本土の他の地域に防御範囲を広げる事が可能となったのである。最後に弾幕射撃中隊は、イギリス軍の空襲の際に、ある意味精神的満足をドイツ国民に与えているが、これは重要な、定量化できない効果である。
防空の改良のための技術的独創
1941年秋に高射砲部隊の指導者は、地上防空の効率向上のための手段を探し続けていた。その回答の1つが、既存の機器と兵器の能力向上である。1939年に、より高度を上げつつある爆撃機への対策とドイツ空軍のより高性能の移動式重高射砲をという要求から、88mm高射砲の改良型の開発契約がラインメタル社と結ばれた。そしてラインメタル社は1941年に88mm41型(88mm/41)の試作品を開発した。この41型は幾つかの新しい設計を取り入れることで効率が向上されていた。例えば、ターンテーブル架台を採用することによって(仰角の)軸を後方と下方に移動させ、対地上戦闘の際に砲のシルエットを極度に低くすることが可能となった。また砲身を3つの内装砲身(Seelenrohr)に分割し、均質でない損耗による砲身部品の個別交換を可能とした。砲身全体を交換することと比べて、砲身の必要な部分のみを交換する事により、資源を節約することが可能になっていた。
この新しい高射砲の最も重要な改良点は、最大射高48,500フィート、最大有効射高33,000フィートという、その群を抜いた弾道性能であった。更に41型の射撃速度は毎分20から25発、砲弾の初速は3,315フィート/sになっていた。新しい高射砲は、最大有効射高と初速とで既存の88mm高射砲の性能から20%も向上しており、更にはより大口径の105mm高射砲の弾道性能よりも優れていた。高射砲開発局(Flak Development Office)の元局長だったvon Renz大将は、この41型の性能を「128mmや150mm高射砲に匹敵する」とまで言っている。しかしRenzは、この砲の生産が1942年まで遅延したことから、Albert Speerの軍需省で先見の明の無い技術専門家として非難されることになるが、この生産遅延の原因は、既存の88mm砲と比べて1門当たり220ポンドも余分に資材を必要としていたからであった。こうした開発初期の困難や生産の遅延による苦しみにもかかわらず、41型は後に戦争中の無差別級(pound-for-pound)最優秀高射砲となるのである。
防空ドクトリンの評価
兵器や機器の性能向上に加えて、防空部局(air defence branch)は重高射砲中隊の砲数の増加を含めた、戦術レベルの組織再編成の試みを開始していた。ある歴史家によると、中隊の砲数を6門、8門、さらには10門にまで増加することを最初に提案したのは、ゲーリングだった。1941年の秋にドイツ空軍は、標準の中隊が4門編成であるのに対して、8門で構成した実験部隊を組織した。この部隊では、砲は7門が円周上に、そして8門目が円の中心部に配置されていた。Walther von Axthelm高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)によると、こうした「二倍中隊(double batteries、Doppelbarrerien)」が「航空機の撃墜において一定の能力向上があった」としているが、空軍の指導者の期待したレベルにまでは達しなかった。これと似た手法として、ドイツ空軍は1941年末に、多くの重高射砲中隊にそれぞれ2門の高射砲を増加した。この際の陣地での砲の配置だが、追加された2門を伝統的な正方形の配置の対角(opposite corners)に置くか、もしくは5門を円周上になるようにして6門目をその円の中心に配置するかのどちらかであった。この例の1つとして、ドイツ空軍は1941年12月にミュンヘンの周辺の防衛に、幾つかの6門編成の重高射砲中隊を編成している。
1941年の時点で、ドイツ空軍は高射砲と迎撃機の協調運用を重視し続けていた規定第16号(Regulation 16)の訓告を出したままであった。1941年12月に行われた兵棋演習では1944年の状況設定がされており、連合軍による西部での地上からの反攻も含まれていた。演習中の興味深い事象の1つは、どのような状況下でも、戦闘機と高射砲部隊による共同手段(?procedure)を重視していたことである。しかしこの報告書の最も重要な事は、この演習が地上防空側によって準備されたものではなく、むしろ航空部隊によって共同して作られたシナリオだということである。この演習は、ドクトリンでの高射砲と戦闘機の協調重視が双方の感情をなだめるように作られた、ただの見せかけ(window dressing)ではなく、むしろこの協調のコンセプトが双方の計画や任務遂行に不可欠なものである事を示している。そしてこの演習はまた、現在の防空が戦闘機かそれとも高射砲かという二者択一なものとしようとしている事が、誤った二分法(dichotomy)であることを表している。このように、Milchのような人が防空に関する議論を高射砲と戦闘機のどちらか一方という型にはめようとしていたものの、高射砲部隊の上級指導者は両者協調の必要性を明らかに認識していたのである。
しかし1941年末の時点では、ドイツ本土の防空の中心は明らかに地上の高射砲と探照灯部隊か、もしくは迎撃機かという状態のままであった。そしてドイツ空軍の昼間戦闘機部隊は東部戦線に集中しており、1941年の終わりまでドイツ本土に配備されていたのは1個飛行団だけであった。それとは対照的に、ドイツへ侵入する敵機を防御する、もしくはドイツ上空を守る夜間戦闘機の数は250機を越していた。ドイツ本土における空軍が昼間戦闘機よりも夜間戦闘機に重点を置いていたのは、その時期におけるRAFの空襲が夜間に集中していたからである。1941年の7月から10月までの間にドイツ本土と西部諸国に対して実施された夜間空襲の数は、昼間空襲の2倍であった。11月と12月になっても比率は変わらず、夜間が2,589回、昼間が1,243回であった。イギリス軍の空襲に加えて、8月と9月にはソビエト軍の爆撃機と雷撃機とが不意を突いてベルリンを70回以上空襲し、宣伝ビラと高性能爆弾を投下した。ソ連軍の空襲による被害は軽微であったが、しかしその結果、ドイツ空軍は幾らかの防空機材を短期間ではあるもののベルリン東部へと振り向けなければならなくなった。
この表から、夜間においても高射砲による撃墜数が比較的一定を保っていることがわかる。更にこの事は、RAFの夜間作戦に参加した航空機の、3.76%が9月に、2.51%が10月、4.01%が11月、そして2.47%が12月に高射砲によって撃墜されたという事を裏付けている。41年の後半の半年間に、ドイツ本土と占領下の西部諸国において、昼間に405機、夜間に242機の合計647機が高射砲に撃墜されている。それと対照的に、ドイツ空軍の夜間戦闘機が1941年に撃墜した合計数は421機である。しかも、これらの合計数には、東部戦線における、特に10月から12月までの空軍の高射砲部隊による1,325機の撃墜数は含まれていない。
ドイツの地上防空は、イギリスの爆撃機軍団の成長の切欠となった。1941年9月23日の手紙の中で、PeirseはPortalに対して「日増しに脅威の度合を増している敵の探照灯と高射砲への対抗策に関する実験を、敵の領空で実施する自由裁量権を与えられているかどうか、昨日の午後に君に尋ねた」と書いている。そしてPeirseは、高射砲と探照灯陣地への指示に使われているドイツ軍の射撃用レーダーを混乱させる「金属物」の投下に関する試験を、開始させてくれるよう要求している。それに対してPortalは9月30日の手紙の中で、作戦研究局(Operational Research Section)のSir Henry Tizardにその研究を依頼していると答えている。しかしPortalは、「Tizardは、そうした実験を実行するかどうか決定する前に、敵の探照灯が本当にR.D.F.(radio direction finding、電波方向探知)手法を利用して精度を向上させているかどうかの証明を行うべきだと考えている。Tizardはまた、その実験を実行することが、そのまま敵が我々自身の防御を打ち破る手助けとなりうることを考慮すべきだと考えている。」と警告している。
1941年秋にPortalとPeirseとの間で交わされた手紙から、後に「ウィンドウ(Window)」として知られる事になる、新しいレーダーの対抗手段が存在していたことがわかる。ウィンドウの原理は、長細いアルミニウム片の束を使う事で、この破片からの反射波が雲のようになり、これによって個々の航空機の位置を判らなくしてしまうというブランケット効果により、ドイツのレーダーを妨害するというものである。Peirseの手紙からはまた、1941年末までのドイツの地上防空の効果が向上している事と、作戦の損害を少なくする為に新しい対抗手段が必要だとPeirseが考えていた事とがわかる。結局、この簡単だが効果の高い対抗手段をドイツ軍も使用するようになる事への恐怖が、作戦の損害を軽くする事よりも優先され、RAFの指導者はこの時点でのウィンドウの導入を我慢する事を決断する。
1941年に高射砲部隊が概して成功を収めていたことと、イギリス軍による空襲が軽微であったことが、ゲーリングが元戦闘機パイロットでありながらドイツ本土の戦闘機部隊の拡大に熱心でなかったという矛盾を説明できるだろう。既に8月に、戦闘機部隊(?Fighter Arm)のトップであるWerner Molders大将と、夜間戦闘機部隊のトップであるJosef Kammhuber大将、そしてJeschonnekがゲーリングに対して、特に東部戦線での航空機の損害の増加に対応して、戦闘機部隊の規模を拡大する提案を行っていた。しかし楽天家のゲーリングはこれに対して、「ロシアはすぐに降伏する。そうなれば戦闘機を西部へ戻す。これでいいではないか」と答えていた。10月に再びMoldersとKammhuber、そして戦闘機エースのAdolf Gallandが、ゲーリングに対してドイツ本土を防御する為に昼間戦闘機を増産するよう申し入れている。しかしまたゲーリングは異議を唱え、「ドイツ空軍は攻撃すべきで防御すべきではない。総統から命令された報復空襲に同意して実行し給え」と声高に言った。しかしこの会合から1ヶ月後、ゲーリングの防空に対する信頼は厳しい試練にさらされることになる。