納豆を器に出して芥子とタレをかけて、ひたすら混ぜる。糸で豆が見えなくなるくらいまで混ぜたら、ご飯にかけて一気に食う。これが、美味…くないんです。というか、自分は臭いをかぐだけで萎えてしまうほどの納豆嫌いである。
関東人は「関西人は納豆が駄目である」という至極真っ当そうな法則を持ち出す事が多い。確かに関西では納豆を食えない人間が多いが、しかしどこの店にもしっかりと納豆が置かれているし、好きな人は関西人であろうとも毎朝のように食っている。
流通の発達による食文化の全国均一化の流れによって、今では全国各地で納豆が食べられるようになっており、うどんの汁のように、東西でくっきりと嗜好の分かれているものでもないようである。返って、関東人でも食べれない人は食べれないし、同じ家族の中でも、食べられる人と食べられない人とで分かれているくらいだから、地域や遺伝の問題と言うわけでもない。
ところで、食べられない人が挙げる納豆の嫌な点と言えば、あの匂いである。
好きな人は、美味いから臭いなんてあまり関係無い、返ってあの臭いも好きになった、と言うスタンスの人が多い。反対に食べられない人は、あの臭いに引っかかって、口に入れようが何をしようが、臭いで参ってしまっているのである。つまり、納豆嫌いということは、ある種の食わず嫌いなのである。本当の納豆を味わえていない、だからこそ「納豆なんか」と毛嫌いしているのである。
これは問題である。つまりたかが臭いに負けて、多くの人間が「美味い」と認める食品を、一生食べられないかもしれないのである。特にタバコも酒も女もしない自分にとって、食べ物の世界が狭くなってしまうということは、それだけ自分の世界が狭くなってしまうと言う事なのである。それだけは、何としても避けなければならない。
かの名著「美味しんぼ」では、納豆嫌いで結婚が危うくなった関西人に、この臭いを克服させる事によって納豆嫌いを治す、という事に挑戦していた。「おお、これだ」。その時未だ強烈な納豆嫌いだった自分は、失われた納豆の味覚を取り戻すにはそれしか無いと決意し、行動に移ったのである。
まずは「美味しんぼ」にある通り、藁入りの納豆を探した。が、東京中野の下町であるにもかかわらず、どこにも藁入りは売っていなかった。ほとんどが、プラ容器入りなのである。
納豆最大の壁、それがプラ容器。納豆菌の出すアンモニア臭を吸わない為に、藁入りよりも臭いがきつくなる。それが納豆を嫌いにさせる要因なんだ、とかの山岡士郎も言っていた。何故このような仕打ちをするのであろうか。
邪推するに納豆好きは、納豆嫌いに対して納豆を食えると言う優越感を維持しておきたいのかもしれない。納豆嫌いの目の前で食う納豆、それを最大の楽しみにしたいが為に、これ以上納豆嫌いを減らさないように、藁入り納豆を市場から駆逐したに違いない。スピリッツ編集部も、当時は嫌がらせの投書を数多く受け取った事だろう。謎の組織「NATO」は実在したのである(参考:定吉セブン)。
しかし、ここで諦めるには行かず、尚もスーパーと豆腐屋を梯子して、やっとの事で2本の藁入り納豆を購入した。それから、芥子と葱も準備した。
食卓の上に、一膳のご飯と納豆用の器、刻んだ葱と醤油と練り芥子、そしてやっとの事で見つけた藁入り納豆を用意した。いよいよ、長年の納豆嫌いを脱却する時がきた。これからはもう民宿で朝飯に納豆を出されても、美味そうに食う納豆好きを尻目に漬物と味噌汁だけで飯を食わなくても済むのである。心臓の鼓動が高まった。そして一度ゆっくり息をして、藁つとを割った。
と、衝撃が走った。なんと藁の中の納豆にビニールが巻いてあったのである。やられた、これではプラ容器入りと一緒ではないか。しかし、ここまで準備をして中止すると言うのも、男が廃る。えい、と納豆を器に移して、多めに練り芥子と葱を入れて、掻き回して一気に口に入れた。
残ったもう一本の藁入り納豆は、開けずにそのまま生ゴミで捨てる事にした。