烏帽子山 防空高角砲台(聴測照射所)
2006.4.14 探索
2007.3.29 再探索
2023.3.5 再探索
2023.4.1 兵舎を探索
2023.6.18 大幅改定

赤色が攻略時の移動の軌跡、オレンジ色が旧軍道?

 呉市にある(天応)烏帽子岩山の一つ北のピークである上山(391m)から北側の尾根沿いにかけて防空高角砲台とその付属施設が、そして東麓の谷地に兵舎施設が、それぞれ分布している。尾根上の施設へは、北東麓にある呉市野外活動センターから中山、上山を経由して烏帽子岩山へと続く立派な登山道が整備されており、これを利用できるが、東麓の兵舎施設には、別ルートの登山道を途中で外れて藪漕ぎをしなければたどり着けない。
 2007年頃には高角砲台の位置を上山周辺ではないと推測していたが、同じ昭和12年竣工の他の8㎝高角砲台での調査や資料の見直しにより、高角砲台の位置を上山周辺に修正している。
 山上の施設群と東麓の兵舎施設を繋ぐ軍道については、不明なままである。兵員の移動だけであれば、探照灯の東から尾根沿いに直接下る道でも構わないが、砲弾等の重量物の運搬にはなだらかな道が必要であり、それには兵舎施設から北東へと伸びる道がそうではないかと思われるが、その先、どのようにして山上の施設群へと続いているのかはわからない。

目次



 航空写真から見た烏帽子山防空高角砲台

施設:
 防空砲台
 聴測照射所(探照灯、指揮所)
 聴測照射所(聴音機)
 謎の施設
 兵舎


 来歴
 参考文献・リンク

航空写真から見る烏帽子山防空高角砲台


米軍の航空写真(上:R462-12、国土地理院)

 終戦直後の米軍の航空写真(1948年頃)を見ると、上山から北に続く尾根上の施設は比較的良く写っている。一方で東麓の兵舎は、何か写っている事はわかるものの、それを兵舎として判別できる程ではない。また兵舎周辺の軍道は、この写真にはほぼ写っていない。



米軍の航空写真(M539_1-81、国土地理院)

 1947年頃の別の航空写真には、兵舎周辺の軍道が何とか写っている。まず北東の焼山方面から兵舎へと至る軍道aがある。この軍道aは小さな川に沿って通っている。1975年頃までこの付近一帯の木材の搬出にも使用されていたようで、1962年の航空写真には明確に写っており、また少し昔の国土地理院の地形図には点線道路として残っていた。兵舎から北東へ出てから北に曲がる軍道bは、謎の施設があるピークに続く尾根へと繋がっているように見える。しかしこの尾根線だと軍道としては勾配が急すぎる為、写っていないだけで別の場所へと繋がっている可能性もある。兵舎から西の探照灯へと続く尾根にも道らしいものcがある。兵員移動用の近道だったのかもしれない。
1962年の航空写真(MCG628-C23-9、国土地理院)

防空砲台



左:米軍の航空写真(R462-12、国土地理院)


左:砲郭Aを北西から、右:砲郭Aを西から

 上山の山頂周辺には防空砲台の施設がある。砲郭Aは内径約5mで、底部には基礎を掘り起こした跡がある。2007年当時は、7㎝野戦高射砲の砲郭でも内径7mがもあるのに、内径5m弱の寸法の穴が8㎝高角砲の砲郭跡だとは考えられず、探照灯か聴音機の掩体であると比定していた。しかし水谷山防空砲台にも内径4.5mの明らかに高角砲の砲郭が存在していたこと、そして資料[7]に8㎝高角砲の砲郭の内径の実測値が14フィート(約4.2m)からと書かれていたことから、AとHの2か所の円形窪地が8㎝高角砲の砲郭であると、ようやく判断するに至った。砲郭Aの北側にはコンクリートと石垣で造られた幅2.4x1.5mのスペースが設けられているが、砲側応急弾薬筐かと思われる。


左:砲郭Aの北縁の砲側応急弾薬筐?、右:砲郭A中央の基礎を掘った跡


左:コ型土塁Bを南西から、右:同左を西から


左:コ型土塁Bを北から、右:同左を北西から

 資料[5]によると、8㎝高角砲の4発入り弾薬箱の寸法は80x42x18cmとあるので、2段積みとして約50発を置くことが可能である。砲床は三和土(タタキ)で舗装されていたようだが、中央の基礎部分は破壊され掘り出されている。砲郭内への出入口は明確でないが、遊歩道で崩された西側にあったのではないかと思われる。
 砲郭Aの北には、コの字をした土塁Bがある。内側は約2m四方で北側が開いている。用途は不明。見晴らしがよい場所ではあるが、位置からして測距儀等の射撃指揮施設の掩体ではないように思われる。


左:平坦地Cを西から、右:平坦地Cのコンクリート基礎


左:平坦地Cの北端にある水槽、右:平坦地Cを東から

 山頂の北端には平坦地Cがある。一段下がっており、
目測で10m四方くらいの広さである。北西端に煉瓦
モルタル塗りの水槽が、また中央から南東寄りに
長さ約2.5mのコンクリートの基礎らしいものがある。
ここには建物があったようだが、用途は不明である。

 遊歩道を挟んで西側には、自然の岩が幾つかそのまま
残っているが、その北西に海軍標柱がある。またその
少し南の岩の上には、煉瓦モルタル塗りの構造物がある。
1辺約50mくらいで、煉瓦の煙突の先っぽを切り取ったような形をしている。用途は見当もつかない。

 更に南の斜面には、台形をした掘り込みがある。内側が石垣になっており手が込んでいるが、何なのかわからない。幅は60~70㎝くらいで、地下壕の入口というわけでは無さそうである。そして砲郭Aの西には、別の海軍標柱がある。


左:Dの北西端にある海軍標柱、右:Dにある謎の遺構


左:Dにある謎の掘り込み、右:砲郭Aの西にある海軍標柱


左:崩落した砲員待機所?E、右:同左

 砲郭Aの遊歩道を跨いで南西には、崩落した地下壕入口のようなEがある。藪でおおわれてわかりにくいが、幅は約2mと広く、埋もれているが深さもある。位置から砲郭Aの砲員待機所なのではないかと思われるが現状だと根拠が薄く、埋もれた部分を掘って地下壕が本当にあったかどうかの調査が必要である。


左:平坦地Fを西から、右:平坦地Fの南にある円形窪地


左:謎の石垣遺構Gの北側、右:同左南側

 砲郭Aの南には平坦地Fがある。建物の基礎らしい
ものは見当たらない。またFの南隣には内径2m弱の
円形窪地がある。丁度2つの砲郭の中間に位置するので、
測距儀等の射撃指揮関連施設がここにあったのでは
ないかと思われる。

 遊歩道を挟んで円形窪地の南西下には、2つの石垣
構造物が並んだGがある。構造物の間の遊歩道の路面
近くに三和土(タタキ)の断面が露頭している場所があり、
何かしらの施設が遊歩道整備の際に埋められたか壊されたかしたようである。位置からして、射撃指揮の関連施設ではないかと思われるが、他に似た構造物を見たことが無く、これが何なのか想像がつかない。



左:砲郭Hを北から、右:砲郭Hを東から


左:砲郭H内にある砲床の破片?、右:砲員待機所Iを東上から

 三角点と遊歩道を挟んで南西に砲郭Hがある。内径は
約4.5mで、Aと違って砲側応急弾薬筐らしいものが
見当たらない。遊歩道整備の際に削られてしまった
のだろうか。砲床には三和土(タタキ)が敷かれて
いたようで、破片が幾つか転がっている。

 砲郭Hの南西下に、砲員待機所と思われる地下室Iが
ある。コンクリート製で幅は2.8m。長さは少なくとも
3mはあるようだが、元々の長さがどのくらいあった
かはわからない。コンクリートだが鉄筋は入っていないようで、天井部も太さ5㎝の丸太を渡してコンクリートを張った、「木筋」コンクリートになっている。砲台が竣工した昭和12年当時において、ここまで鉄をケチらなければならない程の物資不足ではなかったと思われることから、戦争終盤頃に造られたものかもしれない。地下室の西の出口から北に通路が出ている。


左:砲員待機所Iを南西から、右:崩落した天井


左:砲員待機所Iの木筋の穴、右:東側の壁


左:旧砲員待機所?Jを東から、右:Jの南面の石垣

 上山山頂から南東へ下る遊歩道の途中に、掘り込み平坦地Jがある。目測で幅は約3m、奥行きは約7m。幾つかの面が土留の石垣になっており、建物基礎は見当たらないものの、ここに何らかの建物があったと思われる。ただ弾薬庫にしては幅が足らないことから、砲員待機所がここにあったのではないかと推測してみる。元々ここに砲郭Hの砲員待機所が置かれていたが、待機所から砲郭まで離れていたこと、そして艦載機による空襲への備えから耐弾式にする必要があったこと等から、砲郭に近い場所に地下式の砲員待機所Iを造ったのではないだろうか。Jの北、遊歩道の脇に海軍標柱がある。


左:J内部から東を、右:Jの北にある海軍標柱



左:旧砲員待機所?K、右:同左北西隅

 砲郭Aの東下に、削り出し平坦地Kがある。目測で約7m四方で、建物の基礎や水槽は見当たらない。砲郭Hの砲員待機所が移設されたという仮説が正しければ、平坦地Kが砲郭Aの旧砲員待機所になるかもしれない。



左:KからLへと下る道、右:弾薬庫L


左:弾薬庫Lの南端にある水槽、右:弾薬庫Lの建物基礎


左:弾薬庫Lの南西から北東を、右:弾薬庫Lの北西端の水槽

 平坦地Kの更に南東下に、弾薬庫Lがある。幅約4.5m、長さ約8mの建物の基礎と、南に幅1.5m長さ約3mの水槽、北西に少し小さめの水槽がある。2つの砲郭の中線上にあり、射撃指揮所にしては下過ぎること、斜面をしっかりと削り出して他の施設から隠れた場所にあること、建物基礎があることから、弾薬庫だと思われる。
聴測照射所(探照灯、指揮所)



左:米軍の航空写真(R462-12、国土地理院)


左:管制器掩体Mを北下から、右:管制器掩体Mを東から


左:管制器基礎、右:管制器掩体Mを南から
 上山の防空砲台施設から尾根沿いに北に下がると聴測照射所の中心施設があるが、その北端に管制器掩体Mがある。西側のみに土塁が残り、内径は約4m。基礎には6本のボルトが植わっていたと思われるが、残っているのは1本だけである。管制器基礎のボルトは対角で約65㎝であり、資料[8]による96式探照灯管制器2型の基礎の寸法と同じである。


左:Mの南東の土塁、右:Mから探照灯掩体Nを望む


左:探照灯掩体Nを西から部、右:探照灯掩体Nの内部を北西から


左:探照灯掩体Nを北東から、右:南西側の土塁

 中央施設の真ん中に探照灯掩体Nがある。掩体の内径は約4.5mで、南東側に出入口があったようである。掩体の中央には直径約2.5mの穴がある。穴の縁はコンクリートで縁取られているが、下の敷石まで見えていることから、中央にあった基礎が抜き取られた跡のようである。掩体の内部には砕かれた基礎らしいコンクリート片が幾つか転がっている。探照灯基礎のような明確な遺構が残っていないものの、掩体の寸法や位置から、探照灯の掩体だと思われる。






左:探照灯基礎の破片?、右:指揮所Oを北東から


左:指揮所建物の北東隅の水槽、右:建物の北面の基礎

 中央施設の南には、聴測照射所の指揮所Oがある。北と西が明確な切岸になっている。建物の基礎は幅約6m、長さ約13mで、良く見られる特設見張所の指揮所とほぼ同じ大きさである。そして北側に2ヶ所、南側に1ヶ所の水槽がある。建物の基礎は煉瓦で、遺構の様子を見るに他の特設見張所の指揮所のように壁まで煉瓦というわけではなく、上部は木造だったようである。竣工した昭和12年には既にここに建物があったのか、探照灯と聴音機の装備が換装された昭和18年頃に建てられたのかは不明である。


左:指揮所Oの北側、向こうは切岸になっている、右:敷地を北から


左:敷地を南から、右:南端にある水槽


左:機器の基礎その1、右:機器の基礎その2

 指揮所Oの南東に、大小2つの機器の基礎が並んでいる。それぞれ4本のアンカーボルトがあり(大きい基礎はアンカーボルト3本欠落)、ボルト間の距離は約26x31cm、約52x70cmとなっている。戸田や室積等の特設見張所の指揮所内に残っている機器の基礎と似ており、電動直流発電機の基礎と思われる。この発電機が探照灯用の物か、電池の充電用なのかはわからない。


左:指揮所Oの南東部を北から、右:北西隅の水槽


左:指揮所Oを西上から、右:海軍標柱P


 指揮所Oの敷地の南東から南に通路のようなものが出て
いる。南で遊歩道と合流していることから、本来の軍道は
こちら側だったかもしれない。

 探照灯掩体Nから東に少し下った辺りに海軍標柱Pがある。
ここから東に尾根道がある雰囲気なのだが、藪が酷くなって
先には進めなかった。地図を見るに、このまま尾根を降れば、
兵舎まで行けるようである。
聴測照射所(聴音機)



左:米軍の航空写真(R462-12、国土地理院)



左:北東の石垣、右:北の石垣


左:掩体内部を北東から、右:聴音機基礎

 聴測照射所の中心施設から北に150m程進むと、高石垣に囲まれた聴音機掩体Qがある。掩体の内径は約8mで、中心にコンクリート製の基礎がある。9本のアンカーボルトが直径約70㎝の円周上に不均一に並んでおり、ヱ式聴音機の基礎だと思われる。また掩体の底面はコンクリート敷になっているようである。土塁の外側だけでなく内側も石垣になっている。北東と南西に出入口があるが、当時からこうだったのか、遊歩道建設の際に開けられたのかはわからない。


左:南西から、右:北東から


左:土塁内部の石垣、右:南面の


左:南西面の石垣、右:南西下の平坦地

 最初からヱ式聴音機を設置していた聴測照射所の掩体の内径が15m弱あるのと比べ、ここの掩体の大きさは半分程である。恐らくは地形の都合で、竣工当時に90式聴音機用として造られたものをそのまま利用したものと思われる。

 聴音機掩体Qの南西下には平坦地がある。用途は不明。
謎の施設



左:米軍の航空写真(R462-12、国土地理院)



左:円形の平坦地R、右:南西下の遊歩道脇の海軍標柱


左:北東下の平坦地にある池?、右:内側は石垣

 聴音機掩体Qから更に北東へ300mにある中山の山頂に謎の施設がある。ピークには直径約5mの円形の平坦地があり、その周りに小さい平坦地が幾つかある。また北東下には石垣で造られた池か水槽のようなものがある。平坦地Rの中央付近で鉄杭を刺してみたが、地下に基礎があるような感触は無かった。南西下の遊歩道脇には海軍標柱がある。境界方向を見ると、この謎の施設を囲むように標柱が打たれているようなのだが、藪が酷くて残りの標柱は見つけられなかった。海軍標柱があることから海軍の敷地だったと思われるが、烏帽子山防空高角砲台の一部だったのか、それとも別の施設の敷地だったのか、そして何に使われていたのかはわからない。
兵舎



 山の東麓にある谷地に、兵舎施設がある。大小3ヶ所の平坦地があるが、資材転用で建物や基礎等がことごとく破壊され持ち出されてしまい、何がどこにあったのか良くわからなくなっている。資材は付近で利用されていたようで、北東に1km離れた呉市野外活動センターの敷地横の空き地に煉瓦の瓦礫が多数散乱している。

 兵舎の敷地内を、北西から南東に小川が流れている。この水を流用していたようで、堰き止めた施設跡のようなものが残っている。軍道は南東から入ってきて、北東に抜けている。2020年頃の大雨で南の谷で土石流が発生し、兵舎施設の直ぐ脇まで土砂が押し寄せている。



左:平坦地Sを西から、右:平坦地Sの西端の石垣


左:平坦地Sの北西角の円弧石垣、右:平坦地Sの東にある壁の残骸と流し


左:流しを東から、右:流しを南西から


左:平坦地Sを東から、右:平坦地Sの南東端にある円形窪地

 平坦地Sは烹炊所や風呂といった水場があった場所のようで、流しが残っている。流しの横に厚さ30㎝程の壁の残骸があることから、かなりしっかりとした建物があったようだ。周囲の要所要所が石垣になっているが、特に北下の石垣は見事である。平坦地Sの南東端に内径2m程の円形窪地があるが用途はわからない。


左:平坦地Tの南端、右:埋め込み式の水槽


左:コンクリート製の何か、右:平坦地Tの中央部

 Sの西には、広い不定形の平坦地Tがある。埋め込み式の水槽や、何かの基礎らしいコンクリート製の残骸、土砂で半分埋もれた水槽等がある。土砂に半分埋もれた水槽は、長さ180㎝の長方形の水槽に半円形の水槽が付いている。施設の多様さから、ここには烹炊所等の付属施設があったと思われる。西の角部はそのまま緩やかな谷に続いているが、その先に道や施設のようなものは無かった。北の角部には直交した2面を持つ石垣がある。その裏は聴測照射所へと続く尾根となっており、山へ登る道を補強していた石垣かもしれない。


左:半分埋もれた水槽、右:平坦地Tの北端の直交した2面を持つ石垣


左:小さな滝U、右:平坦地Tの北東下の石垣


左:平坦地Tから北東に降りる階段、右:平坦地Sの北下の石垣

 平坦地Tの北西奥に小さな滝Uがある。石垣っぽく見えるが自然地形である。もしかするとこの奥に貯水槽とかあったのかもしれないが、確認していない。

 平坦地Tの北東面は石垣になっており、そのまま平坦地Sの北下の高石垣まで続いている。その途中に、北東へと下る石の階段がある。そのまま小川を渡って平坦地Vへと道が続いている。


左:平坦地Sの北下の石垣、右:平坦地Sの北西隅の石垣



左:平坦地Vを北西から、右:平坦地Vを北から

 小川の東には比較的広い平坦地Vがある。建物の基礎のようなものは残っておらず、瓦礫の量も他の平坦地SやTと比べて少ない。一番広い平坦地であること、下の段にあることから、兵舎が建っていたと思われる。東にある谷の一部を埋め立てているためか、谷の底に石垣で補強した箇所がある。平坦地Vの北の斜面に、地下壕の入り口が2ヶ所ある。どちらも崩落して中には入れない。


左:平坦地Vの北の崩落した地下壕入り口(西)、右:同左(東)


左:東へ続く軍道X、右:同左コーナー部付近、奥に炭焼き窯がある


左:平坦地Vの東下の石垣、右:平坦地Vの東下の谷

 また平坦地Vの北東から東へと軍道Xが出ている。軍道Xは東に進んだ後、カーブして北へと続いているが、藪が酷くてどこまで続いているかは確認できていない。またコーナー部に炭焼き窯が造られている。

 平坦地Vの東下に緩い谷地がある。この谷は少し東側で小川の流れる谷と合流している。


左:W付近の小川と石垣の護岸、右:小川に設けられた貯水桝の跡


左:土管を利用した何かの破片、右:小川の底に三和土(タタキ)


 W付近の小川周辺に幾つかの施設跡らしい瓦礫がある。小川の底を三和土(タタキ)で舗装している箇所があり、その近くに貯水桝跡らしい煉瓦の構造物がある。またその中に、土管の片方の端を三和土で埋めて金属製の口を付けた構造物が落ちていた。用途として生活用水の取水施設が考えられるが、位置が低いので水の汲み上げにポンプが必要であること、付近を人が歩き回るのでゴミや汚水が混ざりこみやすくなることから、別の用途の施設かもしれない。


左:Wの南側の小川の護岸の石垣、右:同左付近に落ちていた煉瓦と土管の瓦礫


左:Y付近、右:Zにある三和土(タタキ)の破片


左:南の谷を埋め尽くした土砂a、右:東へと続く軍道

 平坦地Vの南東は、緩やかな傾斜地Yになっている。兵舎施設の敷地外だと思われるが、その南のZ付近に三和土(タタキ)の破片が幾つも転がっている。

 兵舎施設のすぐ南にまで、土石流で流れてきた大量の土砂aが来ている。前掲の1962年の航空写真を見るに、土砂で埋まった場所には施設らしいものは確認できないが、もしかするとトイレとかそういったものがあったかもしれない。
来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌等[1][2]による記事
昭和12年9月 竣工 官房機密第3562号(S17.8の記事)
昭和16年11月 防空砲台、第五砲台群(下士官3、兵11)
89式高角射撃盤2型1、8cm高角砲常装3号通常弾薬包300
准仕官以上2、下士官兵60、有線電話
8cm高角砲2門、ステレオ式2m測距儀1、シ式75cm探照灯1
90式2型聴音機1、石油発動機1
准士官以上2、下士官9、兵51
昭和16年12月 防空砲台
昭和17年1月 防空砲台
昭和17年2月 官房機密第1979号訓令に依り呉軍港防空砲台(大向、烏帽子、螺山、灰ヶ峰)変電所新営工事施工の件指令す(呉鎮)
官房機密第2216号訓令に依り大向、烏帽子、螺山及灰ヶ峰防空砲台電気施設増設の件指令す(呉鎮)
昭和17年4月 3年式40口径8cm高角砲2門
ステレオ式2m高角測距儀1、89式高角射撃盤改二1
斯式75cm探照灯1、90式空中聴音機1
弾薬庫1、直流発電機1
電動直流発電機(探照灯用)1 増設予定敷地完備
配員 下士4(臨14)、兵11(臨20)分隊長のみ
昭和17年6月 探照灯用部外電力用変圧所新設中
昭和17年7月 探照灯用部外電力用変圧所新設中
昭和17年8月 8cm高角砲2、89式射撃盤1、75cm探照灯1、ス式2m測距儀1
90式聴音機1、観測鏡2、7倍双眼鏡1、6倍双眼鏡2
昭和17年9月 防空砲台第5砲台群
昭和18年1月 防空砲台(第2砲台群)
昭和18年7月 官房機密第1922号訓令による8cm防空砲台装備兵器中探照灯・聴音機の換装基礎工事7/1以降兵力をもって実施中
昭和18年8月 官房艦機密第4198号(18.8.18)(呉鎮機密第25号ノ286)、直流発電機械撤去の件訓令接受、時期を得次第工事に着手の予定
艦本機密兵電第970号(18.8.27)、電気兵器供給の件通牒接受
昭和18年10月 官房艦機密第1922号(18.4.22)訓令に依り照聴所電気兵器換装工事完成(10.5)
電気兵器供給 完了
昭和19年6月 8cm高角砲2門
昭和19年7月 防空高角砲台 8cm高角砲2門
日付 呉海軍警備隊戦時日誌等[1][2]による記事(続き)
昭和19年8月 8cm高角砲2門 既設
昭和19年9月 8cm高角砲2門 既設
昭和19年10月 8cm高角砲2門 完備
昭和19年11月 8cm高角砲2門 畑高地へ移設
150cm探照灯1、空中聴音装置1、砲移設完了せば照聴所とす
昭和19年12月 新宮、烏帽子、高烏、螺山 計12門 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年1月 新宮、烏帽子、高烏、螺山 計12門 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年2月 新宮、烏帽子、高烏、螺山 計12門 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡[3]
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
仮称ヱ式空中聴測装置、付属品補用品共 1基
建築物 兵舎1、其ノ他付属施設5

用地:9567m2、建物:297m2[4]