苦難の北九州遠征〜坂と汗と雪と風と〜

平成17年12月9日〜12日



勝尾城林道の工事現場、上:登山時、下:下山時




○12月12日


これまで3日間は天気が良かったが、最終日だけ悪天候。しかも天気予報は雪。しかし国指定史跡になったばかりの勝尾城を逃すのは惜しく、更に鳥栖市内ではまだ雪が降っていなかったので、ともかく勝尾城の麓にまでは寄せてみることにした。




勝尾城


左:二の丸、右:二の丸北東の土塁跡



左:本丸南の虎口?の石垣、右:本丸



左:北側の2段石垣、右:東側の二重石垣(真中と上の方)



左:東側の二重石垣の上の段、右:二の丸の南東にある郭の石塁



赤線:遊歩道(今回登った道)、ピンク線:本来の登城道
緑線:現在工事中の林道、青線:車での移動路と駐車した場所


山に近づくに従って段々と天気が悪くなり、登り口の神社に着いた頃には雪が降り始めた。しかし降り方がそれ程酷く無かったし、何よりも雨よりかはましだと、登る事にする。
事前情報から南側の登山道2本の内の1本が林道の工事で通行止めになり、本来の登城道しか登れない事が判っていたので、まずは神社の奥へと向かう。ところがその道を少し登った辺りから、足元が滑りやすい岩場の、しかも鎖付きの険しいものになる。本来の登城道は足場が悪いと聞いていたものの、ここまできついとは予想しなかった。天候も悪いのにこれは危険だという判断で、引き返す事にする。

神社に戻り、神社周辺の遺構の撮影をしていると、遊歩道の登り口を発見する。ロープが張られ、大きく「通行止」の看板が置かれているのだが、工事をしていなければ通行は可能だったという事前情報もあったので、こちらから登り直す事にする。

10分程登ると、林道の工事現場に出る。遊歩道もろとも大きく山肌が削られており、一度林道に降ろされた後に急傾斜を登らされる。ロープが張ってあるものの、先程の岩場と同じくらい登り難い。といってこのまま登って引き返すのも何なのでがんばって登る。
林道から10分ほどで、やっと城域に至る。そこから5分で本丸。雪はだんだんと酷くなり、地面が大分白くなっていた。

勝山城は独特の形状をしている。西半分は普通の山城だが、東半分が山肌に沿って石塁を築くという朝鮮式山城に近い構造をしている。特に東側を南北に走る2段になった石垣が見所なのだが、本丸から東側へ向かう道が判りにくい。本来の登城道を分岐まで少し降りて、北東方向に登り直す。
どうにか東側へと至ったものの、雪が積もり始めて石垣が見難くなってしまう。特に東側の2段石垣は何が何だかわけのわからない写真になってしまった。
雪が益々酷くなってきたので、早々に引き上げる。比高300mをもう一度下から登るのは嫌だが、林道が完成して車で登れるようになったら、もう一度来たいところである。

応永30年(1423年)に九州探題渋川義俊によって築かれたといわれているが、築城年代も築城者もあまりはっきりとしていない。その後、渋川氏と少弐氏との争いの中で城主が度々替わるが、最後には少弐氏の一族である筑紫氏の居城となる。約90年間筑紫氏の本拠として栄えるが、天正14年(1586年)に島津氏によって攻め落とされた。




荒天になった為、当初の計画を変更して大牟田市まで南下してみることにして、高速道路に入る。
南向かって高速道路を走っていると、高良山のある耳納山脈を越えた辺りから急に天気が良くなっているのが見えた。これなら何とかなるのではないかということで、急遽久留米ICで降りて計画通りに耳納山脈沿いの城を攻めることにする。





吉見岳城、毘沙門岳城、杉城、鶴ヶ城の位置図




吉見岳城(吉見嶽城)


左:本丸南東部の土塁、右:本丸



左:三の丸、右:二の丸から本丸




高良神社の駐車場に車を停め、売店の横の階段を下りる。10分ほどで金毘羅神社の建つ吉見岳山頂に至る。
2ヶ所の平坦地と、本丸の南東部に土塁、その下に堀切らしきものがある他は、遺構は見当たらない。ただ眺めは良い。

天文2年(1533年)に八尋式部によって築かれたといわれている。永禄13年(1570年)には竜造寺攻めの為に筑後に入った大友義鎮(宗麟)がこの城に入った。



雪が強くなったので、売店で昼食にする。売店は木造の山小屋のような建物。外は雪で、まるでどこかの雪山かスキー場にでも来たような錯覚がする。幸いに食べ終わるごろには雪が止む。

耳納山スカイラインをそのまま東に向かい、高良森林公園の駐車場に車を停める。日が照り始めて駐車場の路面から霧が立ち上り壮観な風景を示し始める。発心岳山の方を眺めると、山はすっかりと白く覆われてしまい、今回の攻略は見送る事にする。



毘沙門岳城(別所城)


左:本丸北下の空堀、右:本丸



左:本丸南西部にある長い郭にある土塁、右:本丸北西下の堀切



高良森林公園の駐車場のすぐ上に城跡がある。幾つかの平坦面と土塁、堀切が残っている。

延文4年(1359年)に菊池武光が懐良親王をこの城に奉じ、筑後川の戦いで少弐頼尚ら北朝方を破った。応安5年(1372年)にはここに征西府を置き、九州における南朝方の本拠とした。廃城の時期は不明である。



車を置いたまま、スカイラインを西に歩いて杉城へと向かう。



杉城(住厭城)


左:スカイライン脇の登り口、右:堀切の土橋、土塁跡らしき土盛がある



左:最西端の郭の段差、右:最西端の郭



左:北斜面にある畝状竪堀、右:畝状竪堀と直交する空堀




スカイラインに沿った尾根筋に郭が続いており、郭の間々に堀切が、また北斜面には畝状竪堀が並んでいる。中央の本丸の北下に犬走りが2本平行に走っているらしいが、時間が無くて両端しか確認できなかった。残念な事に荒れて入れない部分が多く、手を入れれば見所の多い場所になるかと思われる。

元々この杉城のあった場所には高良大社があったが、南北朝時代に現在の場所に移されて、城が築かれて南朝側の拠点の一つとなった。永禄7年(1564年)に筑後に侵入した大友義鎮が、ここを本陣とした。天正8年(1580年)には竜造寺隆信に攻められ落城している。天正12年に竜造寺隆信が島原で敗死すると、大友氏の失地回復が行われ再び大友方のものとなるが、天正14年には島津が北上して高良山一帯が攻め落とされている。



鶴ヶ城は同じ耳納山山系にあるが直接は車で寄せられないので、山を降りて北麓から回り込む。



偽鶴ヶ城


山頂には一応平坦地があった


山を間違えた。

城攻めを行う前には、集められる限りの情報を調べて25000分の1の地図で位置を確実にするようにしている。今回も一通り調べて位置確認を確実にしたはずだったのだが、ここだけは何を勘違いしたのか全然別の山を鶴ヶ城と早とちりしてしまった。思い込みとは恐ろしい。
自信満々に窪谷さんを先導して頂上まで登ったのだが、平坦地が一つあるだけで何も無い。尾根を下ってみたが、なだらかにくだっているだけで何も無い。さすがに間違っている事に気づいて大慌てで資料を読み返してみると、目印になっている寺の名前が間違っている事がわかった。窪谷さんに謝りながら山を下りる。

鶴ヶ城とは関係の無い場所。ただきれいな平坦面があったので、狼煙台か見張所くらいはあったのかもしれないし、そう思いたい。




鶴ヶ城(舞鶴城)


左:二の丸、水場がある、右:本丸、家の廃墟がある



左:本丸北側の畝状竪堀(西側)、右:その拡大



左:本丸東下の大堀切、右:本丸北下の畝状竪堀(東側)


東明寺傍の王子神社の東側に登り口がある。道が荒れ始めているがそのまま登ると、10分ほどで城跡に出る。本丸には住宅の廃墟が残り、西の二の丸には御堂と石仏がある。辛うじて道が残っているのはここへの参拝者が居るおかげである。
城跡は藪に飲まれており遺構が確認しづらいが、畝状竪堀が良く残っている。二の丸には水道の蛇口があるが、これが湧き水から引いてきたものか上水道から引かれているものかは判らなかった。
ただ一つ残念だったのは、畝状竪堀の2、3本を破壊して道が付けられている事である。

高良山座主の出城として築かれたらしいが、詳細は不明。



窪谷さんの飛行機の時間が迫ってきたので、北上を開始する。



三原城


個人宅の古い大きな屋敷の北に建つ碑と看板




空堀や土塁等の遺構が残るらしいが個人の敷地内にあるために、入る事が出来ない。屋敷の北側の通り沿いに三原城の碑と看板とが建っているので、ここで写真を撮って退却。

三原時勝が大同4年(809年)に館を築いたのが始まりだととされている。建仁年間(1201年〜3年)頃に高祖山城の原田氏から種朝が三原家の養子に入っている。南北朝時代には三原家は南朝方に属し、多々良川の戦いで敗れた菊池武敏が三原城に篭城するも攻めれ落城している。応仁の乱(1467年〜77年)の頃には三原氏は大内氏に属したが、大内義隆が陶晴賢に殺されて大内氏が滅びると大友氏の支配下に入り、高一揆衆の一員として大友氏直参となった。大友氏が耳川の合戦で島津に敗れて勢力が衰えた後も大友氏に属し、三原重種は岩屋城に篭って討死している。




山隈城


左:本丸の展望台と神社、右:筑後平野



左:三の丸の社、右:三の丸脇の駐車場




事前情報で山頂まで車道が続いているのが判っていたので、楽勝かと思われたのだが、実際に行ってみると登り口付近でチェーンが張られて車が入れなくなっていた。歩いて登るには時間がギリギリだったが、といってここまで来て帰るのも癪だったので、大急ぎで車道を駆け上がる。
駐車場のある三の丸と神社の建つ本丸しか回れなかった。南東の出丸部分には土塁や、山の斜面には堀切があったらしいが、とにかく時間が無かったので回れなかった。何とも悔しい限りである。

延文4年(1359年)の筑紫川の合戦の頃に、少弐頼尚によって築城されたといわれている。戦国時代には秋月氏の支城になったが、秀吉の九州平定後に筑前一国と筑後二郡を与えられた小早川隆景が修復し、家臣を配置したといわれている。小早川氏の国替えの後に廃城になったものと思われる。



トラブルも色々あったが以上で終了という事で、筑後小郡ICから高速道路に入って福岡空港へと向かう。
大きな渋滞も無く、離陸の30分以上前には空港に到着する。
窪谷さんを送った後、一人広島に向かうのだが、山口を過ぎた辺りから大雪になる。降雪で路上の白線が見えなくなるのを経験するのは初めてで、しかも夜間。前を走る車の後ろについて走ろうとするのだが、殆どの車がこの大雪の中を100km近いスピードですっ飛ばしており、走馬灯がぐるぐると回った。
どうにか無事に到着したものの、最後までトラブル続きの遠征だった。



戦果
	攻撃対象	32城

	うち 棄権	2城

			30城	攻略



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