伊予讃岐遠征 2日目

平成21年1月10日〜12日



横山城の堀切群




○11日、晴れ

午前6時前に起床、6時半出発。
ようやく明るくなってき始めた頃に到着。




荏原城


左:南西隅から、右:南東隅から



左:南側の土橋付近、右:北西隅付近



左:西側の門跡?、右:南東隅付近、土塁は5m前後もある



左:北東隅、右:南西側の堀




松山市の南東、総合運動公園の東2km、東明病院の近くに荏原城がある。四周の土塁と水堀の遺構が良く残っているが、一部畑でつぶされている。
河野氏十八将の一人である平岡氏の居城。秀吉の四国征伐で廃城になるが、関が原の戦いの折に平岡直房が一揆を組織して荏原城に篭り、加藤氏に対抗している。





湯築城


左:西側の土塁、右:西側の門跡



左:南西の土塁(外側)、右:南西の土塁(内側)



左:南西の堀(内側)、右:復元された武家屋敷



左:内側の堀、右:同左



左:南東側の郭、右:東側の門跡



左:北側の堀、右:西側の土塁(外から)




12年前に行ったっきりだったが、いつの間にか南側一帯が整備され、土塁や堀、武家屋敷といったものが復元されていた。ついでに本郭辺りも同じようにしてくれればもっと良いのに。
ここで窪谷さんにハプニング発生。こちらも5年前に同じような事をしでかしていたので気が気で無かったが、ともかく無事だった。
河野氏の居城。河野氏は元々は高縄山系を本拠としていたが、南北朝の頃に一族が分裂し対立した上に今治の国分山城を中心とした南朝方の勢力が強かった為に湯築城へ本拠を移動したらしい。その後もしばしば戦場となり、争奪を繰り返した。四国征伐後には小早川隆景、福島正則が入るものの、国分山城に本拠が移された為に廃城となった。





港山城


左:湊三嶋神社、右:南側から



左:東側にある登り口、右:平坦地と土塁



左:行き止まり付近、奥は藪、右:南西側の平坦地にある円形窪地(小)



左:円形窪地(大)、右:同左の連絡路






三津浜港の北側の小山が港山城である。登り口は東の尾根の麓にあるが、途中で藪に埋もれてしまい進めない。神社のある南西側から直登すると平坦部の取り付きには行けるものの、頂上の平坦部は密生した細竹の藪で、とてもではないが入れない状態である。
また南西側の平坦部には戦時中には海軍の探照灯陣地があり、現在でも探照灯と管制器のあった円形窪地が残っている。





葛籠屑城


左:南麓から、右:東に続く尾根筋から山頂を見上げる



左:山頂の平坦地、南側、右:同左、北側



左:北下の郭、祠がある、右:同左の北下の石垣



左:北側の堀切、右:同左






JR予讃線の堀江駅の北東、国道196号線のトンネルの上に葛籠屑城がある。南側から回り込んだが取り付きは北側にあるので尾根を越す羽目に。しかも畑で農作業をしていたおっちゃんから「勝手に人の(畑の)道に入るな」と怒られる。こういう例は初めてなので多少戸惑う。商品価値の高い柑橘類が多かったから泥棒にでも入られたのだろうか。ともかく北側から回り込むのが正解。
城には北側の堀切から尾根に取り付き、そのまま尾根を南下することによって山頂まで行けるものの、殆ど直登。斜面も険しく危険であり、上級者で無い人は避けたほうが良いと思われる。
元々は河野氏の一族である大内氏の居城だったが、早い時期から村上氏のものとなる。戦国期は因島村上氏の一族の村上氏が入っていたが、元亀3年に織田方に攻め落とされて落城。その後も天正8年に河野方に攻め落とされ、四国征伐の際に河野氏の滅亡と共に廃城となった。





横山城


左:南東側の堀切群、右:同左



左:南東側の堀切群、右:同左



左:南東側の堀切群、右:本丸手前の堀切



左:本丸付近の石垣、右:本丸



左:本丸平坦部、右:同左



左:本丸から東を望む、右:途中の藪に覆われた郭の堀切




松山市野外活動センター(レインボーハイランド)の体育館脇に登り口がある。本丸まではそれなりに整備された遊歩道で、途中の連続堀切が見ごたえがあってよい。ただ途中の一部の郭は藪になっていた。本丸には大きな岩が幾つもあり、岩には柱穴が幾つか残っている。
河野氏が湯築城に本拠を移した際、裏の守りを固めるために一族の通武によって築かれた。通武の子孫は南氏を名乗り、代々城主となった。秀吉の四国征伐の際には小早川隆景によって攻められ、落城している。




国道196号線沿いのショッピングセンターで昼飯。ビュッフェ式の食堂で、ついつい取りすぎてしまう。ここで控えれば痩せる事が出来るだろうに。





高穴城


左:中腹から高穴城を望む、左側のピークがそれ、右:今回の登り口付近




HPに書かれていた登り口(旧道との分岐付近)からアタックをかけるが、直ぐに道をロストする。そこで他に道が無いか探していたら、少し東側にかなり整備された登山道らしきもの発見。登って行ってゆくと、椎茸の原木を切り出しているおっちゃんに出会う。話を聞くと、城があるのは知っているがそこまでの道は知らず、このままこの道を登って杉林を直登し、尾根筋に行けばたどり着けるかもしれないと教えてもらったものの、体力精神力共に限界が来ていたので撤退する。
帰ってからもう一度調べなおしたら、初めの登り口から登った人は、あの斜面を直登していったようである。また他に西側の尾根を途中まで登っている人の記録に出会う。どちらにしても素人が行く場所ではない。撤退して正解である。





三十三台城


左:林道から南西端の郭を望む、右:南に伸びる郭の西下の石垣群



左:西下の石垣、右:同左



左:南に伸びる郭、右:同左、本郭を望む



左:本郭の西下の郭、右:本郭



左:本郭の北に延びる郭、右:同左



左:本郭の北に延びる郭、右:同左の北端から、更に下の郭を望む




私立立岩小学校のある猿川集落から南東にある三島神社を目指し、神社の脇に車を置いて林道を30分ほど歩く。神社までの道はかなり狭く、軽トラでないと難しい。また神社の近くにも車を置けるようなスペースは余り無い。また林道は一般車は立ち入り禁止だが、ダートで荒れており、軽トラでもない限り登坂は難しいだろう。
遺構は、一部が林道の拡幅工事で破壊されてはいるものの、郭や石垣が良く残っている。規模もかなり大きく、実質的な河野氏の本城と言われても納得できるものである。
詳細は不明。高縄山城が実際に存在せず、高縄山周辺に存在する複数の枝城の総合名称であったとすれば、その中心となった城ではないかと推測している人もいるようだ。とにかく詳細は不明。





高仙山城


左:本丸、神社になっている、右:本丸南側の石垣



左:本丸南側の土塁、右:同左を北西側から



左:一つ下の郭、右:同左から北を望む



左:駐車場近くの郭の南側の堀切、右:同左



左:南側の堀切を北上から、右:南側の郭を東下から



左:郭の北側の土塁、右:同左の北下の堀切、本丸は右上の方にある




高仙山山頂に城跡がある。城のすぐ南下まで狭いながらも舗装道がついており、またかなり広い駐車場も完備している。がそれなりに良く、おかげで冬の午後4時半過ぎにもかかわらず攻め落とすことが出来た。
山頂は神社になっており、周辺に石垣や土塁がある。また南下には郭跡が公園のように整備されており、堀切や土塁を確認することができる。
池原氏の居城。天正13年の四国征伐の際に小早川隆景に攻められて落城している。




今治のホテルへ。今日は早く、午後5時半には到着。
折角なので今治焼鳥を食べに行く。教えてもらった1軒目は満員。2軒目も席が一杯でカウンターへ。店の親父がかなりの仕切り屋で、慣れていないと席を立つ客もいるのではないか。親父のあわただしさにつられて駆け足で飲む羽目になったが、焼きたての焼き鳥はどれも美味しく、しかも2人で5500円程とかなり安くあがった。元々が慌しい食べ物だから仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。
2軒目に行くにしては腹も膨れてしまったので、ホテルに帰って早々に就寝する。




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