大島 砲台


140223 探索
140309 探索



左:終戦後の米軍の航空写真(M122-93、国土地理院)


1975年頃の航空写真(CKU747-C68-2、国土地理院)


現在の全体図(Googleマップの衛星写真を加工)


現在の砲座周辺(同上)



島東部にある補助観測所?

右:1975年頃の航空写真(CKU747-C68-2、国土地理院)



 筑前大島(宗像大島)の北西側、市営の牧場の中心部に、大島砲台がある。砲台とその周辺は整備され、展望台や遊歩道が付けられている。周囲が牧草地である上に、砲台の周辺が芝生になっていることから、当時の状態に一番近い形で砲台を楽しむことが可能な、稀な場所でもある。
 大島は島であるがかなり大きく、ケチるとすればレンタルサイクルが必須であるが、砲台は標高150m付近にあるため、多少高額でも電動アシスト式を借りなければ、とてもではないが登れたものではない。

 4基の砲座とその付属弾薬庫、観測所が綺麗に残るが、それ以外にも電燈所の付属施設である照明座、掩燈所、発電所が状態良く残っており、貴重である。また一部鉄筋盗りが入り破壊されている部分もあるが、比較的鉄製品が残っており発電所に至っては鉄扉まである。

 その反面、兵舎関連施設は牧場施設の建設により、殆ど残っていない。



 下関重砲兵連隊史によると、大島砲台の地図の中に島の東部に補助観測所が描かれている。1975年頃の航空写真を見ると、その付近に何か建物のようなものが写っているものの、戦後造られた電波施設なのか、当時の補助観測所なのかは不明である。




探索記録:

 観測所

 砲座

 電燈所と発電所

 機銃座?と防空監視哨






資料:

現代本邦築城史[1]によると、大島砲台の意図は以下のものであった:

任務: 
 蓋井島砲台、白島砲台、小呂島砲台と協力し、響灘及玄界灘に於ける敵艦船の行動を妨害し、我が海上航通を掩護するに在り。

備砲:
 45式 改造固定 15cmカノン砲 4門

標高:
 148.00m、150.63m

昭和10年5月1日起工、昭和11年11月20日竣工




大島電燈所:
 射光機(ス式150cm固定式)1、照明座2、掩燈所(幅3m長4m)1、発電所1、属品格納庫(張間4m55cm、桁行6m37cm)1
 昭和10年9月16日起工、昭和11年11月20日竣工






下関要塞大島砲台建築要領書(昭和10年2月調製、参謀本部)[1]

三、築設要領:
 1.砲台の首線は概ね真方位335度とし、射撃区域は首線の左右各々約60度を直接照準することを得、尚為し得れば一部を以って其の両側を成るべく広く射撃し得る如く施設す
 2.観測所は砲台附並とし89式砲台鏡に依る射撃設備を具備す。
 3.砲座は2門分を築設し所要に応じ更に2門分を増加し得る如く考慮す
 4.電燈所を砲台西北方稜線上に設く
 5.要塞司令部と砲台間に所要の通信施設をなす

(欄外に注記)昭和11年1月10日陸機密第2号を以って更に15加2門の砲座増設の件、達せらる






下関重砲兵連隊史[3]の、戦備下令(昭和16年7月)時の記事

 筑前大島の戦備は、下重第6中隊の現役兵の一部と召集兵からなる総員70名で担当した。7月21日夜、小型船数隻に分乗して下関を出発し、翌未明大島港に到着して直ちに既存砲台の15cm加農砲4門の格納をとき、観測所の89式砲台鏡を整備、規正した。宿舎は既設の官舎、砲具庫などを利用し、作業の進捗に伴って観測、通信、砲手とそれぞれの訓練に終始した。訓練の仕上げは、下関より廻航された海上移動標的に対する実弾射撃を行って、実戦即応の態勢を整えたが、現役兵は9月16日、全員が下重へ復帰して奄美要塞重砲兵連隊に編入された。





日付 記事(特記以外、現代本邦築城史[1]より)
大正12年2月 要塞再整理要領
砲塔45口径25cmカノン2門、90cm電燈1(計画)
昭和10年5月1日 起工(電燈所含む)
昭和10年9月16日 起工(電燈所)
昭和11年11月20日 竣功(電燈所含む)
45式 改造固定 15cmカノン 4門
昭和16年7月7日 戦備下令(陸支機密第67号)[3]
昭和17年5月 第2大隊第6中隊[3]
昭和19年5月末頃 対潜水艦攻撃[3]
昭和20年2月下旬 第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)[2]
島内の津和瀬(第6中隊98名)、地島の泊(第7中隊103名)で洞窟砲台工事開始
地質不良による作業困難により、大島は島内の他の場所へ変更
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[2]
地島の工事中止、火砲は垂見峠へ

[1] 現代本邦築城史 陸軍築城部本部 編
[2] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[3] 下関重砲兵連隊史
[4] 日本陸軍の火砲 要塞砲(光人社 NF文庫)












観測所


左:車道終端部から観測所を、右:観測所を北から


左:横から、右:北西側


左:天井部、右:内部


左:南東の入口、右:ここの扉の鉄枠だけが剥ぎ取られている


左:内部正面、右:その反対側


左:左(北西)側、右:同左奥


左:木枠が残る、右:中央部を


左:測距儀(砲台鏡?)基礎、右:鉄板の柱が残っている


左:スリットの枠は剥がされている、右:北西を

4基ある砲座の中央後方に観測所がある。他の砲台の観測所と比べて、鉄製品が比較的良く残っている。主、副と2ヶ所のスリットが設けられ、主スリットの手前には測距儀(砲台鏡?)の基礎が残る。
そして周囲が芝生で木が無い為に眺めも良く、観測所の機能を体感することができるのもありがたい。






砲座と弾薬庫




左:観測所付近から左翼、砲座4を、右:砲座3を


砲座2と砲座1


左:砲座1、右:同左内部


左:砲座1の内部、右:砲座1から観測所を


左:砲座1用の弾薬庫1、右:同左内部、造りは弾薬庫4と同じ


左:砲座2、右:砲座2の内部


左:砲座2の階段、右:砲座2から砲座1を


左:連絡路(塹壕?)内から砲座3を、右:同左から砲座2を


左:砲座3付近から連絡路(塹壕?)を、右:同左から観測所を


左:砲座3、右:同左内部


左:階段を上から、右:アンカーボルト跡が残る


左:砲座3南東にある土塁?というか連絡路?、右:同左付近から砲座4を、この砲座4だけ周囲に石垣がある




左:弾薬庫3・4の南西側入口、右:同左内部


左:南西側から、、右:同左から右(南東)側を


左:南西側の入口を、右:南西側の弾薬庫入口


左:内部、右:出入口を


左:北東側の弾薬庫入口、右:同左内部


左:内部から、木枠が残る、右:北東側の出口を


左:南東側を、右:北東側の出口付近から反対方向を


左:弾薬庫3・4の北東側の出入口、右:観測所の南西下にある地下水槽?への入口


左:砲座4、右:同左内部


左:砲座4内部、右:砲座4から観測所を


左:弾薬庫4の入口、右:同左内部


左:造りは角島と一緒、右:同左左側


左:弾薬庫、右:内部から




 4ヵ所の砲座と、3ヶ所の弾薬庫がある。また砲座間にはジグザグの連絡路もしくは塹壕の窪みも残っている。何よりも周囲が芝生で景色が良い。

 砲座は、中央側の2基と外側の2基とで造りが異なっている。佐山二郎の「日本陸軍の大砲 要塞砲」[4]には、中央側と同じ構造を持つ図面に「45式15cm加農改造固定式○特」、外側と同じ構造を持つ図面に「45式15cm加農改造固定式」とあることから、恐らくは2基整備した後にもう2基が追加され、その際に砲座の仕様が変更になったのではと思われる。

 弾薬庫2・3と弾薬庫4は判りやすい場所にあるが、弾薬庫1だけは、整備されている範囲外にあり、藪(というよりも棘)が酷いために余程無理をしなければ中に入れない。






電燈所と発電所




左:掩燈所?、右:同左


左:入口付近、右:三面共に隙間が空けられている


左:内部上、右:内部下、乾いた牛糞で覆われている


左:脇の小窓、右:出入口を


左:北東へと続く道、右:同左、奥左手付近が南西側の照明座


左:南西側の照明座…の跡、たぶん、右:同左から更に北東、ここからは未舗装


左:北東側の照明座、うっすらと土塁がある、右:同左の南東側の窪地


左:窪地内部、右:北東側の照明座を上から




左:発電所と掩燈所と、観光用風車、右:発電所アップ、迷彩塗装が残る


左:発電所を南西から、右:発電所、貴重な鉄扉が残る、またここも三面に隙間が


左:北西側の隙間、右:入口を


左:北西隅にある小部屋、倉庫?、右:貴重な鉄扉…取っ手は盗られている


左:内部北西側、右:同左床、子供たちの秘密基地になっている


左:内部南東側、右:同左床


左:発電機台座、右:同左


左:金網のある部分は排水穴?、右:あちこちに排水溝


左:天井のパイプ継ぎ手、右:出入口を


左:鉄扉上部、右:同左


左:外にあるコンクリート製水槽、右:発電所の西下にある謎の地形




 整備された遊歩道からは見えにくい位置にあるが、風車のある丘の南西下に(恐らく)掩燈所が、またその南西下斜面に発電所、そして掩燈所から丘の西面に沿って電燈の運搬路が北東へと続き、中間と北端の2ヶ所に照明座がある。残念なことに、いずれも放牧地内にある。今回は牛がいなかったので入らせてもらったが、牛がいると探索は難しそうだ。

 掩燈所は正方形に近い形で、正面以外の三面に隙間が設けられている。規格なのか、生月砲台の掩燈所(灯台の下、説明書きでは弾薬庫にされてしまっている)も同じ構造であった。中は乾いた牛糞で床が見えない有様である。牛にとってさぞかし丁度良い雨宿り場所だろう。正面には迷彩と思われる白い波模様が描かれている。

 掩燈所から2ヶ所ある照明座へと電燈の運搬路が続いている。南西側の(推定)照明座は舗装されてしまっているが、北東側の照明座は薄っすらと土塁が残り、また南東側に何かを置いてた窪地が残っている。ここからの眺めは良い。

 掩燈所の南西下の斜面中腹に、発電所がある。ここには珍しく鉄扉が残っており、その構造を知ることができる。ここも正面以外の三面に隙間が設けられている。内部中央には発電機の台座があり、その周囲に冷却用水の排水溝や排水穴がある。また天井には排気用と思われるパイプの継ぎ手が残っている。外には冷却用水と思われるコンクリート水槽があり、外面には迷彩の白と黒の波模様が描かれている。

 また、発電所の西下に、展望台のように整備された丘があるのだが、地形が人工物っぽく、何かあった可能性がある。






機銃座?と防空監視哨


左:機銃座?らしき場所にある窪地、右:同左土盛等


左:防空監視哨の聴音壕、右:同左内部


 砲座の南東にあるピーク付近に、1975年頃の航空写真で機銃座のような窪地や溝のようなものが写っている。その辺も放牧地だが、牛が居なかったので入ってみたものの、何かあるような無いような、そんな感じだった。

 またここから更に南東のピークには、防空監視哨でよく見られる半地下式の聴音壕が残っている。






ここから以下のページへいけます。