南山口リベンジ

平成19年1月7日〜9日


南彦島公園から小倉方向の砲台群を望む



○1月8日

ホテルの朝食を食べた後、0730に出発。まずは彦島に渡って弟子待台場を目指す。




弟子待台場(付、水雷発射所)


左:台場らしき土塁、右:同左



左:水雷発射所、右:同左



左:水雷発射所の水雷貯蔵庫、右:同左の内部



左:発射所脇の崩れた石塁、右:同左




南彦島公園の近くにあるということで、場所も確定せずに公園内を歩き回ったところ、見つけ出すまでに20分以上かかってしまう。正解は北東端。海に向かって弟子待水雷発射所の突堤が突き出しているが、その西上に台場があったらしい。一応それらしい土塁が残っていたが、看板が無いので実際にここが台場跡かは不明である。
水雷発射所は、水雷を発射する突堤と、水雷を格納するトンネルとで構成されている。残念なことに数年前の台風によって突堤は中央部で破壊されている。また突堤のすぐ北にある石塁も台場の遺構の一部として紹介してあった。石組は幕末頃のものだが、幅が5mもないので台場の関連施設かどうかは判らない。

弟子待台場:文久3年(1863年)の攘夷戦の為に築かれた台場の一つ。天保砲が7門配備されていたらしい。
弟子待水雷発射所:資料に出てこないので詳細不明。日清戦争当時のものか日露戦争当時のものかも不明。




筋山砲台


左:砲台へと向かう軍道、右:砲座の前縁、塗料は戦時中の迷彩塗装か



左:西端上にある観測所、右:同左



左:砲座脇の棲息掩蔽部、右:同左



左:砲座後部の連絡路(東方向)、右:同左(西方向)



彦島の南端に筋山砲台と田ノ首砲台が築かれていたが、田ノ首砲台は破壊されて霊園になっている。筋山砲台は何とか残っているものの、戦後の居住者によって石材やレンガが移動されて、当時の状態とは大分変わっている。また本来の軍道も途中で藪に埋もれてしまい、急斜面を直登してようやく本来の軍道へ辿り着くありさまである。
くの字型に6門の砲座と、砲座間に棲息掩蔽部(もしくは弾薬庫)が配置されている。北側に通路があり、その北側には土塁がある。西端上には観測所があるが、屋根が落ちてしまっている。観測所へは西端の砲座から道がついてしまっているが、本来は北側の土塁上から通路が続いていた筈である。
下関の明治期砲台のまともなものは、ここと竜司山、火の山しか残っていないのだから(残りは下関市によって徹底的に破壊されてしまった)、何とか保存・復元整備してもらえないだろうか。

明治21年(1888年)4月着工、22年8月竣工。27年8月に備砲開始、29年4月に完成した。26口径24cmカノン砲6門。大正9年の要塞整理によって廃止除籍された。




亀山台場


左:亀山八幡宮、右:神社西側の駐車場



左:亀山八幡宮を南から、右:同左





亀山八幡宮に砲を据え付けて、台場にしていたらしい。確かに、亀山八幡宮そのものが台場に最適な形をしている。遺構らしきものは無く、看板が建っているだけである。境内に駐車場があるが、気が付かなかったので南側にある市場の駐車場へ車を停めてしまった。

文久3年(1863年)の攘夷戦の為に築かれた台場の一つ。久坂玄端が指揮し、攘夷戦の火蓋を切った場所としても有名である。




壇ノ浦台場


左:変換された天保砲、右:同左正面



左:模擬砲、金を入れると音と共に煙が出る、右:同左後部





関門トンネルの下関側歩行者用入り口の近くに壇ノ浦台場跡がある。台場らしき遺構は何も残っていないが、先年に返還された天保砲と、模擬砲5門とが飾られている。模擬砲の内の1門は、金を入れると音と共に砲から煙が噴出すというギミックが備わっている。関門トンネル入り口の駐車場が利用可能だ。

文久3年(1863年)の攘夷戦の際に築かれた台場の一つ。




火の山砲台


左:第3砲台跡、右:同左の棲息掩蔽部の裏側



左:第2砲台の砲側観測所(展望台の土台にされている)、右:同左内部



左:第2砲台の棲息掩蔽部、右:第1砲台跡(ロープウェー駅)



左:展望台裏の遺構、右:同左、石材の残骸



左:展望台裏にかすかに残る砲側観測所跡?、右:西側の展望(六連島、金毘羅砲台、戦場ヶ原堡塁)



左:東側の展望その1(古城山砲台・門司砲台)、右:小倉方向



左:第4砲台の棲息掩蔽部、右:同左



左:戦時中の高射砲砲座?、右:第4砲台の何か



左:第4砲台の砲座付近、右:砲座と連絡路



左:砲座、右:観測所の地下部



左:観測所、右:観測所の上部



火の山公園一帯も、明治期砲台跡である。第1〜第4までの砲台があったが、展望台やロープウェー駅等の建設で、まともに残っているのは第4砲台だけである。ところが行ってみると第4砲台付近が工事中のために立ち入り禁止で入ることが出来なかった。何のために来たことやら。(仕方ないので5年前の写真を掲載)
第1砲台はロープウェー駅建設の為に全滅。第2砲台は展望台建設の為に観測所と棲息掩蔽部1ヶ所づつを除いて跡形も無く、第3砲台は砲座部は舗装されて駐車場、棲息掩蔽部は土がどけられて一部はトンネルのように加工されてしまっている。立体駐車場が建てられている場所にも兵舎他施設があった筈だがこちらも全滅。他にも所々にそれらしき残骸が残っているが、どういったものかは不明である。
第4砲台は、一部でNHKの電波塔建設の為に破壊されているが、砲座、観測所、棲息掩蔽部共に良く残っている(2002年当時)。戦時中には高射砲陣地としても使用されていたため、高射砲の砲座基部と思われるものも残っている。

明治21年(1888年)1月着工、24年2月竣工。第1砲台は28cm榴弾砲4門で22年12月に備砲開始、25年6月に完了。第2砲台も28cm榴弾砲4門で22年12月に備砲開始、24年10月に完了。第3砲台は23口径24cmカノン砲8門で22年12月に備砲開始、26年3月に完了。第4砲台は28cm榴弾砲2門で24年9月に備砲完了した。
戦時中は14年式10cm高射砲6門が据え付けられていた(高射砲第133連隊第2中隊)。




前田台場(御茶屋台場)


左:台場付近、右:碑のある階段付近



左:石碑、右:台場付近



茶臼山の南麓の高台に前田台場跡がある。石碑が建つのみであり、道路側の石垣が当時のものかどうかは不明である。

文久3年(1863年)の攘夷戦の際に築かれた台場の一つ。連合軍の反撃に遭い、占拠、破壊された。




櫛崎城


左:天守台?の石垣、右:同左上から東方向



左:北西隅の石垣の上に建つ民家、右:西側の石垣



左:西側の石垣、右の民家辺りが堀跡、右:西側の石垣





現在は関見台公園となっている。公園内に復元天守台がある他、現在は住宅地になっている部分の西側斜面に立派な石垣が続いている。

元々この地に内藤氏の城があったらしいが詳細不明。長府毛利藩の本城として慶長7年(1602年)に築かれるが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃却された。廃却後は現在の豊浦高校の場所に陣屋を築いて使用した。




勝山城(付、勝山御殿)


左:二の郭南面の石垣、右:主郭南側の郭



左:主郭、右:二の郭の西側



左:二の郭西端の土塁、右:二の郭の段差



左:二の郭西側から東方向、右:西麓にある勝山と四王司山の分岐表示(11年前には存在しなかった)



左:勝山御殿から勝山を望む、右:勝山御殿南側の石段(後付?)



左:勝山御殿西側の石垣、右:勝山から見た勝山御殿





勝山御殿横の駐車場から北に伸びる道は、11年前と変わらなかった。当時と違うのは、勝山三山のハイキングコースとして整備が進み、看板や分岐表示が各所に設置されている事である。当時はこんなものは何一つ存在しなかった。そして通りがかった地元民に間違った山を指示されて、四王司山へ登らされてしまったのである。新しく置かれた看板を見ていると複雑な気持ちになる。
ともかく、勝山へは2つのルートがある。どちらにしても比高100m程はかなりの急坂を登らされるので辛さは余り変わらない。ただ東側のルート上には出丸跡といわれる平坦面があるので、どちらからか登ってどちらかで降りるのも良いかもしれない。勝山御殿横の駐車場から手前の分岐まで徒歩15分、分岐から南回りで頂上まで30分。
それ程大きな縄張ではないが、しっかりとしている。二の郭の南面にはこの規模の山城にしては珍しい大きな石垣がある。二の郭の西下にも郭が続くが、行けるかどうか確認はしていない(行くとすれば南面の石垣横からか)。下関市の勝山支所のサイトに縄張図がある。

応永元年(1521年)に大内氏の重臣内藤興盛が九州への備えとして勝山城に入っている。応永7年(1527年)には南の青山城主高森正倫との間に合戦が起こり一度は青山勢に包囲されるが、大内氏の援軍を得て逆に青山城を包囲、落城させている。弘治3年(1557年)3月には毛利元就による防長攻略の際に、山口から逃れてきた大内義長と内藤隆世が勝山城に立て篭もったが、隆世の切腹によって義長を助命するという元就からの条件提案により、内藤隆世が自刃して開城した。しかしこれは元就の謀略で、大内義長は後に攻め殺されてしまう。開城後は大内氏の旧臣入江箸親が城番として入っている。



勝山御殿は、元治元年(1864年)に長府藩が連合国軍からの攻撃を考慮して防備の難しい櫛崎陣屋の代わりに築いた陣屋である。維新後には豊浦藩庁となったが、廃藩置県によって廃城となった。




三井館(三太屋敷)


左:南から北側を望む、右:土塁の北西隅



左:北側の土塁の空堀、右:空堀の北東隅部





JR山陰本線安岡駅の西、冨任八幡宮の南東の田んぼの一角に土塁が残っている。この付近一帯は道も狭く車を置くスペースも無いので、県道沿い付近に車を置いて歩いたほうが楽である。
北側と西側の一部に土塁が残っている他は田んぼと畑になってしまっている。北側の土塁と空堀も藪の中なので気づきにくい。藪を刈ってもらえるとありがたいのだが、色々と事情があるのだろう。

建長4年(1252年)に長門守護職になった信濃行忠と共に鎌倉から下向してきた三井資平によって築かれたのではないかといわれている。



以上で当初の予定は終了。まだ明るかったので、まわれる範囲でまわる。




垢田照空陣地


左:北西斜面に残っていた方形窪地、右:陣地関連と思われる石材の残骸



左:陣地跡付近、造成済み、右:同左



右:米軍の空撮写真(R515-81)のスケッチ


戦時中、陸軍の高射砲第133連隊第7中隊(照空)が垢田に配置されていた。その時の物と思われる構造物が終戦直後の米軍の航空写真に写っていたので、確認しに行ってみた。
現在、造成が行われており、遺構は殆ど消滅してしまっているようである。ただ南西にあった円形窪地だけはまだ残っている可能性があるが、北側の調査に忙しくてすっかり忘れて未調査のままである。

詳細不明。航空写真を見る限り、ここの位置に配備されていたのは探照灯×1、聴音機×1の編成かと思われる。1個中隊はそれぞれ6基づつの編成だったので、他にも照空陣地が存在したのかもしれない。




金毘羅堡塁砲台


左:金毘羅公園、右:南西隅のステージ、この辺りに地下式側防窖があった筈…



左:壕跡、右:北側のグラウンド





国内最大級の堡塁が存在したのだが、昭和50年頃に下関市によって破壊され、現在は金毘羅公園になっている。所々にコンクリート塊が埋もれているのみで、当時の遺構は全く残っていない。地下構造物がかなり存在していた筈だが、徹底的に破壊されたようで南西隅と北西隅にあった地下式側防窖(防御壕に落ちた敵兵を側面から銃撃する地下トーチカ)も跡形も無い。勿体無い話である。

明治23年(1890年)6月に着工、26年4月に完成。備砲は26年2月開始、同年11月に完了した。28cm榴弾砲が8門、側面防御用に12cmカノン砲4門。




戦場ヶ野堡塁


左:駐車場西側の臼砲陣地跡、右:中央砲台部跡



左:中央の展望台からの展望(東方向)、右:同左(西方向)




戦場ヶ原公園には下関要塞の北側の防御を担う堡塁が戦後も存在していたが、西端にあった臼砲陣地以外はこれまた徹底的に破壊され、何も残っていない。何もここまでしなくてもと思うのだが、下関市の遺跡破壊はすざまじい。破壊された遺構は他にも老の山砲台、田の首砲台、一里山堡塁がある。

明治24年(1891年)4月着工、25年10年竣工。大正9年の要塞整理で廃止除籍された。12cmカノン砲8門と15cm臼砲4門が配備されていた。



日没になったので、防府へ移動してホテルにチェックイン。
本日の夕食はスーパー飯。最近食が更に細くなったので買い過ぎないように注意していた筈だったのだが、空腹状態で買うのでどうしても買いすぎてしまい、唐揚を残してしまう。窪谷さんが早々にダウンしたので午後9時前に散会。
11時ごろまで映画を見て、それから就寝。

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