大平山 防空高角砲台
2006.4.17 探索(防空砲台)
2007.3.4 再訪(防空砲台、大下・地蔵峠聴測照射所)
2023.3.11 再訪(防空砲台、大下聴測照射所)
2023.7.24 更新

オレンジ色が軍道

 呉から南東に約10km、下蒲刈島の中心にそびえる大平山の山頂を中心として、大平山防空高角砲台が築かれていた。大平山山頂付近に防空砲台が、山頂から北東約1kmと南東約1kmの山に聴測照射所、山頂の北麓に水源と発電所があった。昭和19年には砲台の南に教育用の練習部の施設も追加された。公園化や農地化等により破壊されてしまったものもあるが、遺構は比較的良く残っている。

 大平山砲台は、昭和13年11月末に建設が決まり、昭和15年7月に竣工しているが、12.7cm連装高角砲を装備した防空高角砲台としては国内で最初の砲台である。他の12.7cm連装高角砲砲台の竣工は呉以外を含めても昭和16年以降であり、プロトタイプとしての役割があったのではないかと思われる。その為か、砲台施設の装備や構造が独特の物が多い。


 それから、畑仕事中であったにもかかわらず、貴重なお話をしていただいた長迫様に、深い感謝の意を表します。





目次

 航空写真から見た大平山防空高角砲台

施設:
 防空砲台
 兵舎施設
 発電所
 大下 聴測照射所
 地蔵峠 聴測照射所


 長迫さんから伺った話
 米陸軍による接収の記録


 来歴
 参考文献・リンク

航空写真から見る大平山防空高角砲台



米軍の航空写真(左:M126-63、右:M1097-A-15、国土地理院)


1962年の航空写真(MCG629-C21-4、国土地理院)


 大平山付近では、終戦後の航空写真は解像度が悪い物しか無いが、それでも防空砲台とその周辺の建物を確認することが出来る。貯水池の工事の前の1962年の航空写真には、現在の貯水池の位置に壁だけになった指揮所が建っているのを確認することができる。

終戦後の航空写真(M1097-A-15、国土地理院)


1962年の航空写真(MCG629-C21-4、国土地理院)



 大下聴測照射所も同様に解像度の良い終戦後の航空写真が無いが、大体の施設の様子をうかがうことが出来る。指揮所と探照灯の間の畑の部分に建物らしいものが写っている。聴測照射所の要員用の兵舎があったのではと思うものの、地蔵峠にはそれらしい敷地も見当たらず、防空砲台の兵舎施設を共用していた可能性もある。現在のトンネルの真上とその南西に幾つかの平坦地が写っているが、畑の可能性が高そうである。
 1962年の航空写真には、指揮所の建物とその周辺の土塁が写っている。


1962年の航空写真(MCG629-C21-4、国土地理院)

 地蔵峠聴測照射所も終戦後の解像度の良い航空写真は無い。1962年の航空写真を見ると、指揮所の土塁とその北の平坦地は写っているものの、他は良くわからない。


 水源については、1962年の航空写真に、完成したばかりの簡易水道のダムと、これから沈もうとしている貯水槽が写っている。比較的浅い位置に貯水槽があるので、渇水時に行けば干上がった湖底に貯水槽が見えるかもしれない。


1962年の航空写真
 (MCG629-C20A-3、国土地理院)
 

防空砲台


左:砲郭Aを南西から、右:砲郭Aを南下から


左:砲郭Bを西から、右:砲郭Bの南西部

 山頂平坦部には元指揮所だった貯水池Dを中心にして3基の砲郭がある。狭い山頂部を有効利用する為に石垣を築いて張り出させている。米陸軍による接収の記録によると、竣工当時には3基の連装高角砲が装備されていたものの、開戦直後に1基を南方へ送ったと書かれているが、警備隊や鎮守府の戦時日誌[1][2]にはそのような記録が無く、昭和16年11月の時点で2基となっている。また同記録によれば、2セットの高射装置の内の1組は訓練用だったと書かれているが、時代の古い95式高射装置のことかと思われる。
 

 


左:砲郭Bの東側の石垣、右:砲郭Bの西側の石垣


左:砲郭Cを北から、右:砲郭Cの南西縁


左:砲郭Cの西側の出入口?、右:同左を反対から

 高角砲の砲郭は3ヶ所共に良く残っている。それぞれ内径は約10mくらいで、昭和17年頃までに竣工した12.7cm連装高角砲の砲郭とほぼ同じ形をしている。ただ砲床に土を入れているようで、砲郭の壁面や砲側応急弾薬筐の形状を考慮すると、現在の地面は本来の砲床よりも何十センチか高くなっているようである。長迫さんの話にあるように、土を掘れば本来の砲床と地下式砲員待機所への入り口が出て来るかもしれない。


左:砲側応急弾薬筐、右:砲郭Cを南西下から


左:貯水池(元指揮所)Dの北西面、右:同左の南東面

 防空砲台の中心には、元指揮所だった貯水池Dがある。壁面を見ると、上半分と下半分のコンクリートの時代が異なっていることから、指揮所の周囲の壁面をほぼそのまま利用し、下半分だけコンクリートを塗り直して再利用しているようである。指揮所だった際に貫通していた地下通路は、当然ながら塞がれている。南東面に対称的に2つの階段があるが、貯水池には不用な物なので、指揮所へ降りる階段だったのではないかと思われる。


 


左:指揮所への地下通路の入口Fを南西から、右:同左


左:地下通路Eの内部、右:その奥


左:防空砲台の南下のトイレ、右:同左近くに落ちている瓦礫

 山頂の北西下に指揮所への地下通路Eの入口Fがある。地下通路は幅が約2mで、中に入れないように入口近くに切り倒した丸太を積み上げているが、奥は指揮所の辺りまで続いている。熊野砲台にもこのような地下通路があったようである。
 山頂の南下にあるトイレ近くに瓦礫が落ちている。煉瓦もコンクリートも見た目が新しいので戦後の構造物の瓦礫である可能性が高いが、この辺に将校用宿舎が建っていたことから、その建物の瓦礫である可能性もあるかもしれない(多分無い)。
兵舎施設



左:水槽Gを南東から、右:水槽Gを西から


左:水槽Gの東面、右:水槽Gの北面

 兵舎施設Hの東上の尾根に、兵舎用の水槽Gが残っている。水槽Gは約2.6mx3mで、3分の1近く崩されている。煉瓦ではなく鉄筋コンクリート製で1槽式である。水槽Gの西下の斜面に幾つもの瓦礫や何かの構造物らしき物が転がっている。水槽はもう1つあったと思われるので、その残骸かもしれない。




左:水槽Gの南面の鉄筋を剥いだ跡、右:水槽Gの西下斜面の瓦礫


左:水槽Gの西下斜面の何かの構造物跡、右:同左


左:兵舎跡の駐車場Hを南東から、右:戦後建てられた濾過施設I

 兵舎のあった平坦地Hは現在は駐車場になっている。戦後に追加された道の建設で分断されてしまったが、元々は結構広い敷地だったようである。駐車場の東隅にスレート屋根の建物Iがある。長迫さんの話によると、山頂に貯水池が造られた際に、その水を処理する施設だったそうである。
発電所



左:発電所Jを西から、右:冷却用水槽Kを北から


左:発電所を北から、右:北東側の出っ張り

 太平山の北麓に発電所がある。地下式ではないものの、山の斜面に建てて屋上に土をかぶせることで、上空から発見されにくく、かつ多少の防弾性を加えている。戦後直ぐに誰かの所有物になったためだろうか、破壊の痕跡が無いどころか当時の物と思われる鉄扉が残っている。隙間から内部を撮影してみたが、物が散乱して床面を覆っており、発電機の基礎等を確認できなかった。

 




左:正面出入口、鉄扉がある、右:西側の出っ張りの内部


左:発電所内部北東側、右:南西側


左:発電所Jの屋上、右:発電所Jの南西面




左:水槽Kを北下から、右:水槽Kを南東から


左:水槽Kを北西から、右:南東側の水槽


左:北東面の石垣、オーバーフロー用の溝がある、右:谷の南上と排水溝

 発電所の南西の谷に冷却用水槽Kがある。不定形で大小2つの桝がある。計測はしていないが、目測で約2mx10mくらいである。長迫さんの話によると、子供の頃にここで泳いだことがあるとのことだが、確かにそれだけの広さと深さがある。谷にはコンクリート製の排水溝が付けられているが、コンクリートが新しく、戦後に作られたもののようである。
大下 聴測照射所




 大下聴測照射所には聴測照射所の指揮所らしき建物が2棟存在する。西側の建物は厚さ約30㎝の鉄筋コンクリート製の建物で寸法は約9.5x5.5m、四方を防壁で囲っている。そして東側の建物は煉瓦製の建物で寸法は約9.5mx6m、建物の周囲を高さ1mくらいまで土で直接埋めている。これら2棟の建物は、その構造の違いから異なった目的を持つ建物であることがわかる。一方、地蔵峠聴測照射所には、厚さ約30㎝の鉄筋コンクリート製で周囲を防壁に囲まれた建物1棟しか無い(寸法は未計測)。これらの2ヶ所の聴測照射所の違いは、大下の方が煉瓦製の建物だけ余分に存在してるという事である。

 大平山砲台が竣工した翌年にまとめられた「15定陸上防空砲台公示基準(草案)」[5]によると、97式聴測装置を用いた防空砲台の聴測照射指揮所について、第1聴測照射指揮所は電動発電機室、蓄電池室、配電室、そして的速高度測定機室の4室から構成され、面積は83m2(16.5x5m)、第2聴測照射指揮所は電動発電機室、蓄電池室、配電室の3室のみで構成され、面積は58m2(11.5x5m)となっている。第1と第2の違いは、的速高度測定機室の有無で、その面積は約25m2(5x5m)である。そうなると、大下の煉瓦造りの建物が敵速高度測定機室であると推測したいところであるが、実状は少々ややこしい。

 大下の鉄筋コンクリート製の建物の東側の部屋の内壁に、木毛セメントが塗られている。木毛セメントは木材を薄くスライスしたものを細切りにし、それにセメントを混ぜたもので、通常は板材に成形して用いる。そしてこの木毛セメント板の特性の中で指揮所に関連しそうなものとして遮音性と吸音性がある。わざわざ木毛セメントを内壁に塗るという事は、この遮音性もしくは吸音性を目的にしているのではないかと思われる。例えば、この部屋が電動発電機室で、発電機の騒音を遮音する為に用いられたとか、この部屋が的速高度測定機室で、外部からの騒音を遮音する為に用いられたということが考えられるかもしれない。こうなると、地蔵峠側の指揮所の寸法や間取りの再調査や、大下側の指揮所の床部分の詳細な調査(発電機基礎の有無等)を行わないと、推測は難しい。現状として、大下聴測照射所の2棟の建物跡の用途は良くわからないということである。
 


左:北西端A付近の転がる海軍標柱と方形窪地、右:尾根道の入口


左右:聴音機格納庫Cと聴音機掩体Dを西から


 大下トンネルの真上辺りに尾根道への入口Aが
ある。脇に抜かれた海軍標柱が転がっている。
標柱の近くには方形窪地があるが、畑の付属物
かもしれない。尾根道は東へと続いているが、
途中北脇に平坦地っぽいものや窪地っぽいものB
がある。


 


左:聴音機格納庫C、右:同左内部


左:聴音機格納庫Cの西前のスロープ、右:聴音機格納庫Cの屋根


左:聴音機掩体Dを北から、右:聴音機格納庫Cの屋上から西下のスロープを

 尾根道は聴音機施設へと突き当たる。北下にある聴音機格納庫Cから西へと出たスロープが180度曲がって南上にある聴音機掩体Dへと登っている。恐らく聴音機を台車のようなものに載せて、格納庫と掩体の間を運搬していたのではないかと思われる。
 聴音機格納庫Cの内側の寸法は幅約3m、奥行き約3m、高さは約3.2mである。内壁に配線の跡や壁に貫通金物が残っている。聴音機掩体Dは不定形で、低い土塁で囲まれているが、後の聴音機掩体のように音の乱反射を防ぐ擂鉢状の斜面は見当たらない。


左:聴音機掩体Dから指揮所Eを見下ろす、右:指揮所Eの南面の防壁


左:指揮所Eの東面、右:指揮所Eの北面



 聴音機施設の東には、指揮所Eがある。壁の厚さ約30㎝の鉄筋コンクリート製の建物で寸法は約9.5x5.5m、周囲を高い防壁に囲まれている。ほぼ真ん中で東西に仕切る壁の跡があり、また西側も途中まで壁が突き出ていることから、3部屋あったことがわかる。東側の部屋の内壁には、遮音効果のある木毛セメントが塗られており、発電機等の騒音源があったか、もしくはデリケートな作業が行われる部屋だったことがわかる。
 


左:指揮所Eの北面の東側、右:西側


左:指揮所Eの西面、約70㎝の間隔で2ヶ所の開口部、右:指揮所Eの北面


左:指揮所Eの北面東端のドア跡、右:指揮所Eの内部を東から

 指揮所Eは、明らかに窓と判断できる開口部は北面西側の1ヶ所だけで、それ以外は床までの開口部である。しかし、この大きさの建物で6ヶ所もドアが必要だとは思えず、ドア以外のものも含まれているのではないかと思われる(一般的な特設見張所の指揮所だと、出入口は3ヶ所)。特に南西側の部屋の西面には約70㎝の間隔で2ヶ所の開口部が開けられている。出入口ではない、何か別の用途の開口部なのではないかと思われる。


左:木毛セメントを吹き付けた内壁、右:木毛セメント


左:南面の壁、東側だけ木毛セメント、右:東西を分割する仕切壁



 北西の部屋は、北面に窓があるだけである。電池室だったような感じではあるが、硫酸による腐食防止のアスファルトが塗られた形跡は見当たらない。
 指揮所Eの西、南、東の3面は、元からあった山を削って防壁を造ってるが、北側は造られた防壁である。内部は石塁で、北面と南面に厚さ約10㎝の鉄筋の入っていないコンクリートで覆っている。この北側の防壁は途中までしか無いが、元からここまでだったのか、東端まであったものが戦後崩されてこうなったのかはわからない。
 


左:指揮所Eの北西隅の部屋、右:北側の防壁の断面


左:何かのスペースF、右:同左のコンクリート基礎


左:指揮所Gの西面、右:南西隅のスペース

 指揮所EとGの間には、何かのスペースFがある。掘りこまれた空間で、地面にはコンクリート基礎がある。トイレかと思われるが、土砂が多くて基礎の形を確認できなかった。
 指揮所Gは煉瓦造りで寸法は約9.5mx6m、建物の周囲を高さ1mくらいまで土で直接埋めた構造になっている。西面のみに出入口があり、そこから東に約3mの場所に仕切り壁が付き出している。出入口脇に小部屋があったのかもしれない。他3面には窓の痕跡が幾つも残っている。周囲の土盛は窓の高さまでしかない。


左:指揮所Gの北西隅を西から、壁の外側に土盛、右:指揮所Gの内部を西から


左:指揮所Gの北面の壁、手前は土盛、右:指揮所Gの内部の仕切壁



 指揮所Gの内壁はレンガがむき出しになっている。モルタルが剥されたというよりも、木板などで内張りされていたのではないかと思われる。

 


左:指揮所Gの南面の窓を内側から、右:北面の壁の内側


左:指揮所Gの南面の壁、左が内部で右が外で土盛、右:南面の壁を南側(外)から


左:平坦地H、右:畑跡I

 指揮所EとGの北側に通路があり、北東下の畑跡へと降りている。その途中に平坦地Hがある。用途は不明である。
 畑跡Iだが、2007年当時はまだ放棄されて間もなく、いつ耕作者が出て来るかわからない雰囲気だったことから畑周囲の探索が良くできなかった。それから16年が経過し、すっかりと畑「跡」になっていた。畑跡を簡単に調べたが、建物の基礎のようなものは見当たらなかった。


左:円形土塁Jの東側を北東から、右:円形土塁Jの西側を北東から


左:円形土塁Jの東縁、右:円形土塁Jの内部のアンカーボルト

 畑跡Iの北東の丘陵部に、円形土塁Jと直流発電室Kがある。

 円形土塁Jは半径約3mで、探照灯の掩体としては小さい。内径3mで探照灯の操作は可能だと思われるが、一般的な探照灯掩体は内径5mくらいである。その為、円形土塁Jは管制器の掩体である可能性も考えられる。中心部を掘ってみたが竹の根が酷く、直径約2㎝のアンカーボルトを1本発見できただけであった。せめてもう1本見つけられていれば、探照灯掩体かどうかの判断ができたのだが。

 
 


左:直流発電機室Kを北から、右:北西から


左:直流発電機室Kの屋上、右:屋上東側の通気口


左:直流発電機室Kの内部、右:床面に基礎らしきものが

 直流発電室Kは、1辺約4mの恐らくは鉄筋コンクリート製の建物で、3面に出入口がある。屋上には落ち葉が積もっており、基礎があるかどうかは確認できていない。屋上の東側に通気口が突き出ている。畑の物置場として使用されていた為に内部には物が散乱していて内部形状をよく確認できないが、どうも床面に何かの機器の基礎らしいものがあった。建物の用途は、探照灯の直流発電機を格納していたと思われる。屋根に通気口があるので、エンジンで発電機を回していたかもしれない。円形窪地Jが管制器掩体だった場合、屋上に探照灯の基礎が埋まっている可能性がある。素直に掘っておけば良かった。

地蔵峠 聴測照射所




 大平山の南東約1kmにある地蔵峠トンネルの更に南側の168mピーク付近に、聴測照射所がある。山一帯は観音平遊歩道が整備されていたらしいのだが、探索した2007年当時には既に荒れており、鉈鎌が無いと通行が難しい場所もあった。荒れた遊歩道脇の平坦地にやたらとテーブルやゴミ箱が置かれていたのが印象的であった。
 急峻な地形に築かれている為か、大下の聴測照射所と比べると構造が大きく異なる。聴音機格納庫や聴音機掩体は見当たらず、探照灯台座はあっても探照灯用の直流発電機室の建物は見当たらない。尾根は広めに探索していたので、見落としていたということは無い…と思いたい。そうなると、聴音機は168mピークの東屋が建っている場所に固定されていたのではないかと思われるものの、整備されて土塁等の痕跡が何もない。直流発電機室も峠(トンネルが開通するまでの峠、上左図の登り口付近)辺りに置かれていたか、もしくは探照灯の近くに発見できていない地下室があるのかもしれない。管制器(照空指導装置)の場所がわからないのは大下と同じである。高島番岳のように櫓の上に置かれてた可能性もある。

 米陸軍による接収の記録によると、地蔵峠付近に探照灯と火器管制室付の聴音所と箱型聴音機があった、と書かれている。この記事のタイトルは「探照灯と変圧所」となっているが、この変圧所というのは探照灯用の直流発電機室のことかもしれない。


左:平坦面Aから北側の防壁を望む、右:南西の入口から指揮所Bを望む


左:指揮所Bの南西隅の壁の跡、右:西側の防壁の内面

 168mピークの南下に指揮所Bがある。鉄筋コンクリート製で、壁の厚さは約30cmくらいで、建物の寸法は計測していないが6mx8mくらいである。壁は殆ど崩されて基礎部分しか残っていない上に落ち葉が厚く積もっており、部屋の間取りも良くわからない。指揮所Bの四周は高い防壁に囲まれており、南西隅に出入口がある。防壁の内面はコンクリートで補強されている。
 指揮所Bの南には平坦地Aがある。整地されテーブルとイスが置かれており、何があったのかわらかなくなっている。




左:東側の防壁の内面、右:防壁の南東隅


左:防壁の北面とその上の東屋、右:北西隅


左:指揮所Bの西側の壁跡、右:南西の出入口を内側から

 


左:西側の防壁の外面、右:防壁の西側のAとCを繋ぐスロープ、一部で石垣が崩落


左:崩落部分から指揮所Bを、右:平坦地Cを南から

 西側の防壁の西に、平坦地AとCを繋ぐ幅が約1.5mのスロープがある。スロープの東側、つまり防壁の西面は石垣になっている。平坦地Aに聴音機格納庫があり、そこから平坦地Cまで引き上げて使っていたのかもしれないが、平坦地AもCもどちらも公園整備で手が入っており、元の地形がわからなくなっている為、推測は難しい。
 168mピークに平坦地Cがある。整地され東屋が建てられており、ここに何があったのかわからなくなっている。聴音機掩体の広さは十分にある。



左:平坦地Cを東から、右:平坦地Cの北下の平坦面


左:平坦地Cを東下から、石垣で補強されている、右:指揮所Bの防壁の北東隅を北から


左:地下壕D、右:地下壕D、埋められている

 平坦地Aの南東下に地下壕Dがある。現在は埋もれているが、崩落したというよりも出入口が埋められているような感じである。用途はわからない。指揮所Bから離れた場所にあるので、要員の防空壕というよりも、指揮所Bの機能を地下に移したものかもしれない。

 平坦地Aの南西下に水槽Eがある。トイレの便槽かと思われる。


左:水槽Eを東上から、右:水槽E


左:Fの東側の石垣、右:Fの上面

 南西に延びる尾根上に、探照灯台座Fがある。直径約5mの円形で、西縁はコンクリートであり、東側は石垣で補強している。中央には直径約150㎝の円形の基礎があり、直径約120cmの円周上に6本のアンカーボルトがある。96式150cm陸用探照灯のアンカーボルトの円周は直径113cmであり、それよりも少し広い。大平山の探照灯は追尾式150㎝探照灯なので、その辺の寸法も少し異なっているのかもしれない。ただ計測ミスの可能性もあるので、次回探索時に採寸し直さなければならない。




左:Fの中心にあるコンクリート基礎、右:Fの西側のコンクリート縁


左:基礎と縁、右:Fから大平山を望む


左:U字溝?G、右:平坦地H

 探照灯台座Fと平坦地Aとの間の尾根上には、幾つかの遺構らしいものがある。
 GはFの少し北にあるU字型の溝である。U字型に掘られたというよりも、地下が崩落して出来たとか、何かを撤去した跡とか、そういう感じである。何かは分からない。
 平坦地HはGの南東にある。基礎や瓦礫といったものは見当たらない。こちらも用途不明。
 円形窪地IはGとAの中間付近にある。内径は約1.5m程で斜面にある為、管制器掩体ではなさそうである。


左:F-G間の平坦地を北から、右:円形窪地I


左:山の北東下の林道脇の広い平坦地、右:遊歩道の南西端付近の平坦地

 他にも、山のあちこちに怪しい地形が幾つかあるのだが、聴測照射所に関連する施設跡というには微妙なものが多い。ただ、もう一度時間をかけて調査しなおしたら、もしかすると何かの施設跡が見つかるかもしれない。


長迫さんから伺った話

 下蒲刈島で生まれ育った長迫さんは、子供の頃に砲台跡で遊んでいたことがあり、更には現在でも大平山砲台について調査をされている。偶々畑をされているところを見かけて、発電所や水源の場所を尋ねたところ上記のような御方で、30分程お話を伺った。その際に教えていただいた事は以下のとおりである:


・現在の公園のトイレ付近に将校宿舎があった。建物は緑色で塗られていた。戦前生まれのお兄さんの話では、長迫さんの家の離れに将校が寝泊まりしていたそうである。

・海軍道路の1本北の道路脇に海軍標柱が埋められている。

・砲郭の砲員待機所は砲床の地下にあった。3つの砲郭の内、終戦時に備砲されていた2基については火砲を撤去する際に待機所も破壊されてしまったが、残り1ヶ所は破壊されずに残っていた。現在は3ヶ所共、公園整備の際に土で埋められてしまっている。

・現在の貯水池の底に指揮所の建物があった。掘りこまれた壁面に地下通路のトンネルが貫通していた。指揮所の屋上に測距儀等の機器が置かれており、また屋上から橋が架かっていて砲郭まで行くことが出来たそうである。公園の駐車場脇にある建物は、戦後に造られた貯水池の水を処理する施設である。

・水源は、現在のダムの場所であり、水槽が2、3基あった。

・発電所はまだ残っている。子供の頃に冷却水槽で泳いだことがある。



米陸軍による接収の記録

G-2 Periodic Report No.25 1945.10/31
HQ 41st INF DIV(国会図書館:WOR22758-10)

 下蒲刈島(765-1236(注:地図上の座標値))に向かった偵察部隊によると、大型の砲台が(765-1235)に、また探照灯施設が(764-1235)にあった。砲台の近くにある兵舎と海岸沿いにある兵舎(765.2-1236.0)は主に海軍兵員の教育に使用されていた。島で唯一のまともな道路は(766.0-1236.5)の海岸をスタートし、砲台へと弾薬を補給する為に使用されていた。




41st Division Artillery 167th Field Artillery Battalion
A P O 41 Reconnaisance Report(国会図書館:WOR-48193)

11/12

・砲台(764.5-1235.5)について:
 2ヶ所の砲郭があり、それぞれが12.7cm両用砲2門が連装架台に載っている。火砲の状態は良く、斉藤たしろ 2nd Sub-Lt(TASHIROとあるが、「としろう」の聞き間違いか? また2nd LtもしくはSub-Ltで少尉なので、特務士官?)の警備下にある。砲台敷地内には、以下の補助装備があった:
 (1)測距儀1
 (2)管制塔(control tower)1
 (3)大型の艦艇用双眼鏡2
 (4)非決定式?高射機(antiaircraft derector of undetermined type)2と管制塔1
 (5)砲郭の近くに複数の兵舎と将校用宿舎
 (6)全ての弾薬は砲台から撤去済み

・探照灯1と変圧所(transformer station)(765.0-1235.0、地蔵峠付近)について:
 探照灯は実用に使用可能な状態。探照灯の北60ヤードに、火器管制室付の聴音所と箱型聴音機がある。


11/14

・127mm砲台(764.7-1235.6)について:(斉藤たしろ 2nd Sub-Ltによる説明)

 砲台は1938年に建築され、備砲はその直ぐ後に行われた。元々は6門あったが、戦争開始時に2門が撤去され、呉海軍基地に運ばれた後、南西太平洋方面へ輸送された。

 火砲運用に関する計画(plan、配置図?)、地図、技術資料は、呉海軍基地の海軍大将の元へ送付された。閉鎖器と多くの付属品は呉海軍基地へと運ばれている。全ての弾薬は秋月(江田島)へと送られた。

 これらの火砲の全ての機器と付属品が日本海軍の所有物である(property of the Japanese Navy、海軍の装備品ということか?)。1組の管制装置は1年前から実用から外されていたが、訓練目的に使用されていた。

 識別の訓練の為に、アメリカの航空機の絵が、各砲郭の内壁に描かれている。

 以前は、3門の25mm対空機銃の銃座が存在していた。この機銃は、ここで運営されていた機銃手の為の学校の一部分だった。機銃は呉海軍基地に送られた。

 (764.75-1235.65)に兵舎があり、127mm砲を操作する12名の砲員が2組住んでいた。また(764.80-1235.40)にあった3棟の兵舎には、対空機銃手学校の生徒が住んでいた。Lt斉藤は学生の大まかな数すらも覚えていなかった。


・2ヶ所の探照灯について

 2ヶ所の新たな探照灯がLt斉藤によって指示された。1つは(765.65-1236.10、大下隧道付近)にあり、砲台に備え付けられた艦艇用双眼鏡からはっきりと視認できた。探照灯の大きさは150cmである。もう1つの探照灯は、大浦(773.0-1235.5、上蒲刈島)の南の丘の上に配備されている。この場所については、後ほど偵察する。



11/16

(764.7-1235.6)にあった砲台施設、高射機、測距儀、訓練機器は破壊された。

・大浦(上蒲刈島、773.0-1235.6):参考
探照灯(150cm-130KW)が(773.35-1233.4)にある。探照灯は運用可能な状態で、
スイッチを入れると照射できた。電話通信手段が箱型聴音機の傍まで引かれており、
聴音機も運用可能な状態だった。


11/17

(765.65-1236.10)の探照灯と箱型聴音機は破壊された。
丘の横にあったU字型のトンネル(765.1-1236.75)を調査したが、空だった。

元の地図が無いので、座標値の1≒1ヤード=1kmとして山頂の砲台を中心にマッピングしてみる。その為ズレが大きい。
来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事
昭和13年11月7日 官房機密第5976号(S17.8記事)
昭和15年7月 竣工(S17.8記事)
昭和16年11月 防空砲台、第一砲台群(下士官7、兵19)
准仕官以上2、下士官兵115、有線電話
12.7cm高角砲4門、サ式4m測距儀1、94式4.5m測距儀1、150cm1型陸上用管制器付2
97式2型空中聴測装置2、ディーゼル交流発電機2、電動直流発電機2
准士官以上3、下士官22、兵93
昭和16年12月 防空砲台
サ式4m測距儀1
昭和17年1月 防空砲台
昭和17年4月 89式40口径12.7cm連装高角砲2基、同 装填練習砲1門
97式空中聴音装置2、追尾式150cm探照灯1型2
95式高射装置1、94式高角測距儀1、12cm高角双眼望遠鏡2
新潟型単動4サイクルディーゼル(45PS)2
電動直流発電機2
配員 下士10(臨17)、兵22(臨43)分隊長のみ
昭和17年8月 12.7cm連装高角砲2、150cm探照灯2、94式4.5m測距儀1、95式陸用高射装置1
97式聴測装置2、12cm望遠鏡2、7倍稜鏡3
S15.7竣工 官房機密5976(13.11.7)
砲座3基の所2基装備
昭和17年9月 防空砲台第1砲台群
昭和18年1月 防空砲台(第1砲台群)
昭和19年3月 官房設機密第641号により下士官兵戦時要員教育応急施設として兵舎構築中
昭和19年6月 12.7cm連装高角砲2基
官房設機密第641号により下士官兵戦時要員教育応急施設として兵舎構築中(練習生収容しあれり)
普通科砲術練習生第11期陸上対空機銃班261名6-8月
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事(続き)
昭和19年7月 12.7cm連装高角砲2基 既設
官房設機密第641号に依り下士官兵戦時要員教育応急施設 完成


機密呉鎮守府命令第235号、昭和19年7月1日(呉鎮守府戦時日誌より)
呉海軍工廠長は左に依り防空砲台照射聴測装置整理移設を実施すべし
(略)
黒島:
96式150cm探照灯1型陸上用1、同管制器2型1、91式空中聴測装置1(97式?)
大平山
(イ)黒島は大平山南方海上3.5km、(ロ)1組は現在位置の侭とす
昭和19年8月 12.7cm連装高角砲2基 既設
昭和19年9月 12.7cm連装高角砲2基 既設
昭和19年10月 12.7cm連装高角砲2基 完備
昭和19年11月 12.7cm連装高角砲2基 完備
昭和19年12月 12.7cm連装高角砲2基 一部付属装置の外完備
既設 150cm探照灯1、空中聴音装置1
昭和20年1月 12.7cm連装高角砲2基 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年2月 12.7cm連装高角砲2基 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡:[3]
12.7cm連装高角砲2基
95式陸用高射装置付属品補用品共 1組
2式陸用高射装置 1組
94式4.5m高角測距儀付属品補用品共 1組
追尾式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 2基
97式空中聴測装置、付属品補用品共 2基
12cm高角双眼望遠鏡 2個、貨物自動車 1台
建築物 兵舎3、其ノ他付属施設9

用地:149425m2、建物:1680m2[4]