興居島 防空砲台



2009.4.7 更新
2013.2.5 更新





興居島の南端、御手洗集落付近に防空砲台が築かれていた。

地元の方の何人かに話を伺ったところ、聞く人によって異なった情報が得られた。とりあえず聞いたままを書き連ねてみる。


甲(集落に居たじいさん):
Bに大砲が置いてあり、これで遊んでいた。上に登る道を作っていた。上に塹壕(砲座か?)を3つ掘っていたが戦後直ぐに埋められて蜜柑畑になった。下(Bか?)に兵舎がり、戦後も使っていたが火事で焼けてしまった。北東方向(Dの南東麓辺りを指して)に探照灯があった。

乙(Aの畑の老夫婦):
終戦時には電柱(E)の辺りまで探照灯を引き上げていた。小富士に探照灯を上げる予定だった。Cに砲座があった。

丙(Dの南麓の畑のじいさん):
Bに兵舎があった。Fの辺りに砲座があった。

丁(AとFの間の畑の人、比較的若手):
この辺り(AとFの間)にあったこと位しか知らない。

戊(Cの西下を軽トラ通っていたじいさん):
砲座はこの先の道路の平坦になっている辺りにあったが、今は埋められていてわからなくなっている。Cに何があるのかは知らない。

己(Fの東下で枇杷の世話をしていたじいさん):
Fの北側の斜面の蜜柑や枇杷の木を切り倒して道を作っていた。砲座はFではなく、もっと上の方。Bに大砲があって壊して遊んでいた。Cに穴があった。


以上、バラバラで一貫性も無い。それなりにまとめてみると、以下のようになるだろうか。
(1)砲座はAからFにかけての付近に3基あったが備砲はされておらず、戦後に埋められて蜜柑畑になってしまった。
(2)Bに兵舎があり、また陸揚げされた高角砲もここに置かれて終戦を迎えた。兵舎は戦後も残っていたものの火事で焼けてしまった。
(3)Cの辺りに探照灯を設置する予定だったが、Eの辺りまで運んだ時点で終戦を迎えた。小富士の山頂に探照灯を据える予定だったという話もあり。



追加(2013.2.5)

米軍資料(G-2 Periodic Report No.36 1945.11.10、国会図書館、WOR22756-47)によると、
松山沖の興居島で、軍需品が発見された。
12.7cm連装高角砲3基が御手洗(764.6-1197.7)、
発電機とモーターと探照灯1基が(764.3-1198.5)、
そして他の探照灯が(766.1-1198.4)にあった。
装備は未使用で良い状態である。

と書かれている。
文中の数値は地図内の独自の座標値で(1単位=約1000ヤード)、高角砲の位置をBに固定すると、探照灯とモーターのある位置がC、他の探照灯がF付近となる。

もう一ヶ所の探照灯がFだとすると、証言甲の「北東方向(Dの南東麓辺りを指して)に探照灯があった」に、ほぼ一致する。
Fは現地に行った事がないので詳細は不明で、山頂だたのか東の三角点のある尾根付近かはわからない。もしくは小富士の南東に伸びる尾根付近かもしれない。





砲座、兵舎(A、F、B):


左:東側から御手洗鼻を望む、右:砲座の候補地の台地F



左:砲座の候補地の台地A、右:砲座の候補地の平坦地、AとFの間



左:台地F、右:兵舎のあった砂洲B、現在は何も無いようだ



左:砂洲B、右:同左



右:米軍の航空写真M220-133(国土地理院)、B付近


痕跡は何も無い。結局砲座がどこにあったのかは不明。





探照灯(地図C)


左:円形窪地Aを東側から、右:同左を南側から



左:Aの西側の土塁、右:同左



左:Aの中央にある窪地、右:遍路道と地蔵の祭られたお堂



左:平坦地B、右:同左にある水槽



左:地図Cのピークの南西下付近の凸部を北側から、右:同左を南東から



左:探照灯のあったピークを集落から、右:ピークを南から、奥の高い山は小富士



右:米軍の航空写真M220-123(国土地理院)

地図Cのピークに、円形窪地Aがある。埋もれている為か南北が約4m、東西が約3mの扁平で、中心に更に半径1m弱の窪地がある。この円形窪地は大きさからして探照灯のものかと思われる。円形窪地の東側を興居島を一周するミニ遍路の遍路道が直ぐ脇を通っており、道の南東側にも平坦地Bがある。Bには水槽があるが、これは戦後のものと思われる。
管制器の窪地は見当たらなかった。航空写真ではピークの南西下辺りに円形窪地らしきものが写ってはいるが、現在は農道の建設でその付近は削られており、恐らく写真に写っている何かの跡と思われる凸部が農道の脇に残っているにすぎない。



小富士山頂:


左:楕円型窪地A、右:同左の内部



左:Aの北面、右:Aの中に入って



左:Aの東側、Aの周囲は土塁のように少し盛り上がっている、右:航空障害灯のポールB



左:ポールBの南東側の土塁の残骸?、右:ポールBの東側付近



左:三角点C、右:同左の北東にある円形窪地らしき凹み



左:社D、右:同左の西側



左:登山道から松山市方向を望む、右:農道脇の登山道入り口





遺構は殆ど何も残っていないものの、辛うじて楕円型窪地Aがある。長径が約2.5m、短径が約1.5m、深さは約1mで、仮にここに探照灯が設置されていた、もしくは設置する予定ならば、管制器の為の窪地かと思われる。Aの北西側には航空障害灯のポールが建っている。このポールの建っている付近が微妙な地形で、ここに探照灯用の円形窪地があったのを埋め立てて識別灯のポールを建てたのか、ポールの南東側に土塁の残骸らしきものがあるものの、ハッキリとした遺構は無い。三角点Cの北東にも薄っすらと直径約1mの窪地があるものの、これまたハッキリとしない。
証言を得ようにも登山口付近に人が見当たらず、ここが本当に探照灯台だったかどうかは不明である。

追加(2013.2.5)
上記記事より、小富士山頂の遺構はほぼ関係ないことが判明。
ただ消すのも何なので、登山ガイド的なものとして残しておく。





日付 引渡目録による記事
昭和20年8月31日 引渡:
12.7cm連装高角砲 3基
150cm探照灯 1基、110cm探照灯 1基
電動機 2基 (電動直流発電機?)



ここから以下のページへいけます。