食い倒れ帳

ほや 戦慄の脊索動物

東京に出て、食文化に関するカルチャーショックを受ける事が多々あった。
魚屋で秋刀魚の開きや鯖の開き、秋刀魚の刺身なんて物を見つけたのはショックだったし、さつま揚げや牛蒡天などやたらと揚げ物があると言うのも驚きであった。
そんな中で最もショックの大きかったのは、魚屋でほやが殻付きで売られていると言う事であった。

まるで宇宙生物のようなグロテスクな外見のほや。物珍しさに「おっちゃんこれ一つ頂戴」と買って帰り、殻を包丁で器用に割って、中から出てくる汁を「この汁が一番美味しいから捨てたら駄目だ」と山岡士郎の受け売りの台詞を吐きつつボールに取っておいて、後から切り分けたほやの身に降りかけて食べる、というようなことは間違ってもやらなった、というか出来なかった。

何故なら、上京前の高校1年生の時に、ほやの正体を生物の授業で習っていたからである。
生物学的に言うところの、脊索動物門。脊椎動物である人間に近いといわれているものの、生物教室で見たほやのホルマリン漬けは太ったゴカイのような容姿で、百足やゴカイの嫌いだった自分は死んでも食うかと心に誓ったのであった。

しかし、この広い世の中にはミミズやカブトムシの幼虫を美味い美味いと食ってい入る人もいるわけで、それに比べたらほやなど関東以北の住民の2割4分が好んで食しているまだまだメジャーな食材なわけで、そう考えると、そんなメジャーな珍味が食えない自分がまたまた悔しくなってしまった。
そこで殻を自分で開けてゴカイの親分と対面して金玉キューっという事になら無いように、調理済みのほやの酢の物を同じ魚屋で購入して食べてみることにした。
あまり原型を想像し無いように食べてみたが、いかんせん酢が効き過ぎているのと生臭すぎるのとで、一切れだけで戦意を喪失してしまい、残りはそのまま三角コーナー行きになってしまった。

ただ、このまずさは調理方法に原因があるため、きっととれたての新鮮なほやは、山岡が言っているように「この磯の香りがいいんだよ」(CV井上和彦)というようなすばらしい海の幸に違いないと勝手に確信し、次なる機会を待つのであった。


それから3年後、野郎3人でレンタカーを借り、東北へドライブに行った時に、新鮮なほやに巡り会う機会があった。仙台のある鮮魚市場の食堂にほやの刺身があったのである。これはチャンスとばかりに一皿ほど注文する。

ほやを見るのも始めての他二人に、「新鮮なほやっていうのは以外と美味いもんなんだよ。ここまで来てほやを食わないなんていう理由が他にあるかい」と食通ぶってみたりする。
運ばれてきたほやの刺身はぶった切られているものの、原型の復元が可能な微妙な切り方がされている。いかんいかん、ほやはゴカイの親分とは違うんだ、すばらしい海の幸なんだ、うねうね動いて噛んでくるなんて事は絶対にないぞ、と心の中で諭しながら、念願の一切れを口にする。

磯の香りでなく、実験室の薬品の味がした。とても食えるものではない。食通ぶった手前2,3切れは食べたが、泣きを入れて勘弁してもらう。他二人も何切れか口にしたが、それでも半分以上残してしてしまった。


それから二度とその脊索動物を食おうと考える事は無かった。山岡士郎の嘘つき。




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