苦難の北九州遠征〜坂と汗と雪と風と〜

平成17年12月9日〜12日


岸岳城から北西方向を望む





○12月10日


午前6時50分に出発。
国道を回らずに県道を南下。岸岳の西麓にある唐津焼の窯跡の近くから蜜柑畑を登ると、駐車場が2ヶ所ある。奥の方の5、6台停められる駐車場に車を置き、登山開始。



岸岳城


左:本丸、右:本丸北東端の石垣



左:三左衛門殿丸の石垣、右:同左の右奥の石垣



左:三左衛門殿丸の北側の竪堀、右:本丸北側郭群脇の大竪堀



左:本丸北側郭群脇の大竪堀、右:同左の北西端の櫓台脇の石垣



左:本丸北西下の櫓台、右:同左



左:本丸北西下の通路脇の石垣、右:大手門東側の石垣



左:二の丸の井戸跡、右:二の丸の北西下の崩落して散乱した石垣



左右:二の丸と三の丸の間(?)の大堀切の石垣






登り口から本丸まで約30分。それに加えて城域が大きい為、登って降りるまで3時間以上かかった。
あちこちに石垣の遺構が残っているが、一部を除いて崩落もしくは埋没してしまっている。更に傾斜がきつい為に写真を撮るのも苦労する上に、石垣が崩落する可能性を含んでいるので危険でもある。ただ、遺構そのものは素晴らしかった。もう少し金をかけて保存してもらいたいものである。

松浦氏の一族である波多氏の居城。築城年代は不明である。秀吉による波多氏取り潰し後に旧波多領に入った寺沢広高は、しばらくは名護屋城を拠点として後に唐津城を築いて移るが、最近の説では唐津城に移るまでに岸岳城を改修して使用していたのではないかともいわれている。



本来の予定には入っていなかったものの、岸岳城へ向かう車道の脇に波多城跡があることが判り、攻めやすそうだったので寄り道をすることにする。



波多城


左:本丸奥の大堀切、右:本丸の土塁上から大堀切を



左:本丸、発掘中だった、右:本丸南下斜面の畝状竪堀群



左:自然石を利用した段差と梯子、右:車道脇に建っていた復元図









車道脇に神社があり、その裏の尾根筋に郭が連なっている。ただ神社の直ぐ裏一帯が藪になっており、鉈で道を切り開きながら進む。少し進むと南側へと降る立派な道があったので、本来は神社の裏(南東)へ回り込む車道脇辺りから本来の登城道が出ているのかもしれない(未確認)。
しばらく尾根上を歩くと大きな岩に梯子がかかっているので(梯子場の東側に本来の虎口らしきものがあったが、傾斜が急なので降りはともかく登りは梯子を使った方が良い)それを登り、またしばらく進むと本丸へと出る。発掘中であちこちにブルーシートが被せられていた。
本丸の周りには低いながらも土塁が回っており、本丸の南東側には大きな堀切が、そして南側には畝状竪堀群が連なっている。発掘中ということもあり小粒だが見ごたえのある城だった。

波多氏の城らしいが詳細不明。平成14年からの発掘調査で14世紀末〜16世紀頃の中国や朝鮮の陶磁器が大量に発掘された。急峻さを考えると岸岳城は詰の城で、普段は麓で便の良い波多城に居城していたのかもしれない。



国道202号線を伊万里市へと向かう。




伊万里城


左:山頂平坦部、右:市街地を望む





伊万里市の市街地を望む小高い山の上にある。駐車場が無いので広い道に駐車して歩く。幼稚園と寺の間に登り道がある。
山頂は公園になっており、平坦地以外にこれといった遺構は見当たらない。城の本来の規模も不明。

鎌倉時代に築城されてから天正4年(1576年)に竜造寺氏に攻め落とされるまで、伊万里氏の居城として栄えた。



伊万里湾沿いに北上し、一度長崎県へと入る。




梶谷城


左:駐車場脇の石垣、右:大手門付近の櫓台の角部



左:本丸、右:本丸北西隅付近の石垣



左:本丸から北へと延びる石塁、右:石塁の小さな門跡




二の丸辺りまで車道が延びており、攻略は大変に楽である。
図面を見る限り、石垣の多く残る素晴らしい城に見えるが、手入れが悪く藪に覆われている部分が殆どだった。肝心の大手門すら雑草を掻き分けないと進めない状態というのはどうなのであろうか。梶谷城の特長とも言える石塁も雑草や潅木で覆われており、確認は取れるものの写真には撮れない状態である。ただ、本丸からの景色は素晴らしい。
それから、石塁の写真を撮っていたら大きなイノシシを見かけた。ちょっと怖かった。

平安時代末期頃に松浦氏の本拠として築かれたといわれている。南北朝時代以降には本拠は別に移されたが、それからも改修を重ねられながら戦国末期まで使用され続けたとみられている。


一度伊万里市まで戻ってから、国道202号線を南下。大きくうねった川の内側の山が唐船城である。




唐船城


左:展望台から北を望む、右:本丸?の展望台



左::南北で2段になっている郭、右:北麓の神社の石垣








北の橋の脇にあった駐車場に車を停める。城山の北麓は神社になっており、斜面にはかなり立派な石垣が何段かそびえている。
石段が山の中腹の社まで続いており、社の裏から延びる山道を登ると尾根に出る。尾根に沿って西端に行くと本丸(大系では狼煙台としている)らしい平坦地があり、展望台が建っている。
山頂部は東西に長細く、幅が無いのであまり人数を上げておくことは出来なさそうであり、大系に書かれているように北斜面中腹の社のある平坦地を本丸と推定するのもわからないでもない。といって矢張りそういう変則的な配置も納得いかない。
南麓には公園があり、こちらにはさらに大きな駐車場がある。東側は大きな堀切があったそうだが、現在は道路が通っているために痕跡は見当たらない。

松浦家の一族である有田氏の本城として鎌倉時代の初めに築かれたといわれている。その後、相浦へと進出した為に唐船城には城代が置かれた。天文9年(1540年)に相浦が平戸松浦氏に攻められ平戸との抗争が続いたものの、永禄11年(1568年)には和解し、有馬家から養子を迎えて有田盛公が唐船城主となる。
しかし天正4年(1576年)には竜造寺隆信に攻められ、翌年に降伏。以後は竜造寺氏の支配下に置かれた。寛永年間(1624年〜44年)に廃城となる。


黒髪山を南側からぐるっと周りこみ、黒髪山西麓の住吉城へ。




住吉城


左:虎口東脇の堀、右:東にある平坦地(左)と堀(右手前)



左:郭東部の堀、右:堀は石垣で構成されていたらしい



左:南東端を切っている堀、右:堀の西角部








谷に突き出た台地上に、方形に近い土塁と堀とが整然と造られている。南東部は自然地形そのままの緩やかな斜面で、その南東端を堀で切ってはいるものの、あまり堅そうにはみえない。堀には所々で石が散乱しているので元々は石垣で組まれていたように見える。とにかくなだらかな台地上に方形館が突然出てきているようで、なんとも違和感を感じさせられてしまう。

築城年代は不明である。慶長4年(1599年)に焼失するまで、武雄領主である後藤氏の居城として使われた。


国道35号線を東へ進んで武雄市を通過し、杵島山を北から回りこむ。




須古城(付:杵島城・男嶋城)


左:本丸南斜面にある石垣、右:本丸



左:本丸の西下にある門の石垣、右:東にある小学校方面、奥の小山が男嶋城





須古小学校のすぐ西の小山が須古城である。年末の事件以来、小学校へのカメラを携帯した侵入は古今例を見ないが、ともかく堂々と校庭を突っ切って山に取り付く。取り付いてみて実は登り口の直ぐ傍まで車道が来ている事に気が付いた。不覚。
本丸までは階段と山道がしっかりしているが、他は全て竹薮になっている為に侵入は困難である。それでも折角だからと竹薮を掻き分けながら回ってみたが、石垣や石垣跡と思われる落石を確認できたものの、藪なのと光量不足とで碌な写真が撮影できなかった。手を入れて公園にでもしてもらえると助かるのだが。

平井氏の居城。天文年間(1532年〜55年)に平井経治が築き、支城として東西に男嶋城と杵島城とを置いて弟達に守らせた。天正2年(1574年)から4回にわたる竜造寺隆信の攻撃に遭って落城し、その後は竜造寺氏の支配下にはいった。江戸時代に入ってからは須古邑主の居城として用いられた。




杵島城


左:東正面、右:頂上平坦部、神社が建っている



左:平坦部西端、一応車道が上がっている、右:須古城を望む

須古城の支城。田んぼの中にある小さな丘で、丘全体が神社になっている。平坦地以外に遺構は残っていない。




男嶋城


平坦部、完全に竹薮



南からの全景

須古城の支城。田んぼの中にある小さな丘で、民家の裏から道が出ているがすぐに竹薮や林になっており、探索は困難である。また周りの道が狭くて車を停めるスペースも無いので、余程のことが無い限り来ることは無いかもしれない。




島津城


左:東側の丘の上の平坦地、右:手前が東側の平坦地、奥が西側の平坦地



南側からの全景、左手前に鳥居と小さな社がある





2つの丘で構成されている。西側の丘は畑に、東側の丘は林になっている。西側の丘には登れたが、東側の丘は未探索である。また西の丘の南側には石碑が建っている。

白石氏の支城といわれている。築城年代等は不明。



以上で2日目の日程を終了し、宿泊地である多久市へと向かう。


宿は古くてぼろかった。どうも宿の横で始めた居酒屋と主客逆転になっており、宿はおまけみたいなものになっていた。宿泊サービスも悪く、テレビはあったものの浴衣が無いのには困った。ただ、2食付で一泊5500円という格安価格で、飯は居酒屋だけにしっかりとしていた。
近くをまわって買物をし、夕飯後に翌日の作戦会議も兼ねて酒を飲む。あまり遅くならないうちに寝る。



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