苦難の北九州遠征〜坂と汗と雪と風と〜

平成17年12月9日〜12日



獅子ヶ城から岸岳城を望む




○12月11日


日の出とともに梶峰城に取り付けるよう、午前7時前に宿を出発。7時過ぎには麓にある郷土資料館の駐車場に到着する。



梶峰城(前期梶峰城、後期梶峰城


左:遠く梶峰城(後期梶峰城)を望む、右:前期梶峰城の上の段



左:前期梶峰城の下の段、左:南西の大堀切



赤線:徒歩での侵攻路、赤×印:諦めた地点、ピンク色線:本来の登山道


まずは麓の神社の裏手にある、前期梶峰城へと向かう。
神社から階段がつけられており、ものの5分もかからない。城域は公園化され、桜の木が植えられている。最高所の南東の林の中には大堀切が残っているが、木の葉や枝等が積もっているためにわかりにくくなっている。

続いて山頂の後期梶峰城へと向かう。しかしここで何を勘違いしたのか、前期梶峰城の南東の林の中へと続いている山道を進んでしまう。踏み跡もしっかりとしており、また一度山を下りて登り直すのも面倒臭かったので、この山道から本来の登山道へと合流する積もりで進んでいった。途中から道は悪くなったが木の枝に赤いビニールテープが付けられているので安心して登っていたのだが、途中妙に心配になって地図を調べた所、本来の登山道とは尾根を2つ間違えた辺りを登っている事に気づく。
かなり登ってきていたのだが、後から来ている窪谷に間違いを謝って麓の神社まで引き返す。(実はこの時、水縄手曲輪の発掘現場の直前まで来ていた事を、家に帰ってから気づいて更に後悔するのだが。)

麓の神社まで戻り、地図に描かれている本来の登山道を探すのだが、ここでもまたもやミスをして、砂防ダムへの道を途中まで登ってしまい、砂防ダムの反対側に窪谷さんが立っているのを見て慌てて元の場所へと戻る羽目になる。
神社の南東側にそれなりにわかりやすい登山道が直ぐ見つかり、どうしてこんなわかりやすい道を見つけられなかったのだろうと自分を笑いながら窪谷さんの後を追いかけるのだが、その窪谷さんも登り始めてすぐの所で、背丈ほどの草に行く手を阻まれていた。鉈を持ってきていれば開鑿しながら進めるのだが、それにしても100m以上は藪こぎをしなければならないし、何より現在梶峰城は発掘中である筈なのに、道がこういう状態である筈は無いだろうということで撤退。駐車場まで戻ってから作戦会議をやり直す。

窪谷さんが得た情報によると梶峰城は現在発掘中で、登城記録を書いている人はこの発掘現場を見学した後に主郭部(最高所)へと向かっているそうで、まずはこの発掘現場へ何とか向かう事にする。

ここで駐車場を通りかかった地元住民に聞いてみるが、そもそも梶峰城があることすら知らない人が多く、知っていても登山道がどこにあるかも知らなかった。諦めて地図を頼りに他の登山道が無いか探索する事にする。

まずは山の南西側に延びる尾根筋に、薄っすらと点線が引かれていたので行ってみると山道らしきものが見つかったのだが、進んでも進んでも尾根を登る気配も無く撤退。

続いて山の東に延びる尾根筋から登れないかとまわってみると、それなりに使用痕のある山道を発見したので登ってみるが、散々登らせた上に墓所の所で道が消えてしまい、撤退。その尾根の北側を回る林道も、窪谷さんが探索してみたが砂防ダムの道だったということで駄目と、どうにもならなくなる。

この時点で午前9時をまわり、これ以上時間を浪費するのも考えものだったので、諦めて獅子ヶ岳城へと向かう事に決定して総退却を開始する。何とも悔しい結果に終わってしまった。


建久2年(1191年)に地頭として多久に下って来た初代宗直によって築かれたといわれている。天文13年(1544年)の多久宗時の時に竜造寺に攻められて落城するが、その竜造寺氏も有馬氏に追われ、梶峰城には有馬家臣の本田美作守が入る。しかしその後竜造寺氏が盛り返して有馬勢を追い、竜造寺隆信の弟である長信が入る。更にその後、蓮池城城主だった小田鎮光が梶峰城に入るが、永禄12年(1569年)の大友氏肥前侵攻の際に竜造寺に対して叛旗を翻す。しかし頼みの大友氏が撤退してしまった為に竜造寺勢に攻められて討ち取られ、梶峰城には竜造寺長信が再び入る。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉に多久支配を認められる。長信の子の家久の時、多久長門守安十と名乗り、後多久氏の始祖となった。そして元和元年(1615年)の一国一城令で破却されたといわれている。


後日情報:
家に帰って調べ直した所、多久市のホームページ内の市報多久の平成16年10月号(現在上からリンクが張られておらず、Google等で検索をかけて調べないと行き着けない。一応ここ)の中に水縄手曲輪の発掘の様子がまとめられており、その発掘場所を確認すると、1回目に登った山道の、引き返した場所からちょっと奥一帯、もしくは墓所の尾根の北麓から延びる林道の先であり、もう少し頑張って突っ込んでおけば、もしかしたら登れたかもしれなかった事が判明し、えらく凹む。
更には北九州を中心に城をまわっておられるKさんという方にメールで伺ったところ、Kさんは神社の南東から伸びる本来の登山道を登り同じ場所で行き詰まってしまったものの、林の中を大きく迂回して強引に登ってしまったそうだ。あの場所さえ越せば後は何とかなったらしく、同様にえらく凹む。

何とも悔しい限りだが、平成22年まで城域全体にかけて順次発掘が行われていく予定だそうで、それが全部終わった後にでも再び攻め直すのが良いのだろう。…でも悔しい。


多久市街に戻って、国道203号線を西に走り、厳木から県道32号線に入る。




獅子ヶ城


左:本丸、右:本丸北西の虎口の石垣



左:二の丸の発掘風景、右:本丸南東下の長い石垣



左:太鼓櫓(本丸南東下)の石垣、右:二の丸南下の石垣崩落個所



左:砥石を切り出した場所?、右:三の丸最南端の櫓の石垣、細かい細工



左:三の丸最南東端、崩落か作りかけか不明、右:三の丸最東部の虎口



左:二の丸の北東隅の石垣、右:二の丸の東側の石垣、岩を上手く利用



三の丸の北側の石垣、高所恐怖症には耐えられない工事



左:駐車場から、右:駐車場の東にある出丸の石垣






城のすぐ東下まで車道が登っているので寄せるのは楽である。駐車場から5分もしないうちに三の丸に出る。
とにかく素晴らしい。山自体が岩山で、その岩を巧に利用して石垣を組んでいる。整備も進んでおり、眺めも良い。
本丸の西端と三の丸の東端に立派な虎口があるのだが、その先はとても道なんか付けられそうも無いような絶壁で、築城当時はいったいどういう風になっていたのか、興味のあるところである。

治承から文治年間(1177年〜90年)に松浦党の源披が厳木町一帯の所領を与えられ、その拠点として獅子ヶ城を築いたといわれているが、源披の子の持の代になると平戸に移ってしまう。
戦国時代になり、唐津と佐賀をと結ぶ街道が通る浪瀬峠をおさえた位置にある獅子ヶ城の重要性が再認識され、上松浦党一同が議して日在城城主である鶴田直の弟である兵庫介前に天文14年(1545年)に再建を命じ、この地一帯を治めさせた。鶴田氏はこの城を拠点に勢力を拡大したが、文禄3年(1594年)に主家の波多氏の領地没収の際に鶴田氏一族も追放され、その後に廃城となった。



国道203号線を東へ。



晴気城


千葉城から見た晴気城(多分)




事前情報では登山口が判らなかったが、時間があれば推定地一帯を回ってみようと考えていた。しかし梶峰城で時間を取られてしまった為に諦める。多分この辺(赤線範囲)かと思われる。誰か吶喊して欲しい。

下総の千葉常胤が治承4年(1180年)に小城郡晴気荘の地頭に任じられ、以後代々地頭職を継いだ。六代頼胤の次男宗胤の時に分家して肥前千葉氏の祖となり、小城周辺で勢力を広げた。しかし胤朝の時に後継ぎ問題から内訌が生じ、胤朝の弟の胤盛が東千葉氏、また少弐氏から養子に入った胤資が西千葉氏を称するようになった。そして千葉城に拠った東千葉氏の胤盛に対抗する為に胤資が文明18年(1486年)に築いたのが晴気城である。
大内氏と大友氏との争いに絡んで東西千葉氏でも争いが続いた。永禄2年には竜造寺氏と結んだ胤連は、東千葉氏を追放して千葉氏を統一したが、実質的に竜造寺氏の配下となってしまった。晴気城の合戦・廃城の時期などは不明である。




小城城


左:桜岡小学校の南西端にある堀跡と橋、右:庭園跡の小山(烏森神社)




庭園跡が公園や神社になっているが、屋敷跡は学校や住宅地となり跡形も無い。辛うじて堀跡と橋が残っていたが、実際どうなのかは判らない。良く判らなかったので南端に車を停めてしまったが、小学校の西側に広い駐車場がある。

鍋島家の支藩である小城藩の陣屋。



公園の南にある売店で昼食。懐かしい駄菓子が色々と売られていたので買っていく。売店の周りには野良猫が多く、餌付けされているのでビニール袋を持っているとワラワラと寄って来る。猫好きにはたまらないポイントだが、時間が無いので先を急ぐ。



千葉城


左:本丸?の展望台から神社方向、右:本丸?の北東方向、城山



左:本丸?、右:須賀神社







小城城の北東にある小山。西半分が神社、東半分が公園になっている。神社の階段は急であるが、公園の北東側まで狭いながらも車道が通じている。
公園には郭らしい平坦面が幾つかあるが、本来の遺構なのか公園整備時の加工なのかはわからない。大系にある山頂西部にある石垣は見つけられなかった。

肥前千葉氏の本拠。分裂後は東千葉氏が拠ったが、永禄2年(1559年)に西千葉氏の胤連と竜造寺隆信の連合軍に攻められて、東千葉氏は三瀬城主の神代勝利を頼って退城した。



県道48号線、さらに県道31号線を西に進む。



勢福寺城


全然関係無いが、高速道下にあった旧道の石橋




事前に登山口の情報が得られなかった為、まず山の南にある種福寺を目指す。寺の南の畑で農作業をしているおっちゃんが居たので登山道の有無を尋ねるが、今はもう無いとのそっけない返事。といってハイそうですかと帰るわけには行かず寺の裏手の山に取り付いてみたが、竹薮が酷くて諦める。
それから寺の住職に話を聞くと、寺の裏からの道は荒れていて登れない事、それから昔子供の頃に登った道がもしかしたら登れるかもしれないからと車で案内してもらう。大きく西に回り、未舗装の林道を北に上がった所で降ろしてもらい教えられた道を進むのだが、こちらも藪に覆われて道が判らなくなって撤退する。
車を停めていた寺の門前まで帰りどうしようか考えていたら、爺さんが犬を散歩させていた。駄目モトで聞いてみると、「楽勝だよ、楽勝」と道を教えてもらう。高速道路を潜った道を進めば良いらしい(後から考えると、爺さんか自分かが何かの勘違いをしていたような気がする)。
車で高速道路の下まで移動してそこから北に進むが、高架を潜るとすぐに道が3方向に分かれており、爺さんの言っていた道がどれだか判らなくなる。諦めて3つとも全部進んでみたが、どこも道が消失してしまい撤退。
最後に地図にある道を進んで城山の北の尾根まで寄せようとしてみたが、途中から道が狭くなりすぎたので諦めて総退却に移った。

結局、初めのおっちゃんの言っていた「登山道は今はもう無い」というのが正解だったようだ。もしくは、種福寺の裏山を鉈を片手に強行突破して尾根に取り付いていたら何とか登れたかもしれない。ともかく誰か登って道を作ってくれ。

築城の時期は明らかでないが、文和2年(1353年)に九州探題である一色直氏が小城に進出し、千葉氏と竜造寺氏を従えて仁比山城(勢福寺城)に入ったと記録にあるので、その頃には城が存在していたと考えられる。その後、菊池氏、少弐氏、大友氏、大内氏、竜造寺氏と主が代わった後、竜造寺氏から江上家に養子に入った江上家種が城主となったが、天正17年に蓮池城に移った後は寂れてしまった。



勢福寺城で2時間も貴重な時間が飛び、午後3時を回って日も陰ってきた。慌てて南に下り、姉川城と横武城を目指す。



姉川城


左:本丸、右:妙法寺跡の南西の堀



左:城域南西部の民家、堀端へ降りる階段がある、右:堀、澱んで水が見えない






看板にあった現在の地図


現在の空撮写真


区画整理前の空撮写真


佐賀平野の田んぼの中にある。地図を見ないとここが城だったとは判らないが、地図や空撮写真を見ると見事なまでの縄張りであり、素晴らしい。
郭は田んぼと宅地になっているものの、堀はほとんど残っている。ただ地上からだと面白い写真が撮れない。一つ一つ歩いて実感するしか味わう方法が無い。

正平年間(1346年〜70年)に菊池武安によって築城されたといわれている。その後、菊池氏の一族である姉川氏が城主を継いだ。



横武城


堀は整備されて奇麗である



公園としては面白いが、城の遺構らしきものは堀しかない






発掘調査の結果


区画整理前の横武城


現在の横武城


現在は横武クリーク公園となっている。整備されて歩きやすいが、堀以外に城の遺構らしきものは全く無い。
城としての詳細は不明である。



午後5時も近くなり、大慌てで福岡県への越境を目指すが、神埼町の市街地付近で工事渋滞に巻き込まれる。それでも何とか国道385号線に出て筑後川を越えて福岡県に入る。



江上城


左:松林寺、南側は区画整理で真っ平ら、右:寺の東側の藪、土塁跡か?



左:寺の北西にある江上城の碑、右:同左、土盛は土塁跡か?




区画整理で殆ど痕跡が残っていない。松林寺の北西に土盛と碑が建っているが、本に載っていた写真からしてこの土盛が土塁なのかもしれない(だとすると手前の舗装道は堀跡)。寺の東側にも土盛が竹薮になっている場所があるが、ここが土塁跡がは判らない。

江上四郎武種の居城。少弐氏に属して竜造寺隆信と度々争ったが、後に竜造寺氏の配下となった。天正年間に落城し、その際に江上氏は滅亡してしまった。


午後5時を回り、日も沈んでしまったが大急ぎで犬塚城へ。



犬塚城


左:神社の南側が本丸跡だが区画整理で跡形も無い、右:神社の西にある櫓台跡と思われる高所



左:東側を南北に走る土塁跡?、右:土塁の北側、溝は堀跡?



左:もしくはこれが東側を南北に走る土塁跡と堀跡?、右:境内北東隅の櫓台跡?




現在、原口天満宮が建っている。神社の東側を南北に土塁らしき土盛が走り、道路脇には「犬塚城土塁跡と陣堀」という碑が建っているものの、どうみても水路と農業用排水溝である。神社の敷地の東端に段差と溝らしき跡があるので、こちらが本当の土塁跡と堀跡ではないかと思われるがどうなのだろうか。
神社の東北隅には本に櫓台跡とされる場所があるが、櫓台にしては段差が無さ過ぎる。神社の西側の畑の中にも櫓台跡らしき土盛がある。
神社の南側が本丸になるのだが、区画整理の為に跡形も残っていない。

応仁の乱(1467年)の頃に、鎮西探題渋川氏が築城したものの、延徳3年(1491年)に大友・少弐連合軍に攻められ落城する。その後、山下城主の蒲池繁久の弟家久が城主となり、犬塚繁貞を名乗り、代々犬塚氏の居城となった。犬塚氏は少弐氏の家臣となって勢力を広げたが、永禄10年(1567年)に少弐氏が断絶した為に竜造寺氏に従って肥前へと移り、犬塚城も廃城となった。




長かった3日目の日程も終了し、宿泊地である鳥栖市へと北上する。途中、窪谷さんが獅子ヶ城で無くしたカメラのレンズキャップを探しに家電販売店のデオデオに入るが、銀鉛カメラの関連製品は全くなくなっていた。ニコンやコダックが手を引いたのも判る気がする。

駐車場の遠いビジネスホテルに一泊。ここも1泊5000円でLANに大浴場付きという良いホテルだった。そしてそれ以上に、支配人が若い美人のおねえさんだったのだが、今日はホテル従業員の忘年会だそうでそのまま飲みにいってしまい、フロントには臨時で近所のおばさんが入っていた。何とも残念な話である。
夕飯を食べに外に出たのだが碌な店が無く、ホテルの近くに大きなスーパーがあったので、惣菜を買ってきてホテルで食べる。ただ空腹時に買い物をしたのでやたらと買いすぎてしまい、といって残す事も出来ないので、食べ過ぎて胃にもたれてしまった。
1階にある大浴場に入る。改装されたばかりで奇麗な上に、一人しか居なかったので思い切りくつろぐ。
フロントで無線LANのキットを借りてネットを見てまわった後に就寝。



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