新見 警戒機甲



2010.11.3 探索



全体配置図





左:米軍の航空写真(M745-40、国土地理院)、右:


新見市街の北東にそびえる黒髪山の中腹に、警戒機甲の陣地跡が残っている。
一応航空写真から場所を推測して発見したものの、後で図書館へ行くと資料[8]に載っていた事が判明。この探索の前にも別の場所に探索へ行って外していたことから、かなり凹む。
この資料[8]には分隊長と青龍寺の住職から聞き取った話が書かれており、詳しいので抜粋。(ただし原文内の人名はイニシャルに改めています)

新見情報隊の始まりは1943年初め。青龍寺本堂を接収して隊長室・通信室・炊事場が設けられ、電気と電話が引かれました。当時この地域には電話はもちろん電気もありませんでした。お寺の前の畑を潰して建てられた2棟のバラック建ての兵舎に、一個分隊約30人の兵士が寝泊りしました。
青龍寺を本部としながら、山中に基地が建設されていきました。基地は軍機密で付近住民の立入りは禁じられていました。器機・機材の搬入は夜間に行われたようだと地元のOさんは話していました。基地の建物は3棟で、レーダー(電波警戒機甲=洋服タンス大)、無線機(電波警戒機乙)=ストーブ大)などがすえられました。現在残っているコンクリート構築物は「便槽跡」で、三つの壕は避難用の「防空壕跡」です。
分隊は通信兵・警戒兵がそれぞれ15〜16名、分隊長は伍長から軍曹で、勤務は一日3交替の24時間体制でした。主としてソ連機を監視対象とし、各地情報隊と電波中継、中部軍管区大阪防空本部と奈良橿原第1飛行師団に通じていました。
基地は機密でしたが、本部では隊員が寺下の民家に風呂を借りたり、時には婦人会や青年団による慰問もあったりしました。兵隊に辛く当たる隊長を住職の母堂がなじったこともあったといいます。戦後兵舎は山を下り、旧新見町役場の一部として使われましたが、今はありません。


注・正式名称は「中部軍航空情報隊青谷中隊新見分隊」。航空情報隊は軍直属の防空監視機構で(防空監視哨は警察)、1942年末発足。全国に数十か所、近県では鳥取青谷・隠岐・日御碕・鞆・観音寺・室戸・足摺などに配置された。
・青龍寺前住職Kと、短期間(1943.9.6〜12.11)であったが当時情報隊分隊長(当時28歳軍曹)を勤めたSさんの証言を中心にまとめた。

無線機を電波警戒機乙としているが、これはさすがに誤りかと思われる。




黒髪山の山頂周辺には遊歩道が整備され、A-B-Cも東側の遊歩道の一部となっているのだが、こちらの遊歩道は余り訪れる人も無いのか荒れつつある。





指揮所付近:





左:平坦地A、中央付近から東を、右:平坦地Aの東端、トイレ跡



左:トイレ跡、右:同左からBを見上げる



左:平坦地BからAを見下ろす、右:円形窪地D



左:平坦地C西側、右:東側



左:平坦地Bの南下の石垣、右:トイレ付近からE方向を見下ろす




平坦地Aは東西約10m、南北約5mの広さで、南東隅にコンクリート製のトイレ跡がある。何らかの建物があったと思われるが、建物の基礎は見当たらない。
Aの東側は胸墻のような平坦地Bがある。南下は石垣が組まれている。その東には平坦地Cがあるが、あまり明確ではない。Bの北西上には直径約1.5mの円形窪地Dがある。用途は不明。




地下壕周辺:





左:窪地Eの中央部付近を上から、右:窪地Eの西側



左:窪地Eの西端、右:同左から東を望む



左:窪地F、右:窪地Eの南下の石垣



左:窪地E、東方向を、右:中央部付近



左:窪地Eの中央部付近から西方向を、右:窪地Eの東端



左:窪地Gを北西上から、右:窪地G中央部付近、西方向を



左:円形窪地H、右:その東の細長い平坦地




南下の斜面に、陥没した地下壕跡らしき遺構がある。
窪地Eは窪地F・Gの一つ上の段にあり、東西でそれぞれF、Gに繋がっている。資料[8]では、E、F、G共に避難用の地下壕と書かれている。しかしEFGの位置関係からEは地下壕が陥没したものでも、FとGは東西の出入口に繋がる通路だったのではないかと推測する。また避難用ではなく、平坦地Aにあった警戒機や通信機等の施設を戦況の悪化と共に地下へと移設したものではないだろうか。
窪地Eの南下には石垣がある。

そして東端には、内径約3mの円形窪地Hがある。その南下斜面には崩落した地下壕のような竪掘状の窪地があるが、H共々用途は不明である。




その他:





左:平坦地i、右:平坦地j



左:平坦地Lの切岸、右:円形窪地K



左:Cへと続く道、右:青龍寺



左:寺の住職の住居、右:兵舎があったと思われる畑



左:畑の南下にあるコンクリート基礎跡、右:同左を南東下から



左:コンクリート基礎跡、右:同左のアンカーボルト




東の尾根筋付近にも幾つかの平坦地I、J、Lがある。ただあまり明確でなく、付属施設だったのか別の施設だったのかはわからない。遊歩道脇には内径約1mほどの円形窪地Kがある。蛸壺だろうか。

寺の南西下にある畑の南下に、兵舎のものらしきコンクリート基礎の残骸が残っている。埋もれているのか、邪魔なので脇によけられてしまったのか形状を留めておらず、建物の規模まではわからない。ただアンカーボルトが残っている。





資料 終戦時の記録
[1][2] 警戒機甲 送信機1
[6] 警戒機甲 送信機(100W)1基 周波数42MC








参考文献
[1] 「戦史叢書 本土防空作戦」 朝雲新聞社
[2] 「高射戦史」 下志津修親会
[3] 「陸軍対空電探現況要図」 防衛省戦史資料室(全般 053)
[4] 「第31航空情報隊等臨時編成」 防衛省戦史資料室(動員 162)
[5] Electronics / Evaliation of Photographic Intelligence in Japanese Homeland / The United States Strategic Bombing Survey
[6] 「Deployment Diagram of The 35th Information Corps / INGL No.1 to G-2 Periodic Report No.54 I Corps」 国会図書館 憲政資料室(USB10 R24 1132-1133)
[7] 「Survey of Japanese Antiaircraft Artillery / GHQ USAFPAC AAA Research Board / 1946.2.1」 国会図書館 憲政資料室(WOR9670-WOR9675)
[8] 「岡山の戦跡」 岡山県職員組合教育運動推進センター



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