山陰遠征2 〜悪夢の山陰遠征〜

平成16年9月23日〜26日


○9月25日

曇り。晴れて暑いのも辛いが、曇りで足場が乾かないのは、それはそれで問題だ。

朝飯前に2城。



平家丸城


平坦部




学校の裏山になっている。
南東の隅に車を停めて、畑の間を直登。

平坦部は広く、東半分は畑、西半分は雑木林になっている。西の学校からも登り道があったが、最近色々な事件が有るので学校からは回りにくい。来た道を帰る。

平家に関わる城とも、塩冶佐々木氏一族の今一正近の城ともいわれているが、正体不明。



向山城


平家丸城の南南東に500mの所にある。山そのものはすぐに判ったのだが、登り道が見つからない。東側の尾根筋の斜面は一面の雑草で、しかも雨で草が濡れて足元もぬかるんでいる。その割に山は鬱蒼とした竹林で、損害覚悟で強行突入する気にもならない。南西の道路脇に城の看板があるものの、こちらにも道はない。一周してみたがどこにも見つからないので諦めて帰る。

塩冶氏の城といわれているが、こちらも正体不明。



朝食。二目の目玉焼き(半熟)が出たのは嬉しかった。


出発準備をして、今日から参加の石神井さん(仮名)を出雲市駅で迎え、半分城へと向かう。



半分城


左:西一郭に建つ鉄塔、右:看板




鳥取県立工業高校の裏山。血の気の多い工業高校生徒なら襲われる事はあっても襲える事は無いので、構内を歩き回ってもある意味安心だ。
工業高校の駐車場に車を停め、高校の構内を裏山目指す。高校の南東部に登り口がある。
遺構は残っているようだが、雑木や雑草で覆われていて入れない所が多い。主郭にはベンチが置かれているのだが、雑草に埋もれている。看板から、工業高校を通らない南からの登り道もあることが判る。

ここも正体不明の城。



国道と県道、それに農道を駆使して出雲市を西へ移動。



神西城






神社までの石段がきつい。
神社の裏から頂上まで登りやすい道が延びているが、台風の為に2ヶ所程倒木で塞がれていた。頂上は整備されて眺めも良いが、縄張りが大きい割に見て回れる範囲は頂上付近のごく一部しかないのは残念である。


出雲市の北側へ。



鳶ヶ巣城


左:南郭、右:主郭





比高250m、麓から30分弱。かなりきつい山の筈なのだが、登り始めた時に、サンダルにTシャツ姿の若い兄ちゃんが上からものすごい勢いで駆け下りて来たのには驚いた。駐車場に浜松ナンバーのTodayが居たので、その主だとは思うのだが、一体何者かと不思議に思う。
南郭に水道が引いてあった。このクラスの山城で山の上まで水道が引かれているのは珍しい、というか、こんなところまで苦労して水道設備を引く事に意味があるのか疑わしい。そしてその割には、南側の郭以外あまり整備状況が良くない。
城としてはかなり良い部類に入る。水道を引くくらいなら、四方の郭をしっかりと整備してくれた方が、よっぽどいい。

永禄4年(1561年)に尼子氏攻略の為に毛利元就が築いたといわれている。



高瀬山に向かう途中に国道9号線の脇にラーメンを発見したので、ここで昼食。まあ普通のラーメン屋。


鳶ヶ巣山で体力を失っていた我々は、とても正面(北側)から高瀬山を攻略する気力も無く、地図をじっと眺めた結果、距離はあるものの比高差の少ない光明寺から北上するルートで攻略する事にする。

高瀬山城


左右共に主郭。ガスが濃い




光明寺の駐車場に車を停めて登り口を探すのだが見つからない。25000分の1の地図を見ると、この寺の南隅から中国自然歩道が延びている筈なのだが、山道らしいものはあっても荒れていて自然歩道とは思えない。雨が降り出しそうな天気で登るか止めるか躊躇していると、薬田さんと窪谷さんが寺の人に道を尋ねに行き、やっと正しい道が判明する。寺への石段の途中から北へとバイパスが造られていた。
(ちなみに寺の南東にある城平山も山城…らしい)

この道から中国自然歩道に上がり、少し歩いた所で分岐を左折する。ここからは湿気た林で、雨のせいもあって足元がぬかるんでいて歩き辛い。
寺から10分ほどで視界が開けて等高線に沿った道になるが、所々道がぬかるんでいて足をとられる。景色は良いが、高所恐怖症の自分は怖くなる。そんな道を15分程進む。
そうして漸く高瀬山に取り付くのだが、この急斜面が剥き出しの岩肌で、ザラザラと崩れて滑って登り難い。ここを登って最後に5分ほど尾根を北上して、やっと本丸跡へと辿り着く。
最高所は城とは思えないくらいに普通の山だった。木が無く眺めは良さそうなのだが、丁度霧が出て視界が無くなってしまう。
少しばかり北へ降ると郭が幾つか連なっているのだが、どこまでが城の遺構なのかはハッキリとしなかった。

尼子氏の被官、米原氏の居城。築城年代は不明だが、天文元年(1532年)頃から名前が記されている。一時は毛利方に組したが、永禄12年(1569年)から尼子方に復帰し数少ない尼子方の拠点となったが、元亀2年(1571年)に落城。吉川元春が入城し、尼子氏が一掃された後には廃城されたようである。



来た道を戻る。比高差は殆どないのだが、距離があるのと足場が雨で悪くなっていたので、結局は北から登るのと同じくらいに疲れてしまった。


高瀬山で思った以上に時間を取られてしまったので、高麻山城は飛ばして、佐世城へと向かう。




佐世城


左:郭の一つ、右:北側斜面




城の北側にあるゲートボール場まで車を上げて歩く。地図を見ているともう少し広い様にも思えるのだが、小さな郭が5つ6つあるだけだった。発掘調査報告書等を調べないと判らない。

佐々木清信がこの地に移り住み、佐世氏を名乗った。佐世氏は尼子氏に仕えたが、尼子氏没落後は毛利家に仕えたといわれている。



県道を南西へ進み、国道54号線を更に南西に進み、三刀屋へ。



三刀屋城


左:主郭、右:主郭の石垣




城山公園になっている。中腹までは車で登られるが、行き違いは出来ない道なので注意。
本丸部に低い石垣が2箇所程残っているくらいで、公園として整備されている割にインパクトの少ない城山だった。

承久3年(1221年)に諏訪部扶長が三刀屋郷地頭職に補せらた際に築城。以来天正16年に毛利輝元に領地を没収されるまで、350年以上にわたって三刀屋氏の居城として使われた。


午後4時を回っていたが、駄目元で宇山へ突っ込む。



宇山城


主郭




どの山が城山かすらも判らなかったので迷う。何とか登り口の看板を発見して、畑を耕していたおっちゃんに道を尋ね、大急ぎで登る。道は林道なのでしっかりとしていた。
頂上の平坦部は狭いが眺めは底々。地図をみると周り一帯に縄張りがあると思われるが、時間も資料も無いので早々に引き上げる。

宇山飛騨守久信が築いたといわれている。上宇山城、日登城とも呼ばれる。



湯村温泉泊。

折角の温泉地なので、夕飯の前に外湯に入りに行く。
旅の疲れか、久しぶりの温泉で気が緩んでいたのか。貴重品入れに財布やデジカメを入れて鍵をかけたまでは良かったのだが、脱衣所に鍵を置きっぱなしにして風呂に入ってしまった。出る時まで15分以上気が付かず、気付いて慌てた時には既に空。

事情聴取等で2時間かかる。その間、一緒に外湯に入りに行っていた石神井さんも巻き添えにしてしまう。その上にカードの停止といった所手続きまでしていただいた。色々な意味で凹む…というか陥没する。

親切にも取って置いて貰った夕飯を食べるが、味などしない。
眠れないかと心配だったが、酒が案外と回ってすぐに寝つけた。

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