山陰遠征2 〜悪夢の山陰遠征〜

平成16年9月23日〜26日


○9月26日

一文無しになってしまった為に、宿代は三人の先輩方に片代わりしてもらう。凹んでばかりもいられないので、出発。
財布と一緒にデジカメも盗られたので、車に事故検証用に載せていた写るんですで撮影を続行。2年ぶりの銀鉛フィルム写真での撮影だ。



三沢城


左:郭に建つ東屋(トイレではない)、右:井戸




動揺していた所為か、迷う。カーナビなど信じるものではない。

麓の民家の脇に車を停めて登る。
整備されているが、台風の所為であちこちに倒木があって回り辛かった。
二の丸周辺の石垣が立派だったが、写真の撮影に失敗していた。ああ、盗難に遭っていなければ…

三沢郷に補せられた飯島氏が数年を費やして築いたといわれている。三沢氏と改名し、開墾とたたらで付近一帯に勢力を広げたが、文明18年(1486年)に尼子経久が富田城の奪回に成功して尼子氏の勢力が大きくなると、三沢氏は没落してゆく。藤ヶ瀬城、亀嵩城と追われ、遂には天正17年(1589年)に毛利氏に服す事となる。




須我乃非山城


左:展望台、右:北側の展望




山頂まで車で登れる城、と言う事で行くのだが、道が狭いのと倒木が2箇所程あったので、楽勝と言うわけには行かず。
頂上は開けていて眺めがいいが、電波中継施設等が幾つも建ち、どこまでが遺構がハッキリと判らない。

三沢氏の出城で、家臣石原氏が南麓に居住した。後に尼子時代には斎藤熊三郎が北麓が居住した。




藤ヶ瀬城


左:馬乗馬場、右:南西にある郭





ここも登り口が判らなくて彷徨う。その辺を歩いているおっちゃんを捕まえて聞いた所、運良く詳しく知っていたので助かった。
2つある登り口の楽な方という事で、城の東側の谷筋から入る。楽と言うだけあって道も良い。
馬乗馬場(千畳敷)まではすぐに出るが、ここから上に登る道が見つからない。10分ほど探索して漸く登り道を見つけるが、途中で藪化が激しくなり、またも断念する。

横田盆地は12世紀初頭から岩清水八幡宮の荘園とされ、14世紀には仙洞御所の御料所となった。しかし戦乱によって治安が悪くなった為に、院宣によって三沢氏を地頭請所として招くことになった。三沢為忠は横田盆地の北にあたるこの地に藤ヶ瀬城を築いて横田荘を治めた。
しかし享禄4年(1531年)には尼子氏に攻め落とされ、藤ヶ瀬城には尼子氏の代官が置かれた。尼子氏が滅びた後も、横田荘から御所への貢納は天正19年(1591年)まで続いたといわれている。



国道314号線を南下。



下横田城(三笠山城)


左:本郭、右:二の郭



国道沿いに看板があったので脇道に入ったのだが、その先がわからない。ここでも近所の人に聞いて登り口が判明する。
登城道は幾つかあるが、我々は神社の裏の谷筋の道を行く。郭は2箇所程。頂上部の眺めは余り良くない。

永徳2年(1382年)に山名満幸が横田荘を横領した際に、石原宗政が仙洞御所側の代官を追放して築いたのが下横田城である。しかし間もなく明徳の乱に発展し、山名氏の敗戦によって石原氏も敗走、廃城となった。



時間も無くなったので、以上で終了。
東条ICから中国自動車道に入り、播但道を南下して姫路駅へ。どうにか時間内に御三方を送り届ける。


免許不携帯なのでドキドキしながらの運転だったが、事故も検問も無く寮に到着。

それから1ヶ月程、カード・免許の再発行手続き等に追われる。本当に情けない。そして何よりも、3日目までの写真がパーになったのが一番痛かった。窪谷さんに無理を言って、3日目までの写真を送っていただく。それにしても情けない。




雨が降らなければ、神楽尾、荒神山、高麻山の3つも落とせただろう。出雲くんだりまで出かける事も今後無い事を考えると、勿体無い。
いや、勿体無いというと矢張り写真。今後はリスクを考慮して、一日毎にパソコンに保存しておくようにしなければならない。


戦果
	攻撃対象	22城

	うち 棄権	2城

			20城	攻略



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