福山周辺の高射砲陣地等
更新履歴:
2007.6.22 公開
2007.6.29 一部写真更新、記事に追記
2007.9.12 福山連隊追加、廃川地更新、他微修正
2018.5.15 大幅な修正
 福山には古くから福山連隊があった他、戦争末期には陸軍の船舶砲兵の一部が福山や鞆に移動し、更には詫間海軍航空隊福山分遣隊が大津野の海岸に作られたりと、終戦時には軍事要衝となっていた。その為に福山周辺にも陸海軍の防空関連施設が何ヶ所か作られていたようである。




暁部隊教育施設?(陸軍)

 広島県戦災史[1]によると、福山には誠之館中学校(現在の福山誠之館高校)のグラウンド、廃川地(現競馬場)、福山連隊の3ヶ所に高射砲や高射機銃が配備されていたとある。また福山市多治米町誌[2]には、川口小学校、新涯一文字堤防、芦田川廃川地等に高射砲や機関砲があったと書かれている。これらがどこまで正確か、かぶっているかどうかは不明である。

 一方で、陸軍の暁部隊(輸送部隊)の船舶砲兵第一連隊と船舶機関砲第一連隊が福山に配置されていた[3]。この船舶砲兵部隊は陸軍の輸送船の防御を行う砲兵部隊であり、対空防御が主だったが、対潜攻撃も行っていた。また広島の例を見ると、港湾の防空を行うために陸上に高射砲陣地の構築も行っていたようである。
 「続福山空襲の記録」[4]によると「船舶砲兵第一連隊の内、7、800人が福山に配属されていたものの予備の高射砲2、3門しかなかった」とあるが、信憑性の有無は良く分からない。

 下記の廃川地も福山連隊も、どちらも暁部隊の船舶砲兵連隊の教育用施設と思われる。 軍事施設や市街地の防空を行う為のものであれば、陣地をこれだけ固めて配置することは有り得ない。特に福山連隊のものは、船を模した構造物が造られている。これは船上での防空射撃訓練を行うためのものだったのではないだろうか。

 誠之館中学校のグランドにあったと言われている物については確認できなかった。


廃川地

右:国会図書館蔵の米軍の航空写真(USB-15、R-13-416)

 現在は競馬場になっている廃川地と呼ばれる場所の、広いグラウンドのような所に4つ一組の砲座が2組と、幾つかの銃座らしきものが、また野球グラウンドの中にも砲座らしきものが写っている。

福山連隊
地図
現在の位置
R13-416
USB-15、R-13-416
R-13-412
USB-15、R-13-412
 上記写真はいずれも米軍の航空写真(国会図書館)

 現在の緑町公園に福山連隊の兵営があったが、この南西側の現在は三菱電機の敷地内に幾つかの砲座もしくは銃座らしきものが写っている。また面白い事に、輸送船を模した施設が造られている。当時、福山連隊の兵営には船舶砲兵連隊の一部が入っており、船舶防空用の教育施設ではないかと思われる。




海後山 超短波警戒機陣地?

イラスト1
高射砲の基礎
イラスト1
同左のアップ
地図
地図
M275-45
米軍の航空写真(M275-45、国土地理院)

 鞆の浦の西、海にそびえる高石垣で有名な阿伏兎観音のすぐ東上の尾根上に、高射砲のコンクリート基礎が残っている。沼隈町誌[5]では「昭和17年9月30日から10月10日にかけて広島高射砲隊によって造られた、福山の歩兵連隊を守る為の高射砲陣地」と説明されている。しかし、歩兵連隊の施設を防御するために高射砲や高射機関砲が配備されるということはなく、また高射砲部隊の記録を調べても、福山に高射砲部隊が配備されていたという記述は無い。

 実際に探索してみたところ、88式7cm野戦高射砲の固定陣地用(特)のコンクリート基礎が1基、きれいに残っている。しかし、高射砲の基礎はこれ1基しかなく、また周囲に砲側弾薬庫等の設備跡や土塁が無く、高射砲の砲座としては南東側が狭い(砲座の半径は4m前後)。


 戦後の航空写真を見ても、山の北東下に何かの建物が造られたことはあったが、この場所は一貫して山のまま放置されている。そのため、現在残る平坦地や各種遺構類は、当時のままのものだと思われる。

 基礎が1基しかないということは、これが高射砲の基礎である可能性は低いということである。なぜなら、高射砲は通常は4〜8基の中隊編成で運用されるからである。2基の小隊編成で運用されたこともあるが、1基のみということは有り得ない。高射砲による防空は、1機を撃墜する為に数百発の射撃が必要となる「数の」世界なのである。また、砲側弾薬庫や円形土塁といった施設も必須である。砲側弾薬庫は、鉄盗りや整地で破壊されることもあるが、ここでは基礎が破壊されず綺麗に残っていることから、元から無かったと思われる。弾薬庫が木製だったとしても、土塁の痕跡が残っていることが多い。
 訓練用としてということも無いことは無いだろうが、こんな山頂に訓練用の施設をわざわざ造ることは非効率であり、廃川地や福山連隊の敷地で十分である。
 そうなると、これは「高射砲の基礎の形をした、別の何か」なのではないか、という推測が出てくるのである。
 鞆の浦には、他にも陸軍の超短波警戒機陣地が置かれていた。種類は、警戒機乙の移動用であり、資料によって1基、もしくは2基となっている。そこで、「この警戒機乙移動用のアンテナ支柱の基礎部分に、88式野戦高射砲の基筒部(架台の内の、脚と砲架との間の部分)の部品を流用していたのではないのか?」という仮説を立ててみる。
 つまり、この高射砲のコンクリート基礎には、警戒機乙のアンテナが立てられていた、ということである。レーダーのアンテナマストであれば、1基しか基礎が無くとも、周囲が狭くとも、また砲側弾薬庫等の付属施設が無くとも、問題ないのである。

 しかし警戒機乙移動用は資料が少なく、構造がどのようになっていたのかが明確でない。今回立ててみた仮説も、不鮮明な写真に写っていた警戒機乙野戦用のトラック荷台上の基礎部が、88式高射砲の基筒部に似ていたのでひらめいたというだけである。また、これまで日御碕、由良等の幾つかの警戒機乙移動用の陣地跡を回ってみたのだが、これと同じ基礎を見つけることが出来ていない。その為、あくまでも仮説の域を出ない。妙に具体的な日付が書かれている沼隈町誌[5]の説明の方が正しい可能性もあるかもしれない。
 現地の状況については、後ほどここにまとめておく。

 2007年当時「広島県下で唯一の高射砲の基礎だ」などと書いていたのだが、88式7cm野戦高射砲(特)の基礎は広島市の元宇品にも残っていた。ただ公園整備の際に埋められたり破壊されているため、ここほどきれいではない。


仙酔島 高射砲陣地?
地図
地図
M816-25
米軍の航空写真(M816-25、国土地理院)

 「続福山空襲の記録」[4]の証言で、鞆の浦の東に浮かぶ仙酔島に、船舶砲兵第一連隊教育隊が配属されていたとある。しかし航空写真を見ても、島に平地は殆ど無い上に、建物や砲座らしきものを明確に確認できない。



福山海軍航空隊
地図
地図
M847-8
米軍の航空写真(M847-8、国土地理院)

 JFEスチール西日本製鉄所の北側に、詫間航空隊福山分遣隊、後に福山航空隊の基地があった。南側は埋め立てられ地形も大きく変っているが、防空壕やエプロン跡などの遺構が残っているらしい。
 昭和19年頃に作られたらしいが詳細は不明。福山戦災復興史[6]によると、北側の台地上に高射機関砲数門、海岸に5基くらいの高射機関銃を配備していたとあるが、航空写真ではそれらしいものは確認できなかった。また飛行艇は東の神島や茂平方面に4、5機づつ分散疎開していたそうである。

 福山航空隊の引渡目録[7]によると、防空用の兵器として13mm単装機銃が5丁と92式7.7mm機銃が4丁、あったようである。

神島 ?
地図
地図
M816-72
米軍の航空写真(M816-72、国土地理院)

 航空写真を見ると、県をまたがって笠岡市神島の大道周辺に円形窪地らしきものが写っている。探照灯の円形規模地か聴音壕のように見えなくも無いような。ただの影なのかもしれない。
 神島に何かがあったという情報は一切無いが、福山航空隊の飛行艇が神島にも分散疎開されていたとあるので、もしも何かがあるのであれば、海軍関連の施設かもしれない。
参考文献・リンク
  1. 「広島県戦災史」:広島県
  2. 「福山市多治米町誌」:広島県福山市多治米町誌編集委員会
  3. 「アメリカ第6軍資料」:国会図書館憲政資料室 WOR15346-15348
  4. 「続福山空襲の記録」:福山空襲を記録する会
  5. 「沼隈町誌」:沼隈町教育委員会
  6. 「福山戦災復興史」:福山戦災復興誌編さん委員会
  7. 「福山航空隊 引渡目録」:防衛省戦史資料室、アジア歴史資料センター、リファレンス番号:C08011367500



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