第6章 1942年 賭け金の引き上げ(Raising the stakes)




 ドイツの地上防空の成功は、1941年の後半9ヶ月と1942年初めにかけて、部隊の規模と能力の向上に高い比重を置いていたことによるものが大きい。1942年1月5日、ヒトラーの司令部である狼の巣(Wolfsschanze)において、ヒトラーは国務大臣(?Reich Minister)のFritz Todtと将校の集団に対して、「1940年にイギリス人は我々に対して、『空飛ぶ要塞』がドイツを粉砕するだろうと言ってきた。…我々は、奴らが1941年の4倍の攻撃をかけてくるものと見なければならない。それに対応する為に、私は高射砲と、そして何よりも高射砲弾の増産を行うことにした」と豪語した。ドイツの軍事費の分析をすると、1941年と1942年の高射砲に関する予算が大幅に増額された事から、ヒトラーが自身の主張を貫いた事がわかる。表6.1は1942年の前半における陸軍部隊全体の兵器と弾薬の支出における、高射砲システムと高射砲弾の占める割合を示している。


表6.1
1942年 高射砲 高射砲弾
第1四半期 24% 31%
第2四半期 24% 21%


 1942年の前半で国防軍の兵器予算の殆ど4分の1を高射砲が占めていることと、また1941年から高射砲弾への大幅な支出が続いていることとは、ヒトラーが本土の地上防空の強化に重点を置いていた事を証明である。この高射砲への偏向は、ヒトラーの同意を得て1942年1月10日に出された「1942年の兵器生産の指針」の下、1942年も続くことになる。この指針の全体的な目的は、ロシア作戦を継続しつつも「アングロサクソン勢力との戦いの為の」準備として、空軍と海軍を引き続き拡充しようというものである。この計画では、利用可能な資源の制限内での航空機調達と高射砲調達の実行が要求されていた。更にヒトラーは、高射砲調達において何らかの削減を行う場合には、すぐに自分の許可を得るよう特に強調している。「金が物を言う(?money talks)」という表現を信頼するならば(?)、1942年の初めの時点で、ヒトラーが高射砲部隊に国防軍の予算のかなりな部分を賭けていたことは明らかである。


高射砲部隊の新しい司令官

 1942年1月、ヒトラーは高射砲という馬に賭けただけでなく、ドイツの地上防空を仕上げるべき新しい乗り手も選び出していた。1942年1月12日に、Steudemann大将の代わりにWalther von Axthelm大将が、高射砲兵総監と高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)に任命された。Axthelmは1893年にニュルンベルグ近郊のHersbruckの町で生まれ、1913年に陸軍に入り、第一次世界大戦時には第8ババリア野砲連隊に所属していた。戦後は共和国軍(Reichswehr)に入り様々な司令部や参謀の地位に就き、またスウェーデン陸軍との2週間の交換留学にも参加した。1935年4月1日に空軍に移籍し、戦争前の高射砲兵総監部(?Flak Artillery Inspectorate)での参謀旅行では、Rudelの薫陶を受けた(?be mentored by Rudel)。そしてロシア作戦の最中にゲーリングと空軍の指導者の目に留まる。第1高射軍団(Flak Corp I)の司令官として、東部戦線の最初の3ヶ月間に約300機の航空機と3,000台の装甲車両を破壊するという戦果を挙げた。その結果、von Axthelmは第三帝国で最高の戦闘勲章である騎士十字章を受賞し、高射砲部隊の頂点への出世が確実なものとなった。広い作戦経験を持つ戦闘指導者であり、且つ部下の采配の能力も高く、von Axthelmはドイツ空軍の高射砲部隊の指導者として完全な選択であるように見えた。
 同様に1942年1月は、ドイツ中の地上防空を管理する指揮官にとっても幸先の良い瞬間であるかのうようだった。高射砲向けの予算が増加されたことによって、重高射砲や軽高射砲だけでなく探照灯の数も順調に拡大することができた。例えば1941年の初めのドイツ本土と西部戦線での高射砲と探照灯の中隊数の合計は、重高射砲中隊が634、軽高射砲中隊が541、そして照空中隊が209だったが、これが1942年にはそれぞれ866、621、273へと増加したが、これは率にすると27%、13%、23%であった。ドイツ本土の中隊数だけでも重高射砲中隊が537から744へ28%増加、軽高射砲中隊が395から438へ10%、照空中隊は138から174へ21%の増加をしていた。


探照灯と、高射砲の効果

 照空中隊の規模の拡大は特に大きく、そしてこの事は高射砲と空軍の夜間戦闘機部隊の両方を支援する事の重要性を直接的に表している。あるイギリスの作戦研究部(Operational Research Section、O.R.S.)は対空射撃の補助としての探照灯の重要性を挙げた報告書を作成している。1942年の3ヶ月間の損害についての研究を行ったところ、ドイツの目標上空でRAFの爆撃機の被った高射砲による被害の70%が、探照灯の補助のある高射砲陣地からのものであったということが判明した。また別の研究では、探照灯を使用することによって高射砲の撃墜数が約15%増加したとある。
 ドイツ空軍の指導者も、防空作戦における探照灯の果たす重要な役割を明確に認識していた。実際にゲーリングは、4月26日の航空兵器局(Air Armaments Office)の会議の中で「全ての可能な手段を尽くし、どんな状況にあっても探照灯の増産は成されなければならない」と宣言して、個人的に探照灯の増産の重要性に触れている。特に150cmや200cm(原文ではmmだが有り得ない)の型の探照灯の生産には、希少な銅資源がかなりの量を要求されるにもかかわらず、150cm探照灯の生産量は1941年に1,392基だったものが1942年には1,610基にまで上昇した。更に1942年には空軍は新型の200cm探照灯を250基生産した。上空から見ると顕著に青みを帯びていたこの200cmの巨大な探照灯は、「主導灯(?Master Lights)」として爆撃機を探索し、150cm探照灯をその爆撃機へと誘導したのである。結局、ゲーリングの個人的援助によって成された探照灯の増産は、1941年の甲板から1942年の初めにかけての防空における成功の一因となったのである。


ドイツ空軍の防空の先行に対するRAFの反応

 1941年を通してと、1942年初めにかけての高射砲の活躍は、ドイツ地上防空の効果へのヒトラーの信仰を実証したようなものであった。以前にも触れた通り、爆撃機軍団が1941年の後半に大きな損害を出したことから、イギリスの首相であったチャーチルは爆撃機部隊の温存を要求した。このチャーチルの命令とヨーロッパでの冬の歴史的な悪天候とによって、1941年後半から1942年初めまでは、爆撃の効果が特に制限されることとなった。実際に、1941年11月10日から1942年2月22日までの間、爆撃機軍団が爆撃作戦を行ったのは105夜の内のたった54夜だけであった。それに加えて作戦に参加した合計の機数が200機を越したのはたった4度だけであった。爆撃を制限されたと同時に、RAFの指導者はヨーロッパ上空での作戦の損害の原因の追及を行おうとしていた。1942年1月20日の報告書は夜間空襲における高射砲による爆撃機の損害の割合について書かれたものであったが、この中でイギリス作戦研究部(Operational Research Section)の分析者は、ドイツの対空防御についての幾つかの重要な結論を挙げている。まず第1に、昼間と夜間において、戦闘機と高射砲のどちらによってどれだけの数が失われたかを判断するのは不可能ではあるが、損害の分析結果から、「高射砲による損害の割合を推測する事は不可能だが、昼と夜とで少なくとも20%以上はあったのではないか」としている。次に、報告書の作成者は「こうした得られた情報から、昼間の出撃においては戦闘機も高射砲も同じくらいに脅威であるといえる」としている。この結論は、特に昼間の空襲において、Mirchや他のドイツ空軍の高級指揮官が高射砲の効果に関して悲観的であるにもかかわらず、ヒトラーの防空の可能性への信頼を幾分か補助している。
 1942年の初めには、作戦研究部の分析官は航空機の損害数がドイツの戦闘機によるものか、それとも高射砲によるものかを正確に判断することが困難である事を認識していたが、ヨーロッパ上空での空襲中に損傷を受けた爆撃機軍団の航空機には、それは当てはまらなかった。表6.2は1942年の1月から5月までの期間の夜間爆撃の際の、航空機の損失数と、高射砲による損傷を受けた航空機数、そして戦闘機による損傷と受けた航空機数をあげたものである:


表6.2
月(1942) 損失率 高射砲による損傷率 戦闘機による損傷率 合計出撃延数
1月 2,200 2.4% 3.6% 0.4%
2月 1,157 1.9% 2.4% 0.3%
3月 2,224 3.5% 6.0% 7.0%
4月 3,752 3.7% 10.2% 1.1%
5月 2,699 4.3% 7.0% 0.8%


表6.2の数値から、ヨーロッパ上空における夜間戦闘の状況に対しての幾つかの洞察を得る事ができる。まず、帰還した航空機での高射砲による損傷の割合と戦闘機による損傷の割合は、4月に最大で9.27対1、3月に最低で0.85対1となっている。その他の月では、この比率は8〜9対1で、高射砲による比率が高い。それに加えてあるO.R.S.の研究では、目標区域上空における高射砲による損傷率は8%にも上るとあり、この事から目標周辺においては高射砲による損害が集中していると簡単に説明できる。
 確かに、高射砲対戦闘機の効率に関する結論を限られたサンプルから導き出さないように注意しなければならない。例えば、戦闘機によって損傷を受けてイギリスに帰還した航空機の数が少ないのは、戦闘機が敵機の補足に成功した場合には高射砲よりも高い確率で撃墜しているとも考えられるのである。この仮定は、1943年2月17日にO.R.S.によって作成された報告書によって部分的に裏付けされる。この報告書では、1942年4月26日から11月30日までの期間に、乗機が損傷を負いつつも帰還した爆撃機軍団の乗員の内の死者数を分析している。これによると、高射砲による死者は95名に対して、戦闘機によるものは105名である。そして乗員の致命的な死者の割合は、高射砲によるものが9.5%に対して戦闘機によるものは14.8%となっている。それと対照的に、高射砲による重傷者の割合は10.5%であるのに対して戦闘機は8.3%である。報告書はまた、損傷した航空機1機当たりの全ての種類の死傷者の数は、高射砲によるものよりも戦闘機によるものの方が7倍以上大きいと指摘している。昼間での損害を評価したO.R.S.の別の報告書では、「戦闘機による損傷は高射砲による損傷よりも相当に脅威的である」という結論に至っている。以上のように、O.R.S.によって多くの情報が収集、分析され、ドイツの地上防空と空中防空の効果の評価について幾つかの洞察がなされているものの、しかし決定的な結論を出すのに十分な情報は得られていないのである。
 O.R.S.の分析は、大きなパズルのたった1ピースしか与えてくれない事もしばしばである。例えば、高射砲によって損傷を受けた航空機は、それによる機動性の低減や速度の低下、もしくは煙やエンジンからの炎による視認性の向上により、戦闘機の餌食になる可能性が跳ね上がってしまう。それに加えて忘れてはならないのが、この時期のドイツの夜間戦闘機は多くの場合、地上の探照灯の照射に頼っていた事である。この点に関して、RAFが1942年4月14日に作成した「敵対空探照灯と高射砲との戦闘における戦術的対抗手段」と題した報告書でも、探照灯が高射砲と戦闘機のどちらともの作戦において重要であることを認めている。この報告書では「ドイツは探照灯を組織化して高いレベルまで熟達させており、ドイツの高射砲はその成果のかなりの部分を探照灯との協調に依存しているようである。またドイツの戦闘機の迎撃技術においても探照灯との協調が大きな部分を占めている。」としている。しかし1942年を通して、夜間戦闘機が探照灯に殆ど依存しなくなり始めた。探照灯の支援による夜間戦闘機の撃墜数の傾向は、春に15%だったものが年末には約3%にまで落ちてしまった。同様に、1943年初めに作成されたO.R.S.の1942年全般についての報告書は、「戦闘機の為の探照灯の照射が相当に減少したが、その分だけ高射砲への支援は恐らく増加している。そして戦闘機によって高射砲の損害の2倍の損害が出ていると思われる」と見ている。
 ドイツ空軍の防空における探照灯の重要性は、爆撃機の乗員による作戦報告書にも見ることができる。例えば、1月22日の夜間空襲の報告書では「管制下にある夜間戦闘機が、無数の光によって支援されながら、とても忙しくしていた。」と指摘している。他の例としては、1月のブレーメンへの夜間空襲での乗員の報告で、「探照灯との協調下、重高射砲が強力に、そして正確に射撃している。探照灯はとても多く、20から30の(? 20/30)数の照射コーン(cone)が操作されていた」としている。また同様にハンブルグへの空襲では、「探照灯はとても活発に高射砲と協調しており、30から60(30-60)の光線が上がっており」、「高射砲の活動が全体的に穏やかだったが、探照灯はかなり活発だった」と報告されている。実際にある航空戦の歴史研究家は、探照灯の照射コーンに捕捉される事は、RAFの爆撃機の乗員にとって「非常な恐怖」だったとしている。確かに、照空中隊はドイツ空軍の防空網において欠かせない役割を担い続けており、逆に照空中隊に優れた能力があったからこそ、戦争を通して探照灯の数が劇的に拡大されていったのである。


射撃用レーダーの成長

 夜間空襲におけるRAFの爆撃機の、高射砲による損害率が向上した別の要因がある。1942年の初めの数ヶ月間に、ドイツの高射砲部隊は射撃用レーダーの数を増加させていった。あるドイツ空軍の研究では、1942年3月には重高射砲中隊3個につき1個中隊に射撃用レーダーが装備されるようになったと見積もっている。その一方で射撃用レーダーの改良によって測距情報の改善と機器の操作の単純化が為され、レーダーの位置測定誤差も25mから40mの間にまで上昇した。しかし射撃用レーダーの性能の改良にもかかわらず、照射下の直接射撃や光学照準程の精度には至らなかった。例えば、1942年4月における中央航空管区で43機が高射砲部隊によって撃墜されたが、この内で主要な照準システムとして射撃用レーダーを使用した撃墜数はたったの11機のみであった。ただ、こうしたシステムには空襲の最初の段階において、目標に対して探照灯と高射砲を誘導するという重要な役割も担っていたのである。しかしドイツ空軍は、1942年を通して射撃用レーダーの不足に悩まされていた。そこでドイツの工業界は、「Malsi変換器(Malsi-converter)」という予備射撃システムの開発と生産を開始した。この機器は、基本的にある場所に配置された射撃用レーダーから得られた情報を、離れた位置にある部隊でも使用可能なように情報を変換する事が可能であった。Malsi変換器は完全なレーダー一式と比べて必要な資材が相当に少なくて済み、既存の射撃用レーダーよりもかなり使いやすいものであった。
 Malsi変換器の導入にもかかわらず、ドイツ空軍の上級指導層、特にゲーリングはレーダーの数が十分でないことに不平を述べ、既存の機器の改良に時間がかかり過ぎていると抗議した。ゲーリングの非難に対応して、Milchは一時的に技術者と熟練作業者を射撃用レーダーの担当へと移動させ、生産の増強を図った。レーダーの不足にもかかわらず、1942年のRAFの爆撃機乗員の作戦報告書から、レーダーによる直接射撃への乗員の関心が高まっていった事がわかる。例えば1月17日の夜のブレーメン空襲では、乗員は次のように報告している。「選択した目標上空で、穏やかから強烈な程度の重高射砲射撃、10/10の雲度において正確」それから後の1月28日夜のミュンスターへの空襲でも、乗員は再び「穏やかから強烈な程度の重高射砲射撃、10/10の雲度を通しても正確な位置予想」と報告している。この同じ報告書はまた、「悪天候と雪」の為にドイツの航空機は地上待機だったとも指摘している。以上のような報告書には幾つかの興味深い点がある。まず、少なくとも良く防御された区域においては、ドイツの高射砲兵は完全に曇っていても射撃用レーダーで爆撃機を捕捉することに成功しているということである。次に、悪天候によって夜間戦闘機が出撃できなかった事に関する報告は、戦争中の航空機による迎撃の大きな制限の1つを、再び示している。全天候型迎撃機を持たず、また有名なドイツ上空の冬の悪天候を考慮すると、空軍の夜間戦闘機はドイツの防衛に幾度となく貢献できなかったことになる。それとは対照的に、高射砲は数が不足して能力に限界があったものの、悪天候でも爆撃機との交戦や撃墜が妨げられる事がなかった。そして最後に、これらの報告書では、高射砲だけによる戦果の指摘が無いという事である。RAFの航空戦の公式記録は、1942年には「レーダー管制によって、精度のかなり低い聴音機が、対空射撃や照射の指揮といった役割から次第に外されるようになった。」と正確に指摘している。聴音機の機能の限界から、ドイツ空軍は1942年に照空中隊に配備している聴音機の数を3分の1にまで削減している。RAFの公式記録の著者は、「1942年3月に全力攻撃が再開された後に爆撃機軍団の死者が増加した事は、新たな危機であった。ドイツの夜間戦闘機の活動が激しくなり、そして高射砲の射撃精度が向上したことは、状況が変化する前兆であった。」と見ていた。


高射砲の戦果の評価

 ある有名な航空戦の歴史研究家は、ドイツ本土での迎撃機と地上防空の効果は、1942年にそのピークを迎えたと主張している。この歴史家はまた、ドイツの夜間戦闘機戦力の増強によって、「イギリスの爆撃機軍団の夜間の損失の70%近くがドイツの夜間戦闘機によるという状態になった」と指摘している。前者の主張は恐らく正しいが、しかし後者の主張は明らかに間違っている。
 作戦研究部による研究で、1942年3月から8月までの期間の損害の内、原因の明らかな95機の例を使って、戦闘機と高射砲による爆撃機の損失数を計算したものがある。この研究報告書では、95機の内の35機が高射砲、60機が戦闘機によるもので、原因の不明な物も含めた期間全体の損害からの割合にすると、それぞれ30%と51%であったとしている。更にこの調査では、限られたサンプルと不完全な情報から「判断可能な事は、戦闘機による損失と高射砲による損失の比率が60対35を超えないだろう、ということだけである」と結論付けている。言い換えるならば、戦闘機と高射砲の撃墜率の比は1.7対1であるということである。しかしこの研究が用いた損失数は、ヨーロッパの気候が最も良い期間のものであり、特に夜間空襲においては、戦闘機にとって最も活躍しやすい状態であったということである。最後に、RAFの公式記録に書かれている1942年の7月から12月までの期間の夜間空襲での損失の原因の評価では、169機が戦闘機、193機が高射砲によるもので、比率は1.14対1で高射砲の方が優勢である。更に同じ期間での航空機の「修理不能」な損傷数の内の戦闘機によるものが11機に対して高射砲によるものは23機、そして修理可能な損傷数は戦闘機が142機、高射砲が918機であった。こうした数値は、夜間戦闘機の成功を誇張した主張を確実に論破し、また戦後の多くの航空戦史家がドイツの高射砲を過小評価していた事を証明するだろう。
 戦後の歴史家達はドイツの高射砲の効果を評価できなかったが、同時代のRAFの観察者は違っていた。1942年4月14日の報告書で、あるイギリス空軍の分析者は以下のように記述している:

この6ヶ月間に、新しい機器の導入によってイギリスの高射砲の射撃精度が大きく向上している兆候が幾つも存在している。敵側の改良が差し迫ったものかは不明だが、ドイツでも同様の進歩があると見ておくのが合理的である。これまで夜間空襲での敵高射砲による損害は少なかったにもかかわらず、最近は明らかに増加の一途をたどっており、それに対する大きな対抗手段を採らない限り、これからも損害は増加し続けることになるだろうと考えられる。

ドイツ側の開発の見積もりを、既知のイギリスの進歩に基づいて試みることは、この分野においてそれまででもドイツが材料や技術で幾つかの点で進んでいた事を考慮すると、問題がある。しかし、ドイツの地上防空システムにおいて何らかの進歩が感じられている事が指摘されている。またこの報告から、将来の作戦の為に爆撃機軍団の戦力を準備しておこうとする戦略的視点が存在していた事もわかる。


防空資源の配分

 報告書の中でのドイツの地上防空の優位性の予想は、「敵の差し迫った増強」が何なのか判らない、まるで預言的なものでしかなかった。例えば、1942年の「総統の高射砲計画」では、継続的な高射砲部隊の増強によって、1943年末までにドイツ本土国境の防空兵力を重高射砲中隊900個、軽高射砲中隊750個、150cm照空中隊200個、そして阻塞気球中隊25個を目指すというものであった。この数値を達成する為に、高射砲兵部(?flak artillery branch)は多額の予算と材料資源の継続的な配分を要求した。表6.3は1942年後半の、国防軍全体の兵器と弾薬の予算における、高射砲と高射砲弾の割合を示したものである:


表6.3
1942年 高射砲 高射砲弾
第3四半期 28% 17%
第4四半期 27% 15%


上の数値から、この時期の国防軍全体の兵器予算に占める高射砲の割合は平均で約4分の1であるが、弾薬の割合は第1四半期の31%から殆ど半分に減少しているということである。この高射砲弾の割合の減少には、主に2つの要因がある。1つ目の要因は、1941年終わりから1942年初めにかけて予算を増額した為に、1942年中頃に高射砲弾の生産が過剰となってしまったことがあげられる。実際にMilchは1942年の初めに、ドイツ空軍で800万発の砲弾と400万発の火薬装填前の弾頭とが過剰となっていると見積もっている。確かに、1942年3月のドイツでの88mm高射砲の高性能炸裂砲弾(?high explosive ammunition)の生産数は130万から150万発だったが、一方で月当たりの最大消費量は合計で80万発であり、Milchによれば、砲弾の過剰生産によって保管施設が不足するという大きな問題を引き起こしつつあった。2つ目の要因として、東部戦線が消耗戦の繰り返しで兵員と資材とを吸い込むブラックホールと化してしまい、陸軍部隊に十分な弾薬の供給を行う必要性が増していった事が挙げられる。例えば1942年の第3四半期と第4四半期の国防軍全体の弾薬予算の内の陸軍が占める割合は、それぞれ54%と59%であった。
 1941年の中旬には、ドイツの戦争経済は多方面戦争の実施による負担を強いられ始めていた。1941年6月に国防軍の経済・兵器局(?Economics and Armaments Office)の局長のGeorg Thomas大将は、国防軍上級司令部(Wehrmacht High Command)の司令官だったWilhelm Keitel陸軍元帥(Field Marshal)に対して、次のように伝えている。「私は総統に、経済の負担が過剰で最適な兵器生産が既に不可能となっている為に、国防軍の各部局の担当域が互いに重なり合っている現在の状態は、これ以上成り立たないと話した。3つの司令部の長官に対して絶対的に優位な部局を作るべきであると。」同様に、1942年の総統の高射砲計画の主な懸念事項も資源の分配であった。航空兵器局(the Office of Air Armament、Generalluftzeugmeister)はドイツ空軍の最も重要な部門であり、航空部隊の兵器システムの研究や試験、開発、そして生産に関連する事を扱っていた。ゲーリングはこの航空兵器局を1939年2月に設立し、組織の長としてErnst Udetを任命した。Udetは、部局の広い範囲を管理する事に特に不適であり、批判が高まり局長の地位から追われそうになった1941年11月に自殺してしまった。MilchはUdetの後釜として指名され、航空兵器局の運用の合理化に着手した。また軍需大臣だったFritz Todt博士が1942年2月に飛行機事故で亡くなると、第三帝国の複雑な兵器環境を官僚的に管理する為の苦闘が、更にややこしくなった。Todtの代わりとしてAlbert Speerがヒトラーに指名されると、ドイツ空軍の兵器システムの開発と生産に関する戦略の遂行において、SpeerとMilchとの間で驚くべき協調関係が結ばれた。
 航空兵器局長へのMilchの任命には、ドイツ空軍の地上防空部隊に対する幾つかの直接的な含みがあった。ある伝記作家の言葉によると、Milchは「防空は主として戦闘機飛行隊(squadrons)に依存している」と強く信じていたらしい。実際に、Milchは直ちに「ドイツの上空の傘」を作るためにドイツの戦闘機の生産を増強し始めた。1942年3月末のJeschonnekとの会議で、Milchは月産360機まで戦闘機の生産数を引き上げる計画の概要を説明したが、その計画に対してJeschonnekは「360機以上の戦闘機をどうしたらいいのか判らない」と、忘れられないような絶叫を発したという。ドイツ上空に戦闘機の傘を作り上げるには、戦闘機の生産を増加させるだけでは済まなかった。このJeschonnekの絶叫は、航空機の生産数が余りに多すぎる事に対して軽蔑を示したのではなく、むしろ彼は戦闘機をそれだけ大量に生産しても、今のドイツ空軍のパイロット養成計画では、生産した全ての戦闘機の操縦席を埋めることが出来ない事を認識していたのである。実際に、1942年6月29日の航空兵器局の会議でMilchはまさにこの点を認識させられることとなり、「どこも搭乗員が不足しており、そして不足は酷くなっている。すぐに搭乗員教育の枠を増やす為に何らかの手を打たなければならない」事を理解した。
 防空での戦闘機の優位を信じていたにもかかわらず、Milchは高射砲と関連する地上防空システムの生産削減を、すぐに実行することができなかった。しかしMilchは段階的に高射砲弾の生産を削減して行き、弾頭の信管に使用していたアルミニウムを航空機の生産に振り向けていった。実際にMilchは技術のあるマネージャーであり、また第三帝国の政治的現実に対して高度に調子を合わせることのできる有能な管理者でもあった。Milchは、ヒトラーが確固として高射砲側に立っており、ゲーリングもまた空軍の高射砲の頼れる支援者であることを認識していた。実際に、Milchの航空兵器局長として出席した最初の会議の1つでは、その日の協議事項のほとんどが高射砲関連のものであった。まずはゲーリングが、ヒトラーが引き続き空軍の高射砲を支持している事を指摘した。ゲーリングは「総統は東部戦線の高射砲部隊の増強を望まれている。この計画の遂行にはドイツ本土の高射砲を弱体化するしかない。」と説明した。ドイツ本土の防空部隊の転用で東部戦線の高射砲部隊の増強を行う計画は、2つの面で重要である、まず、本土正面を含む他の戦線から東部戦線へ人員と資材を移動する事が多くなりつつあるという、国防軍の借金で借金を埋める傾向(robbing Peter to pay Paul)を証明しているからである。次に、この決定に反対が無かった事は、ヒトラーの要望に対する単なる同意だけではなく、議論が無かった事は、部分的にはドイツ本土の地上防空の能力による結果でもあった(戦線で優位を保っている部隊から戦力を抽出するのには問題が無いという認識か)。実際に東部戦線への資材と人員の移動が決定されても、ドイツ本土の既存の防衛力が弱体化する可能性については注意が喚起されていないようであった。
 3月6日の会議の中にゲーリングはまた、高射砲部隊への資源配分に関する問題についても触れている。ゲーリングは総統の高射砲計画の実施に必要な「詳細な材料の計算」を行うよう命令した。更に彼は、必要な資源の幾つかは既存の物や、まだ部分的に未加工な製品や材料として入手が可能であると強く主張している。そしてまた、ウクライナには存在するもののドイツまでまだ運搬できていないクロムの供給についても触れている。
 ゲーリングの見解に対して、Milchは幾つかの点について述べている。まず、クロムはすでにドイツ空軍の装甲には使われなくなっていると指摘している。しかし火砲生産においては、生産の補助に必要なだけの十分な銅は確保できているものの、クロムが不足することで火砲製造に影響が出ていると主張している。しかし彼は、大型の探照灯、150cmと新型の200cmではそれぞれ560kg、1410kgの量の高品質の銅が必要であるとも言っている。ゲーリングはそれに対して、他の材料で代用可能なように設計を変更する必要があると口を挟んでいる。最後の点(代替材料)は2つの面で重要である。まず、戦争を通じてドイツの工業界は、加工や生産の工程で各種の戦略的資源の代用品の探索に順応するようになっていた。1942年の終わりには、ドイツ空軍は銅と錫を使わないエンジンのラジエーターを採用している。2つ目に、探照灯での大量の銅の要求は、第三帝国における資源配分に特有の弱点である。戦後の尋問で、Milchはまさにこの点を、彼の前任者であるUdetがどのようにして航空機1機当たり16トンのアルミニウムと4トンの銅が必要であるかを計算していたかを記述することで説明している。そしてMilchが航空機生産工場に訪れた際、彼は8ヶ月から9ヶ月分の生産に間に合うだけの幾つもの資材が積み上げられているのを見ている。言い換えるなら、工場経営者は将来の生産に安全なだけの余裕を保証する為に、必要な資材の量を水増ししていたのであるが、限られた資源の奪い合いは経済的な適者生存になることを考えれば、この水増しの慣習(practice)は驚くに足らない事でもある。
 ドイツ中で一般的に行われていた資源の退蔵の慣習は、歴史家が戦争中のドイツ経済の状況を把握することすら困難にしている。確かに、銅は戦争を通じて希少資源であった。しかし陸軍、海軍、そして空軍といった各軍が、希望の生産量を賄うのに充分な割合の配分を確実なものにするよう意図して、実際の必要量よりも大幅に水増しして資源を要求していた事から、更に問題はややこしくなっていた。このシステムの非合理性によって、例えば「国防軍全体での銅の要求量は、世界の生産量を超過している」という状況になっていたのである。特に東部戦線での戦争継続から、資源配分手法の変更の必要性が認識されてくるようになると、1942年3月に「中央計画(Central Planning)」として知られているものの基盤が作られた。中央計画はシュペーア、Milch、そしてゲーリングの四年計画局(?Four-Year Plan Office)の代表によって構成されていた。中央計画局はドイツの戦時経済の合理化と、工業部門に存在するたるみから来る事が多い生産超過の引き締めを行った。この時期の後にシュペーアとMilchが共に兵器生産において大きな成功を収める事ができたのは、主に利用可能な資源の分配での非効率を無くし、生産手法をスマートにしたからである。以上に挙げた第三帝国における経済の動きについての議論から、戦争中のドイツに存在した、決定(decision-making)と資源の要求に関係した「混沌」を見てとれるだろう。


HelmのSir Arthur Harris

 工業の合理化に向けて進み始めた1942年の初め、航空戦における重要な転機が訪れていた。1942年2月に、Arthur Harris少将(Air Vice Marshal)がPeirseの後任として爆撃機軍団の司令官となったのである。1941年11月のベルリン上空での記録的敗北、爆撃機軍団でのモラルの低下、そしてPortalとPeirseとの衝突の激化によって、Peirseの運命も1942年(?原文では1941年だが、時間的におかしい)初めに尽きてしまった。Peirseが辞めた後、Harrisは着任後の最初の数ヶ月の間に、爆撃機部隊での幾つもの新開発品の恩恵を受けることになる。
 まず最初に、2月には爆撃機軍団の航空機の3分の1以上に新型の無線方向指示器「GEE」が装備された。爆撃機のGEE機器は、基本的にイギリス国内の3ヵ所の送信所からの信号を受信し、それぞれの信号の受信にかかる時間差を計測することにより、爆撃機の現在位置を知ることが可能であった。この機器の最大の弱点は、機器の使用範囲が350から400マイルの間であるということである。しかし、この狭い範囲内にルール工業地帯のエッセン、Duisburg、Dusseldorf、そしてケルンといった幾つかの目標が含まれており、機能としては充分であった。ただ、このGEEで爆撃精度を向上させることは出来ず、目標地域への誘導を以前と比較してかなり正確に行う事ができるようになっただけであった。
 次に、戦争の初期の経験から幾つもの教訓を抜き出し、乗員の訓練に反映させた。そして爆撃手を中心とした乗員配置(?a designed crew position for bomberaimers)の導入に加えて、1942年3月にRAFは「単独操縦士(single pilot)」主義を導入して1機に必要な操縦士の数を2人から1人にし、これによって操縦士の人数を効率良く倍に増やした。3番目として、RAFの飛行場の拡張改良計画がほぼ完了していた。4番目として、アブロ・ランカスターのような、より航続距離が長く、より爆弾搭載量の多い重爆撃機が、航空隊に次々と配備されていた。そして最後に、Harrisが爆撃機軍団を引き継いだ時、丁度RAFでは公式に裁可された「集中的焼夷弾攻撃」という新しい爆撃方針を導入しつつあった。こうして乗員は個々の目標の代わりにドイツの都市の「居住地域(built-area)」を目標にするよう指示を受けることになり、爆撃の目的も「敵の都市住民と、そして特に工場労働者のモラル」の攻撃となった。
 こうしたタイミングの良さから恩恵を受ける一方で、Harrisは集中攻撃の連続によってドイツの防衛を圧倒し、それによって完全に優位性を得るという決断を下した。Harrisはパリの外れにあるBillancourtのルノーのトラック工場を、新しい爆撃攻勢の最初の大きな目標に選んだ。3月3日の夜、220機を越す爆撃機の攻撃で工場は大きな損害をこうむり、約1ヶ月間操業を停止した。この空襲によって、新しい爆撃機軍団の司令官は集中こそが成功のカギである事を確信したのである。しかしドイツ国内の目標に対しては、パリに対する空襲とはかなり違った計画が立てられた。RAFの作戦計画者は、夜間絨毯爆撃という新しい戦略を導入する最初のドイツの目標として、工業都市エッセンを選択した。3月8日の夜、RAFの爆撃機はGEE装置を使って3波に分かれてエッセンへと向かった。まず最初に目標への目印となる照明弾を投下し、続く一団が市街の中心部に焼夷弾を投下した。そして主力部隊が焼夷弾と高性能爆弾を取り混ぜながら辺り一帯へと投下していった。しかし結果は予想したほどではなかった。そこでエッセンとケルンに対して再び空襲が行われたが、これらの空襲から、GEEは目標地域の大まかな位置を把握することは可能だが、例え都市の中心部のような大きい目標であっても、爆撃機を目標に対して精度良く集中させる保証はないということが判明したのである。そしてまた、GEE装置は人に関する問題までは解決できなかった。あるRAFの飛行団司令官は、敵の高射砲の射撃域に侵入するのを避けようとして(??scourge of creepbackという言葉が併記されるも、意味不明なので省略)目標区域の外に爆弾を投下してしまうという、「弱者の群れ(??weaker brethren、聖書の言葉らしいが意味不明)」の傾向があると書いている。
 ルール地方に対する3月の空襲から、ドイツの能動的、受動的地上防空が成功し続けている事がわかる。J.Searby空軍准将(Air Commodore)は、この時期のGEEを使用した空襲について、次のように書いている。「GEEのおかげで我々はルールに辿り着き、目標を視界に入れることは可能となったが、正確な照準点、それすらも煙幕や工場の排煙で見えない事が多く、それを高射砲弾の炸裂の嵐と目のくらむ探照灯の照射の光の中で視覚によって発見することは、ほとんど不可能である。」別のパイロットは、目標に接近するまでの情景を、詳細に生き生きと記述している:

はるばる目標地域までやって来てみると、探照灯の照射が、あるものは少数の集団で、多いものは20かそれ以上の照射コーンが束になって空を切り裂き、複雑な迷路のように目の前に広がっている。照射の光は、まるで空にピンで留めるように生贄を突き刺し、その先っぽには高射砲弾の赤い炸裂光が充満している…。
ドイツ人野郎は偽焼夷弾と作りものの燃え盛る街並みを重要目標の近くに気前良くばらまき、こちらにも爆弾を落とさせようとしている。射撃閃光、写真のフラッシュ、爆弾の炸裂光、色とりどりの曳航弾の流れ、そしてあちこちから上がる探照灯…全くもって混乱させられる。周りから同時にやってくる高射砲と探照灯を避けるように、射手達がパイロットに指示する時は、特に酷い。

このような典型的な回想から、この時期のルール地方におけるドイツの地上防空の状況について、2つの重要な洞察を得ることができる。1つは、探照灯と高射砲の協調が、特に部隊の集中配備区域において、引き続き爆撃機に対して効果を上げているということである。そしてもう1つは、こうしたパイロットの経験からドイツ空軍はRAFの航空機を偽の目標へと誘導する欺瞞と偽装の手法を使い続けていることがわかる。
 1つ目の面において、RAFは3月のエッセンへの空襲に延べ893機を出撃させ、その内の35機、割合で3.9%を撃墜された。この攻撃の中で、夜間戦闘機による撃墜数は全体の半分を少し超え、残りは高射砲だった。公式のカナダ軍の戦史では、夜間戦闘機の効果が拡大していたにもかかわらず、多くの乗員は高射砲が「最も恐ろしい」ままであったとしている。ある乗員は次のように回想している。「ドイツの防空の最も危険な要素は、間違いなく探照灯だ。レーダーで管制された先導照射を行い、これに一度でも捕まると周りの射程範囲の全ての探照灯が集まって来て、必死にもがこうとしても振り払えない。そうしている内に高射砲も射撃を集中してきて、照射の先は炸裂光で一杯になる。その後は殆どが、小さな炎がつき、燃え盛りながら飛行機が地上へと落ちて行くのだ…」


偽施設、第3幕

 爆撃機に対する能動的な防御手段に加えて、ドイツ空軍は引き続き偽施設による欺瞞作戦を行っていた。しかし1942年の夏頃には、RAFはこうした施設を識別し始めるようになっていた。1つの例として、8月28日の夜のイギリスの爆撃機部隊は、第7航空指揮区域内の20ヶ所の偽施設を素通りしてしまい、アウグスブルグ付近の偽施設に高性能爆弾を1発投下しただけだった。しかし12月末には、RAFの爆撃機が1ヶ所の偽施設に高性能爆弾10発と焼夷弾100発を投下している。9月にパラシュート降下した2人の捕虜に対する尋問から、複合的な評価を行っていることが判明したが、その尋問の中で1人は、偽施設の照明が判別を容易にしていると述べ、またもう1人は施設の効果、特にベルリンの北西の施設について記述している。ともかく偽施設の明らかな効果低減に対して、ドイツ空軍は爆撃機を本来の目標から誘惑する新しい手段を試みる必要に迫られたのである。例えば、ドイツ空軍はRAFの潜在的目標の周辺に、囲いだけの壁を建設したが、イギリスはこれを「火事施設(fire site)」と呼んだ。この囲い壁の内部には可燃性の資材で満たされており、実際の空襲の前もしくは空襲中に点火された。夜間10,000フィート上空からでは、この火事施設は燃えている建物のように見えた。火事施設は単純な作りではあったが、かなり効果的な欺瞞施設であった。1942年5月19日の夜間のマンハイムに対する空襲の失敗の際に、Harrisは部下の飛行団の指揮官を火事施設上空に爆弾を投下した点について叱責した。長々しい言葉で、Harrisは自分の怒りを乗員たちに示した。:

夜間の航空写真と乗員の報告から、恐らくは欺瞞火災と思われる森の中の火災に無駄な爆撃を行ってしまったことは明白である。そして何が起こったか明白であるにもかかわらず、空襲から帰還した乗員の報告書では、その殆どが都市を爆撃したとしているのである。今回のこの失敗は、乗員が欺瞞火災もしくは誤った場所の火災に誤って誘導されてしまっている事に疑いない。ともかくこの病気を治さなければならない。本当に病気だ。爆弾を丸ごと欺瞞火災にくれてやっているようなものだ。

 戦争の終わりのRAFのある研究は、Harrisのこの不安の正体を確認し、1941年と42年に使用されていた主な欺瞞は火事施設であったとしている。そしてこの研究は、夜間の航空写真によってしばしば認識されていたにもかかわらず、わが軍の攻撃のかなりの割合を、幾度となく、そらせることに成功していたと結論付けている。Harrisの乗員への戒告にもかかわらず、1943年にRAFが爆撃先導部隊(the Pathfinder Force)に目標マーキング装置を導入するまで、火事施設は有効な手段であり続けたが、その1943年にはドイツは新たな種類の対抗手段を開発しており、イタチごっこが続くのである。ともかくこの火事施設は、ドイツ空軍の爆撃機に対する欺瞞作戦で成功を収め続けたと共に、高射砲対戦闘機といった単純な計算ではなく、広い意味での地上防空手段の評価が重要である事を、再び強調しているのである。
 偽施設への補助物として、ドイツ空軍は主要な目標を覆い隠し、爆撃機を偽施設へとそらせる煙幕装置の使用を始めていた。1941年後半の間、煙幕装置はブレスト港に停泊中の戦艦シャルンホルストとグナイゼナウをRAFの空襲から防御する際に大きな効果を発揮した。同様に、Politzの石油精製施設周辺に配置された煙幕中隊は、1942年12月に視認による高精度爆撃を妨害することに「完全に成功」している。その年の終わりには、ドイツ空軍はそれぞれ500名で構成された煙幕中隊を8個持っていた。しかしこの部隊に関する大きな欠点は多大な薬品が必要な事であり、1945年までに煙幕中隊が100個中隊へと拡張されると月に15000トンもの発煙酸が必要となったが、ドイツの工業力ではこの要求にとても対応できなかった。煙幕中隊の能力は偽施設と同様に、全体的な面から見た地上防空効果の、もう1つの例であった。


絨毯爆撃とドイツの都市の破壊

 1942年当初の成功にもかかわらず、ドイツ空軍はドイツ本土全体を守る事も、全てのRAFの爆撃機を目標から逸らせる事も出来たわけではなかった。3月末、Harrisは絵画のように美しいハンザ市のLubeckを、絨毯爆撃という新しい戦術を将来的に実施してゆく為の試験目標として選んだ。3月28日の夜、RAFの爆撃部隊は空襲の為に離陸した。GEEの射程外であったものの、Lubeckはバルチック海沿岸であった為にRAFの爆撃機にとって目標を判別しやすかった。Harrisは戦後の回想の中で、この空襲について次のように記述している:

Lubeckは重要な目標ではなかったが、大きな工業都市を破壊しようとして失敗するくらいなら、中庸な工業都市を破壊する方が良いように思われた。しかし空襲の主な目的は、第一波が第二波を大火災の開始点として狙った場所へ、どれくらい上手く誘導できるかを学ぶ事であった。

もしもこの空襲の目的が航空機によって大火災を発生させる能力についての教訓を得る為のものであるとすれば、この作戦は大きな成功を収めたといえる。地区一帯に建っていた古い木造建築物は焼夷弾にとって格好の燃料で、空襲によって古くからの街の中心部は焼き尽くされてしまった。結局、空襲によって300名を越す死者と、1000名を超す負傷者を出し、街の2000以上の建物が大きな損害を被った。ハンブルグ地域のナチス党管区長(Gauleiter)であったKarl Kaufmannはこの空襲について、これまでドイツの都市が被った中で最も酷いものであったと書き記し、ドイツの主要なマスコミは、街の中心部の80%が破壊されたと報じた。Kaufmannの指摘は正しかったが、しかし空襲は更に酷くなって行く。
 一方でこの攻撃は、ドイツ市民だけでなくイギリス軍爆撃機の乗員にとっても高い代償を伴った。RAFはこの作戦で全体の5.5%に当たる13機をドイツ軍の防空によって失ったが、この損害はHarrisによれば、この規模の被害が続けば爆撃機軍団の拡張を維持できなくなるか、もしくは少なくとも戦力を完全なものにすることが出来なくなるものであった。しかし大きな損害にもかかわらず、Lubeckへの攻撃によってHarrisは集中の重要性を確認する事が出来た。1942年4月のある公式報告書の中で、RAFの分析官の1人は、「時間と空間における航空機の極度の集中と、高度での幅広い分散とは、夜間における敵高射砲に対する堅実な対抗手段となり得る。」と主張している。このRAFの報告書は、将来の爆撃作戦に関するHarris自身の考えそのままであった。Lubeckとそれに続くバルチック海の港町であるRostockの空襲によって、何百機という大規模な爆撃機部隊は、防御の薄い目標に対しては飽和攻撃をかけることが可能であることが判明したが、しかしHarrisは爆撃機の集中という彼の理論を、より大きな近郊都市に対して大規模な空襲によって試すという決断を下したのであった。
 Lubeckでの成功にもかかわらず、Harrisは爆撃機部隊を更に集中して「50万人かそれ以上の大きな工業都市の既存の防御を飽和させ」ようとした。Harrisはこの点においては、200機を超える爆撃機による空襲であっても、敵の防御を飽和させるには余りにも少なすぎ、また目標に対して爆撃を充分に集中できないと感じていた。Harrisの思い描いた規模の空襲を実現させる為、彼は首相の同意を求めた。Harrisはチャーチルから、コードネーム「ミレニアム(千年王国)」と呼ばれる、ドイツの1ヶ所の目標に対する1000機の爆撃機による大空襲の実施許可を得た。1000機の航空機を集めるため、Harrisは爆撃機軍団からだけではなく、作戦訓練部隊や機種変換部隊等からも乗員と航空機をかき集めなければならなかった。まず、爆撃機軍団はハンブルグを第一目標としたが、ドイツ北部の悪天候という運命の悪戯から、ゴシック式の大聖堂で有名なケルンが代替目標とされることになった。3月30日の夜、何千人もの熟練乗員と、それよりは少ない数の未熟な訓練生とが、ケルン攻撃の指令を受けて様々な種類のRAFの爆撃機へと乗り込んだ。900機を越す航空機が目標に高性能爆弾と焼夷弾とを投下し、破壊的な効果を成し遂げたのである。
 ドイツ空軍にとって、このケルンへの空襲はそれ程大きな驚きをもたらさなかった。1942年の3月末には、ドイツ国民とドイツ空軍は、日常化したRAFの空襲に慣れつつあった。更にドイツ空軍は近い将来、イギリスの攻撃が激しくなることを予想していた。「総統はまた、RAFをそれ程脅威としておられない。総統は、イギリスが(我々に与える)強大な打撃の倍もの危険を冒すことになると信じておられる。しかし空襲に対して必要な警戒を怠ってはいない。」と、この空襲の準備が行われた日の日記にゲッベルスが書いていた事は、非常な歴史的皮肉の1つであろう。


防空は絶体絶命か?

 ケルン空襲のまさに直前の、ヒトラーとゲッベルスの明らかな楽観にもかかわらず、それまでの経験からはこうした形での強力な攻撃は予想もつかなかった。実際に、この規模と大きさの空襲にドイツの防空は明らかに驚愕した。比較的狭い正面から大陸へと侵入する際にRAFの爆撃機は、地上管制迎撃手法である「ヒンメルベッド方式(屋根付きベッド方式、Himmelbettverfahren)」を用いたKammhuberの夜間戦闘機システムの上空へ殺到した。この迎撃手法は、ドイツの西部と西部占領地域を幾つかの箱状区域へと分割する。それぞれの箱状区域では2基の離れた場所のウルツブルグ大型レーダー(Wurzburg Riese)を使い、片方のレーダーで敵爆撃機を追尾する一方で、もう片方のレーダーで夜間戦闘機の位置を把握する。敵味方双方の位置はプロットテーブル上に表示され、地上管制官はそれによって戦闘機を爆撃機へと誘導するのである。
 このヒンメルベッドシステムの大きな弱点は、密集した航空機による飽和攻撃には圧倒されてしまうという事である。実際にケルン空襲の時、爆撃機の大編隊に対応したのはたった25機の地上管制迎撃機だけであった。乗員の作戦報告書でも、ドイツ空軍の高射砲と探照灯による防御もまた爆撃機部隊の規模に圧倒されていたと広く感じられており、この印象は、高射砲と探照灯による防御が弾幕射撃ではなく単機目標への射撃に集中されていた(?concentrated on single targets versus barrier fire procedures)という事実によるもののようである。実際に、RAFの評価では目標上空で24機が失われたが、その内の16機が高射砲、4機が戦闘機、そして2機が空中衝突によるものとしている。それに加えてイギリスに帰り着いた爆撃機の116機が損傷を被っていたが、高射砲によるものが85機、戦闘機によるものが12機としている。ケルン空襲においてRAFは41機の航空機を失ったが、この損害比率は3.9%で、その殆どが高射砲によるもののようであった。攻撃側の損害にもかかわらず、ケルンの損害は大きなものとなり、空襲後の分析では600エーカーの範囲が完全に破壊されたが、これは攻撃目標であった街の中心部の被災範囲の約半分を占めていた。
 攻撃後2,3日の内に、ドイツ航空参謀部(German air staff、Luftwaffenfuhrungsstab)とケルン地区のナチス指導層との間で、空襲に参加した航空機数をめぐって奇妙な論争が始められる事になった。空軍参謀部は空襲がたった70機で行われたと頑なに主張する一方で、党の役人はケルンへは200〜300機(a few hundred)が来襲したと発表した。そして双方とも、1000機が作戦に参加したというイギリス側の主張を、イギリス国民へのプロパガンダ的策略だとして認めようとしなかった。航空参謀が攻撃機数を低く見積もっていたのは、ケルン空襲でRAFが半分以上の損害を被ったということを信じたか、もしくは信じたかった為であったようである。ともかく空襲から数日経過しても、ドイツ空軍並びに政治指導層は、ケルンに対してどのような規模の爆撃部隊が来襲したかを把握できていなかった事は確かであった。
 Lubeck、Rostock、そしてケルンに対する空襲は、Harrisの集中攻撃の規模への信仰を更に強くし、また都市に対する大規模な焼夷弾空襲による危険性をドイツ中に知らしめることになった。そしてこうした空襲によって、ドイツ空軍の指導者は、地方の(civilian)党幹部から自分たちの町や都市、そして工業地帯の防御を強化しろという遠慮のない要求に直面する事となった。党幹部はより多くの高射砲と探照灯が必要だと主張し、占領地域の西部ベルトからドイツ本国へ探照灯を移動するよう要求した。Kammhuberは後に行われるこの移動の事を「酷い打撃(terrible blow)」と言った。そして、ドイツ空軍の指導者は、ドイツ中の重要な全ての目標を全て防御しようとする方針を採らざるを得なくなった。政策上の都合がどうあれ、この戦略は実際には実行不可能であった。イギリスの爆撃機の航続距離と数とが増加し、またその背後にアメリカの戦略爆撃への参戦という影が控えている中で、ドイツ空軍はやむを得ず、地上防空を集中させる地域を選択せざるを得ない立場に追い込まれていた。歴史上の多くの軍事指揮官は、全てを守ろうとする事は、何も守らない決定と同じであるという事を認識していた。ドイツ空軍の指揮官達も、まさにこの教訓を学ばされることになった。


ドイツ空軍の反応

 多方面に渡るドイツ空軍の地上防空部隊の規模拡大にもかかわらず、ドイツと占領地域の全ての重要な目標を防御する必要性は拡大し続け、ドイツ経済界もドイツの労働人口もこれを支えることができなくなっていた。それへの対応策の1つとして、より素早く脅威となる地域へ移動できるよう高射砲部隊の機動性を高めるというものがあった。例えばドイツ空軍の上級司令部は、ドイツ中を素早く移動可能な重高射砲と軽高射砲の鉄道大隊の数を増加する命令を出した。鉄道大隊は、最新の器材と訓練の行き届いた人材を得ることにより、高射砲部隊のエリートになった。1942年末には5個の鉄道高射砲大隊が存在していた。他の対策としては、各高射砲中隊の火力の向上の為に、各重高射砲中隊の備砲数を4門から6門に増加する作業を加速するというものがあった。
 各中隊の砲数を増加することは、各中隊の火力を増強する手段の1つであることは確かである。実際にこのコンセプトは、1942年の春に、4門編成の中隊3個を中心に配置した1基の射撃指揮装置で指揮するという、「集合中隊(super batteries)」の設立へと至る事になる。3ヵ所の離れた場所の12門の高射砲に、射撃諸元データを「精度」を保証したまま伝達する事に問題があったが、ドイツ空軍は改良されたウルツブルグ射撃用レーダーの導入によって、1942年中頃にははこの問題をほぼ解決していた。集合中隊では、1基の射撃用レーダーと3基の射撃指揮装置を中心として、3個の高射砲中隊が正三角形に配置されていた。射撃用レーダーは射撃諸元データを3基の射撃指揮装置の内の1基に伝達し、そこで計算された射撃用のデータはそれぞれの中隊に電気的に伝送されるが、残り2基の射撃指揮装置も故障に備えて待機を続けるのである。
 集合中隊は、防空部隊要員にとって主に3つの利点があった。1つ目は、指揮射撃を集中化することができたため、撃墜数を増加させることが可能になった。2つ目は、3つの中隊が1つの中央射撃指揮の管理下に置かれる為、中隊全体として管理要員や支援要員の数を削減することができた。そして最後に、集合中隊はまた、必要な技術支援要員の数も削減することができた。しかし集合中隊には利点がある一方で、幾つかの欠点も存在した。まず、射撃指揮機能を集中している為に攻撃や破壊に対してより脆弱であり、また離れた高射砲中隊へ射撃諸元データを伝達する為に何千メートルものケーブルやワイヤーが必要であった。2つ目として、集合中隊には広大な場所が必要であった。3つ目として、12門もの高射砲を管理する複雑さから、高射砲交戦区域での戦闘機との協調は不可能であった。確かに、1個中隊のみですら戦闘機との協調は困難であるのに、3個中隊同時では基本的に不可能である。そして最後に、集合中隊を効果的に運用するには高度に訓練された要員が要求されていたことが挙げられる。
 結果として、集合中隊は高射砲部隊の効率を上げることになった。von Axthelm大将(?General)によると、集合中隊は特に初期の作戦で成功を収めた。Axthelmは「1942年後半の、これまでになく強力で、より激しい空襲の際に、集合中隊の真価が発揮されることになるだろう」と見ていた。皮肉なことに、大規模な高射砲中隊が初めて提案されたのは、普段は詳細な技術に関わることを毛嫌いしているゲーリングによってであった。しかし、集合中隊は独立した防空システムの構成を意味しただけのものではなく、むしろ地上防空と迎撃機との共同ネットワークの一部分を意図したものであった。
 組織的な工夫に加えて、ドイツ空軍はより高性能な高射砲を導入することによって高射砲そのものの効果を向上させようとした。この面においてドイツ空軍の指導者層は、遅ればせながら以前に挙げた88mm41型高射砲の能力を認識するに至っていた。Milchは1942年3月6日のゲーリングとの会議で、この新兵器の「満足のいく性能」について説明したが、しかしそれと同時にこの高射砲に関する2つの事についても言及した。1つ目の事象は、多区間内挿砲身(?multi-section inner-barrel)という構造によって引き起こされる問題で、砲弾の弾帯(導環、driving band)に鉄を使用すると内挿砲身の最も内側の継ぎ目を押し広げて薬莢が排出できなくなってしまう為、砲弾の弾帯に銅を使う必要があるというものであった。この問題は、一方では射撃に関する技術的問題であり、またもう一方では、高射砲砲弾の生産で貴重な銅の使用を制限する為に弾帯の材質を鉄に変更していた事から発生した、資源問題であるといえる。もう1つの事象として、88mm36型と比較して、砲弾の初速が高いために41型の内挿砲身の寿命が短いという欠点をMilchは挙げている。この問題は主に高性能を追求した結果、高い初速によって41型の砲身により高い力が加わることにより、寿命を短くすることになったのである。そして最後に(?上には2つとしながら、ここで3つ目が出てくる)、41型の生産にはアルミニウムを含めて220ポンドもの余分な材料が必要であり、新兵器の持つ高性能への熱狂を冷ますのに十分であった。
 41型に関する欠点の為、1942年3月19日にヒトラーは、この砲の生産数を既に発注されている44門に限定するよう命令した。生産の遅れから、1942年8月になって初めて製品版が完成し、そして完成するや否や、高射砲部隊側の反対にもかかわらず、ヒトラーの命令によって北アフリカのロンメル部隊へと送られた。このヒトラーの決断は、この砲は対空砲として高性能であるが、それよりもシルエットが低く対戦車砲として適しているという高射砲学校による推薦が明らかに影響していた。結局、北アフリカに送られた41型の半数は枢軸国の輸送船と共に沈んで失われてしまった。それに加えて、ロンメル部隊に届いた残りの20門の41型も、全ての新兵器システムにありがちな技術的不具合に悩まされることになった。1942年の終わりまでに、ドイツの工場は合計で48門の88mm高射砲41型を生産したが、この頃にはヒトラーも空軍の指導者層もこの41型の対空砲としての能力を認識するに至り、戦争の残りの期間を通じて増産命令が出されることになった。
 88mm高射砲と同様、128mm高射砲も、1937年に最初の試作品が試験されたにもかかわらず、生産に問題を抱えていた。1942年の終わりまでに、たった45門の単砲身タイプと、10基の連装砲(Zwilling)タイプが生産されたに過ぎなかった。連装砲タイプは、ベルリン、ハンブルグ、そしてViennaに建設する巨大なコンクリート製の高射砲塔に装備するよう設計されていた。性能の面では128mm高射砲は間違いなく第二次世界大戦を通じて最も高性能な高射砲であった。効果の面では、1機撃墜当たりの必要弾数は平均で3,000発と105mm高射砲の半数であり、また旧式の88mm高射砲の5分の1であった。1942年8月28日の私的な座談会において、ヒトラーは空軍の高射砲の利点に関して評価を行っている。ヒトラーは次のように主張している:

最も優秀な高射砲は8.8cmだ。10.5cmは弾薬を消耗し過ぎるし、砲身も長く持たない(?barrel does not hold up very long)という欠点がある。国家元帥(ゲーリング)は12.8cmを高射砲計画に入れるよう望み続けている。この連装式12.8cm高射砲は見た目が素晴らしい。技術者の視点から8.8cmを評価すれば、12.8cmを除けばこれまでに製造された中では最も美しい兵器であることは間違いないだろう。

 128mm高射砲は本当に堂々とした高性能な兵器であった。しかし26フィートにもなる長い砲身と、28,000ポンドを越す重量から、空軍による幾つかの大型の移動用プラットホームの開発努力にもかかわらず、基本的には固定式の兵器とならざるを得なかった。1942年には資源の制約から巨大な「Meiller 移動架台(transporters)」はキャンセルされ、128mm高射砲は鉄道用車台か、高射砲塔の屋根、もしくはドイツ国内の固定砲座の為の特殊な高射砲ということになった。


高射砲の固定陣地化(Digs-in)

 高射砲の固定化という面では、Milchは既に3月には大口径砲の固定陣地化を提案しており、また6月にゲーリングは、全ての128mmを含む固定陣地化されたの高射砲を増加させる命令を出している。ゲーリングは、脅威の高い地域での防空の構築を容易にする為に、幾つかの128mm高射砲を鉄道貨車に搭載する事を許可している。高射砲の固定陣地化の決定は2つの事を考慮したものである。1つは、高射砲を固定陣地にすることで、人員と資材を削減することが可能である。例えば、高射砲を固定化することによってドイツ空軍は移動用砲架の生産に関係する資材の消費を制限することができる。更に固定砲座化によって、高射砲の輸送用の牽引車とトレーラー、そして輸送に関係する人員や装備の必要性が低減するのである。自動車化されていない重高射砲は、自動車化されたものと比べて、必要な人員が53人も少ないのである。2つ目に、特に大口径高射砲にとって、専用の場所に固定配置することにより、兵器の精度をあるレベル以上に引き上げることが可能となる。しかし大きな欠点として、配備された場所が攻撃を受けなかった時に、脅威の高い地域の支援の為の移動が困難になるという問題がある。結局、経済的考慮が戦術的事項に勝ることとなり、ドイツ空軍は移動用高射砲の代わりに固定高射砲陣地の建設を選択することが多くなったが、しかしこの決定が重要な結果をもたらす事になるのは、西部と東部の両戦線が崩壊する1944年末のことであった。


人材難(The Search for Personnel)

 1942年中頃には、ドイツ空軍は経済的な制約による危機だけでなく、人員不足の圧力も受け始めていた。実際に高射砲と探照灯の部隊では、幅広い任務をこなせるように特別な訓練を受けた人員だけでなく、調理師から電気技術者に至るまでの補助的な技術者と補給要員も大量に必要としていた。自動車化されていない重高射砲中隊では129名から143名が、同じく自動車化されていない軽高射砲中隊では158名から175名の人員を必要としていた。高射砲兵数を削減する為に、ゲーリングは幾つかの異端的なアイデアを考え出した。ゲーリングは、沿岸砲台に配員されている陸軍の砲兵に、同じ場所に配備されている高射砲の操作も兼務させる事が可能か、実行可能性の研究を行わせる命令を出した。3月に、Jeschonnekはゲーリングに対して、連合軍の上陸の際に確実に空からの攻撃も受ける事になるが、砲台員は沿岸砲台に行かなければならない為に高射砲砲台を放棄しなければならなくなってしまうので、この計画は実際的ではないと言っている。しかしこの考えは拒否されたものの、防空任務に就く兵員の数を節約する手法の探究は、終わることが無かった。
 1942年には、東部戦線の国防軍部隊では戦死者の数が増加し、損害を穴埋めできなくなっていた。前線へ兵隊を供給する為に、ドイツ空軍は国民兵高射砲中隊(Home Guard flak batteries、Heimatflakbatterien)の設置の実行可能性の研究を行った。そしてそのすぐ後に、ドイツ空軍は、ドイツ中の工業地帯の工場労働者と住民によって構成した高射砲中隊を設置し始めた。この、工場の防衛にその工場労働者を使うという考えは新しいものではなかった。実際に第一次世界大戦中の1915年には既に、国防大臣によって考え出されていた。そしてこの国民高射砲中隊は、そのほとんどが労働者と市民の義勇兵によって構成されていたにもかかわらず、空軍の高射砲兵科の将校と先任下士官が部隊を指揮していた。
 国民兵高射砲中隊は小隊(platoons、Zuge)で構成されており、各種の古いドイツ製高射砲と鹵獲高射砲や鹵獲機器が混在していた。国民兵部隊は基本的に1日が8時間から10時間シフトとなっており、任務終了後に高射砲の訓練を行った。夜間には、自分達の工場や勤務場所がRAFの爆撃部隊の攻撃対象となるかどうかの哨戒を行った。こうした部隊には射撃用レーダーは装備されず、またその殆どは射撃指揮装置すら装備されていなかった。国民兵重高射砲中隊は平均的に72名、国民兵軽高射砲中隊は55名とされ、部隊が60cm探照灯を操作する際には、これに30名が加えられた。第7航空指揮区域には、空軍によって国民重高射砲中隊と国民軽高射砲中隊のいずれもが、指揮区域内の各工場の防御と各地の都市の防衛増強の為に設立された。1つの例として第7航空指揮区域は、それぞれ4門の鹵獲されたロシア製76.2mm高射砲を装備した国民兵弾幕射撃中隊を3個中隊編成し、ストラスブルグとアウグスブルグの街の防衛の補強を行った。それに加えて、特別な工場とコンビナートにおいては、その場の労働者で編成した国民兵部隊に型遅れのドイツ製20mm30型機関砲を装備させて、防空任務に就かせた。
 1942年の終わりには、ドイツ空軍は国民兵(Home Guard)によって200を越す重高射砲中隊と300以上の軽高射砲中隊を編成しており、戦力は合計で約10万人にもなっていた。空軍はまた、国民兵を阻塞気球中隊や煙幕中隊にも配員している。そしてこのように国民兵を使う事によって、幾つかの大きな結果をもたらした。まず初めにこうした部隊は、防空任務を公共部門にまで拡大するというヒトラーの視点と完全に一致していた。1942年3月にヒトラーは次のように演説している「もしも戦争が10年続いたら、ドイツの男女は全て高射砲兵となっていることだろう。もしも我々が毎年更に5000門の高射砲を得ることができたら、全ての村が高射砲を持つことになるだろう」。2つ目に、国民兵部隊の設立により、1942年の夏には国防軍全体で感じられていた人員の不足傾向が顕かになったことがある。3つ目は、例えその殆どが鹵獲兵器であったとしても、500を越す重並びに軽高射砲中隊をまかなうだけの十分な兵器と弾薬が存在していたという事実から、1942年中頃の戦争経済において利用可能な貯蔵品がまだ存在したということがわかる。そして最後に、十分な訓練を受けず、射撃用レーダーと射撃指揮装置も持たない為に、こうした部隊は弾薬消費の激しい弾幕射撃に頼らざるを得なかったことである。国民兵中隊の任務が防衛であるという状態と、中隊の装備品の状況から、こうした部隊の主要な目的は攻撃を行う爆撃機の意図を妨害することであって、爆撃機を撃墜することではないことは明白である。実際に、国民兵中隊の設立とその任務によって、効果の測定基準は事実上、爆撃機の撃墜数ではなく、爆撃機が目標を正確に攻撃するのをどれだけ妨害出来たかに結び付けられるようになった。
 地上防空部隊の規模拡大の新手法の探索は、国民兵高射砲中隊の設立では終わらなかった。1942年8月、国防軍は緊急高射砲中隊(Emergency flak batteries、Alarmflakbatterien)を組織し始めた。国防軍の職員や、軍事管理者(?military administrators)、そして一般公務員が緊急高射砲中隊の要員となった。緊急高射砲中隊は殆どが軽高射砲によって構成されており、軍事施設や政府関係の建物の近くに配備された。空襲になると、要員は防空壕を探す代わりに、自分達の基地や職場の能動的な防御に参加するのである。戦争を通じてイギリスの情報部は、緊急高射砲中隊が沿岸の海軍施設や通信所、警察署、そしてTodt組織と関係する建設現場にまで配備されていることを確認している。
 国民兵高射砲中隊と緊急高射砲中隊の設立によって、ドイツ国内の高射砲部隊に配員可能な人員数が増加した事は間違いない。しかし、そうした部隊に関連する大きな関心事は、防空任務においてわずかの専門的訓練と数少ない経験とで、いったいどれだけの効果を期待できるかというものであった。こうした部隊は多くの面で、戦争終結直前に組織されたドイツ人の民兵(国民突撃隊、Volkssturm)の高射砲版であった。工場労働者や非戦闘軍人、そして市民に、特別な訓練を受け経験も積んだ高射砲兵と同じレベルの働きは期待できないのは明白であった。実際に予備兵が大量採用され空軍の訓練システムで賄えなくなると、訓練作業の負担の多くは空軍学校から部隊そのものへ移された。更にもう1つの問題として、睡眠時間を失い、1日の労働の後の休息まで奪われた工場労働者が行う防空任務に、どれだけの効果を期待できるのかというものがある。
 最後に、国民兵高射砲中隊と緊急高射砲中隊の設立の決断は、基本的に2つの評価がなされている。1つは、こうした中隊の創設は全くの自暴自棄的行為であるというものである。そしてもう1つは、こうした部隊の設立は、イギリス軍の爆撃の激化とアメリカのヨーロッパ航空戦への参戦という影に直面して、利用可能な人材と過剰な装備を有効利用するようために考えられた手法であるというものである。実際の解釈は、この2つの解釈の間のどこかに収まっている。国防軍全体での人材不足による危機が、ドイツ本土の地上防空ネットワークへの配員の代替手段を探す、主要な要因となったことは明らかである。同様に、RAFは1942年春から空襲の強化を開始したが、しかしイギリスの空襲の範囲が広がったにもかかわらず、ドイツ空軍はドイツ本土を充分に防御し続けていたのである。この点では、国民兵高射砲中隊と緊急高射砲中隊とは、基本的にドイツ空軍は既存の高射砲部隊を拡大する兵力となっていた。また、こうした部隊が特定の地域を受け持つことで、そこを防御していた常備の空軍部隊を本土の別の方面へ転用することが可能となった。
 前線での兵隊の要求が高まったことから、航空情報隊(Air Reporting Service)の任務に、空軍女性予備兵(Luftwaffe women auxiliaries、Luftwaffenhelferinnen)の動員を拡大することとなった。既に第一次世界大戦中に、国防大臣によって通信部隊の健常な男性兵員の代替として女性の動員を行う布告が発せられたが、予想できない急な終戦によってこの計画は実施されなかった。それと対照的に、第二次世界大戦では女性が航空情報隊の様々な役割をこなしていた。1941年の終わりには、34,000人を超す空軍女性予備兵がドイツ本土で、各種の通信や管理職の仕事を行っていた。それに加えて占領地域でも数千人の義勇兵が任務に就いていた。1942年9月1日に、航空情報隊の司令官のWolfgang Martini大将(General)は、ゲーリングに「航空通信部門はすでに殆どが若い女性に置き換わっている」と話している。1942年には、Blitzmadel(Lighting girls、雷娘)という愛称で呼ばれていたこうした若い女性達は、無線や電話、テレグラフのオペレータといった任務を含む、各種の通信業務を行っていた。それに加えて彼女らはまた、ドイツ空軍の司令部内の昼間と夜間の防空作戦の調整に関する各種任務にも就いていた。
地上防空システムの運用要員の不足から、更に非正規な解決も行われた。1942年秋には、 そして若いドイツ人女性だけでなく、外国人の戦争捕虜(POWs)も高射砲部隊に動員された。ロシア人戦争捕虜を予備兵として配員する計画は、国防軍が直面していた人材危機の程度を明確に表しているといえる。より良い食事、給与、そして煙草の配給を条件として、ドイツ空軍はロシア人捕虜に重高射砲の弾薬箱からの砲弾の抜き取りと装填といった肉体労働を行わせていた。


将来を見据えて:1942年の開発計画

 地上防空部隊に必要な人員の確保は、確かに1942年中旬のドイツ空軍の上級指導者の頭を占めている問題であったが、しかし同じ1942年の夏に、ドイツ空軍は最も重要な事象を含む、兵器とシステムの調達と開発の問題に直面していた。1942年6月、von Axthelmはゲーリングに対して「高射砲兵器の開発状況と設計開発に関する批評」と題した報告書を送っている。この報告書は、ドイツ空軍の地上防空に関係する全ての兵器とシステムの、将来の開発と調達の指針を記したものである。Axthelmはこの報告書を前置きも無く、1918年以来、航空機の開発ペースが高射砲兵器の開発ペースを明らかに上回っている、とい事実から始めている。更に彼は将来、「航空機の速度と飛行高度とが飛躍的に増加すると考慮しておかなければならない」と強調している。そしてvon Axthelmは「2、3年の内には、航空機の速度と飛行高度は、機種によるものの、次第に625m.p.h、33,000フィートから49,000フィート」にまで増大すると予測している。
 1942年の開発計画で、von Axthelmは航空機の速度と高度の上昇によって、目標への命中の可能性が減少することになると指摘している。そして彼は、既存の高射砲の能力の改良や新兵器の開発に加えて、高射砲兵科は現在の兵器のリードポイント(lead points、システムの中の接続ノードの数)を減らすか、むしろ「高射砲仮説(flak hypothesis、目標の未来位置を仮定し、それによって照準を行う事)」を拒否する必要があると主張している。後者については、多くの面で驚異的な事である。高射砲仮説は、砲弾が砲身を出てから意図した命中点に至るまでの弾道計算の基礎になっていた。つまり、目標を補足し始めてから砲弾が目標に届くまで、目標が一定速度、一定高度、そして一定方向を維持するという明確な仮定が前提として、弾道計算を行うのである。この高射砲仮説が無ければ、砲員もしくは砲弾は、目標の位置の三次元空間での変化量を連続的に計算し続けなければならなくなり、このような複雑で高度な計算は、は既存の射撃指揮装置などの初歩的計算機の能力ではとても対応できなかった。
 Axthelmは、現在の技術では自分の要求が実現できない事を明確に認識していた。それではなぜ彼はそんな事を言ったのか? その答えはそれに続く、「航空戦において増大する問題を解決できるのは、遠隔操作の砲弾もしくは対空ミサイルしか無い」という彼の主張の中にある。実際に、対空ミサイルは1942年の開発計画の目玉であった。Axthelmはミサイルの開発がまだ「第1段階」であることを認めていた。より野心的な、目標の近くで自律追尾(active homing)に切り替わる液体燃料推進の光学誘導ミサイルだけでなく、既存の射撃指揮装置と互換性のある固体燃料ロケットの調達まで含めた、「段階的な」開発の推進を要求していた。
 ある面で、von Axthelmの誘導ミサイルの開発の要求は、Rudelが1932年の高射砲開発計画の中で要求していたことを単純に言い直しただけであり、計画の実効性が疑われている中で対空ミサイル計画の、支援を再び得よう試みたものといえる。いや、von Axthelmは、彼の指導者であり前任者でもあるRudelと同じように、対空ミサイル開発の明確な支援者であった。確かに、Axthelmが高射砲兵総監に選ばれた直後に、彼はゲーリングと参謀本部のメンバーに対して熱心に対空ミサイル開発について売り込みを行っていた。それに加えてAxthelmは、1942年3月にDr.Friedtich Halder大佐(Major)の書いた、1940年の高射砲開発部(Flak Development Division)を陸軍軍需局(Army Ordnance Office)から航空省(Air Ministry)へ移した事を批判した覚書を、扇動していたとは言わないにしても、明確に支持していた。Halderはそのメモの中で開発部の事を、「ロケットなどの革命的新兵器の潜在能力を見誤った、非難を受けようとしない陸軍の伝統主義者共の巣窟」と強く非難している。
 Axthelmの熱心な働きかけにより、遂には対空ミサイル開発を1942年の高射砲開発計画の一部として支援する事をゲーリングに納得させたが、しかし近接信管から光学もしくはレーダー誘導システムに至るまで、技術的問題が山積していた。ミサイルに関する技術的問題と、計画の開始が遅れとによって、対空ミサイル計画が戦争中に実用段階にまで至る事は結局無かったのである。戦後、アルバート・シュペーアは対空ミサイルでなくV-2弾道ミサイルの開発推進を決断をした事を後悔している。彼は次のように言っている:

今に至って思うに、対空ロケット(まま)と、それと合わせてジェット戦闘機とがあれば、1944年春から始まった我々の工業施設に対する西部の連合軍による空襲攻勢を押し返す事ができたのではないか。多大な努力と投資によって開発、生産した長距離ロケット(long-range rocket、V-1やV-2の事かと思われる)は、少なくとも1944年秋には使用可能となってはいたが、全体的にはほとんど失敗であった。こうした長距離ロケットは、我々のプライドを満足させ、そして私の好みに合った兵器計画ではあったが、結局のところは間違った投資以外の何物でもなかった。その上、この誤った投資が空における防衛戦で我々が敗北した原因の1つとなっているのである。

シュペーアの主張は、多少とも懐疑の目で見なければならない。例え1941年から開発が始まっていたとしても、重大な技術的問題や既存の資源的制約を考慮すると、ミサイル開発が早まっていたかどうかは怪しいものである。まずあり得ないが、仮にヒトラーがV-2計画の放棄に同意していたら、対空ミサイル計画は運用段階にまで達していたかもしれない。しかし、考慮しておかなければならないのは、200m.p.h.かそれ以上で飛行する目標にミサイルを捕捉させるよりも、離れた地上の目標に向けて弾道ミサイルを発射するの方が、技術的には相当に容易であるということである。
 対空ミサイルはAxthelmの開発計画の目玉である事には変わらなかったが、しかし彼は幾つかの分野において、地上防空の兵器とシステムの能力を向上させる必要がある事も認識していた。開発計画には、連合軍の爆撃機の作戦高度の上昇に関心が高まっている事を示した項目が含まれている。ドイツ空軍の研究では、29,500フィートの高度を飛行する目標に対して、88mm18型と36型ではたった14秒間しか有効に交戦できず、これが105mmでは49秒、そして88mm41型と128mmでは共に約68秒の有効交戦時間を持っているとしている。そして高度が36,000フィートとなると、88mm41型と128mmだけでしか交戦できず、しかも有効交戦時間はたったの31秒であった。この議論のすぐ後、Axthelmは「今後予想される、高高度を飛行する航空機に対する防御手段を高射砲兵科は持っていない」と主張している。Axthelmの観察は正しかったが、しかし彼の航空技術開発の見積もりに関しての予想は、結果的にはかなり誇張されたものであった。Rudelとは対照的に、von Axthelmの戦術的な予見能力はかなり劣っていた。例えば、ドイツ空軍はアメリカでB-29の開発が行われている事を良く知っていたが、この技術的には第二次世界大戦で最も進んだ爆撃機は与圧式の機体を持っていたにもかかわらず、常用最大高度(?service ceiling)は最大31,850フィートで、最大速度も358m.p.h.でしかなかったのである。Axthelmは別に風車に向かって槍で突撃を仕掛けている(ドンキホーテのこと)わけではなかったが、しかし彼は、敵の能力を相当に過大評価してしまった事か、もしくは自分の高射砲部隊の為により多くの予算と資材を得ようと故意に脅威を過大なものにしようとした事かで、告発されかねなかった。
 超高高度を飛行する航空機の脅威に備えるため、von Axthelmは口径が200mmから250mmの超大型砲の開発を提案した。彼はそんな砲が、かなりの製造工数と資材とが必要であるなどの幾つもの欠点を持つ事を認識してはいた。Axthelmは250mm高射砲の製造には、120,000人時間の工数と、200トンの鉄が必要であり、最終的な製品重量は約130トンになると見積もっていた。しかしそれでも彼は、「新しい対空ミサイルシステムの現在の開発段階を考えると、まだ超重高射砲の開発の方が見通しが利き、明確な解決が期待できる事から、相当な資材と労力を消費するとしても、超重高射砲の開発は海軍との密接な協力の下で全力で遂行しなければならないものである。」と主張している。Milchは後に、そうした兵器だと砲身の寿命が短くなり、また射撃速度も低くなると、von Axthelmを非難している。Milchは茶目っ気たっぷりに「超重高射砲は射撃するのが精いっぱいなものにしかならないと信じていた(?)」と言っている。von Axthelmに公正を期して(?in fairness to)、Milchはこうした兵器の量産こそ提唱はしなかったものの、むしろ彼は(こうした超重高射砲で編成した)6個中隊24門を、ベルリンやハンブルグ、ルール等の重要拠点数ヵ所だけに配置することを考えていた。振り返ってみると、von Axthelmが超重高射砲を擁護していたことは、異様でないとしても、奇妙に見える。こうした砲の提案は、防空にとっては費用がかかるだけで効果の殆ど無い、白い象(やっかなもの)であった。
 ある面においては、von Axthelmの超重高射砲の提唱は単に、第一次世界大戦時の380mm「パリ砲」や、それを受け継いだ第二次世界大戦時の巨大な812mm「ドーラ砲」に表わされるような、ドイツ陸軍の超大型砲への偏向を反映していただけかもしれない。ドーラは1942年にソビエトのセバストポリ要塞の攻撃に使われたが、長さ164フィート、高さ35フィート、重量は信じられない事に1,488トンであった。第二次世界大戦で実際に運用された中で最も大口径の目的に沿って設計された高射砲はドイツのものではなく、イギリスのもので、5.25インチ(133mm)高射砲であった。イギリスは更に、6門の8インチ(203mm)沿岸砲を戦争中に対空用として使用していた。この沿岸砲の場合、ドイツ軍の侵攻の脅威が無くなった後に、この時代遅れで巨大な砲と貯蔵された弾薬に残された役割は、航空機に対する射撃しかなかったからであった。結局、ドイツ空軍の超重高射砲に対する無駄な追及は、単に「大きいものは良いものであり、巨大なものは全てに勝る」という伝統的な価値観を表現しただけに終わった。
 Axthelmの提唱した超重高射砲や対空ミサイルは、1942年の開発計画に非現実的な感覚を与えることになってしまったが、この計画には現在の高射砲部隊に欠けている物についての幾つかの重要な観察も含まれていた。Axthelmは連合国の航空機の防弾の強化によって、軽高射砲と重高射砲の高性能爆薬の効果が薄れていると主張している。また、射撃用レーダーも現在のところは距離と位置の情報を正確に捉えているが、いずれ対抗手段の発達によって射撃用レーダーは妨害に大きな影響を受ける事になるだろうとも言っている。更に、聴音機の有効高度が19,000フィートしかない事も指摘している。それに加えて阻塞気球も、航空機へのケーブルカッターや防御用装甲板の装備によって、効果が落ちていると見ていた。そして最後に、150cm探照灯も現在の環境では充分な性能であるとは言えなくなっているとしている。
Axthelmはこの開発計画の結論として、地上防空の能力向上のための幾つかの提案を行っている。対空ミサイルや超重高射砲の開発に加えて、改良した炸薬や円錐形に加工された弾頭もしくはロケットによる補助推進を行う弾頭といった、既存の弾薬の弾道性能と炸薬性能の向上を要求している。彼はまた、既存の兵器の初速を向上させる為に、円錐形状をした滑空砲身(砲身の先端に行くに従って口径が少しづつ小さくなり、これによって初速を大幅に向上させた砲身)の生産を提唱している。戦術レベルの話では、固定砲架の陣地を増やし、夜間戦闘機との協調作戦を向上させる「特殊機器」を供給すべきだとしている。また、鉄道搭載の高射砲の拡大だけでなく、移動用の高射砲の重量を低減することで、これらを本土と占領地域で移動可能な予備兵力として運用する事も要求している。補助システムの面では、妨害に強い射撃用レーダーの必要性や、完全遠隔操作の150cm探照灯、300cm探照灯、阻塞気球による炸裂攻撃、そして薄い色の煙幕の代わりに黒煙を発生可能な煙幕装置といったものに言及している。


防空に関するAxthelmの視点(Vision)についての評価

 von Axthelmの提案を受けてから2ヶ月以上も考慮した後、ゲーリングは9月1日にこの計画を承認した。ゲーリングは計画に対して次のように指示している:

添付された高射砲兵器と機器、並びに新兵器、特に対空ミサイルと超重高射砲(海軍との密接な共同開発)の開発計画によって提案された効果向上を承認する。
開発は最上の努力を持って推進すべし。

更にゲーリングは、開発の進捗状況を常に知らせるように指示した。振り返ってみると、von Axhtelmの開発計画は現実と幻想とが混ざり合っていたといえる。最も熱烈な高射砲部隊の支援者であるヒトラーですら、この計画を「空想的だ」と書いている。開発計画では、RAFとアメリカ陸軍航空隊(USAAF)の現実の能力から明らかにかけ離れた脅威を思い描いてしまっていた。飛行経験が無かった為か、もしくは自らの分野しか見ていなかった為か、Axthelmは高度30,000フィート以上での飛行における重大な技術的、物理的問題を正しく認識できていなかった。更に、彼の計画書では、現在の高射砲部隊の能力、特に照空部隊と阻塞気球部隊の能力を過小評価していた。そして超重高射砲の提案は現実的というよりも空想的であった。しかしその一方で、von Axthelmによる対空ロケットと対空ミサイルの提唱は、開発が困難ではあったものの先見の明はあったようである。射撃用レーダーの潜在的な制限を認識し、そして「妨害に強いシ」ステムを要求する辺りは、同様に的確な見通しを持っていた。そして最後に、砲身の弾道性能と高射砲弾の炸裂能力の改良を要求したことは、後に高射砲兵器の効果向上に役立つ事となった。
 1942年9月29日、von AxthelmはRudelにこの承認された計画書のコピーを送付し、Rudelのコメントを求めた。これに対しRudelは10月7日に返事を出している。返事の中でRudelは、von Axthelmが計画書のコピーを送ってくれた事を感謝し、von Axthelmが高射砲部隊が直面している「より一層困難な問題」を解決しようとしてくれている事を嬉しく思う旨を述べている。Rudelはまた、ゲーリングがこの計画に個人的に同意し、また航空兵器局(Air Armaments Office)からの反対が無かった事に満足しているといっている。この後者の点については、Rudelは、かのUdetとの官僚的な争いが無駄にならなかったとしている。Rudelは、特に兵器システムについて意見する事を我慢しているが、しかし重要な結論的な観察を述べている。それは戦術的、戦略的要求における最大の可能性を適時認識することが、兵器開発にとって最も決定的要素であるということである。また、新兵器の能力を最大限に活かす為には訓練が重要である事も強調している。こうした指摘は、彼の以前の弟子に対する訓戒であり注意であるが、それによってRudelは、von Axthelmと彼によって提案された計画に対して信頼を明確に表明している。そして最後に、von AxthelmのRudelに対する手紙は2つの点で興味深い。1つは、von Axthelmは明らかに彼の前の上司で良き指導者であったRudelの判断を尊重していると共に、Rudelの同意を求めているということである。2つ目は、手紙のやり取りから、von Axthelmは計画の準備にRudelの手助けを受けず、またRudelもまた高射砲兵総監(Inspector of the Flak Artillery)と航空兵器局(Air Armaments Office)の間の行政上と官僚的な関係に明らかに追いつけていなかった、ということである。地上防空での技術研究と技術開発の全体を見通すMilchの主導的な役割に、Rudelは全く気付いていなかった。
 結局、1942年の高射砲開発計画は、第三帝国の技術的、資材的資源からすれば莫大な要求へと膨れ上がってしまった。既に8月8日の会議では、ゲーリングが現状下では航空機と高射砲の計画のどちらもを完全に遂行する事は不可能であると認めている。ゲーリングはMilchに、ヒトラーに対して個人的にこの議題を説明するよう命令した。Mirchはヒトラーとの会合によって、一時的に高射砲信者へと改宗してしまったことは明らかである。8月18日の会議で、Milchはドイツ本土防衛での高射砲の重要性を指摘し、本土での高射砲部隊の増強が必要であるとした。同じ日の航空兵器局での会議の中でMilchは、少数の削減を除いては、たとえ航空機生産計画が半分しか完了していなくても、高射砲計画は完全に遂行するように主張する事によって、彼の支援を強く表明している(?provided a caveat to)。
 ドイツの戦時経済の正に実際の資源制限にもかかわらず、ゲーリングは1942年の高射砲開発計画を了承し、この時、特に1月の総統の高射砲計画よりも多くの資源を消費するよう暗黙の要求したことは、驚くことではない。開発計画はあくまでも研究と開発の為の青写真であって、実際にそれだけの兵器や装備の購入もしくは生産を空軍にゆだねるわけではないからである。計画の明確な承認には特定の研究計画への資源の配分が含まれるが、研究の規模や全体の資金配分といった事は、次に続く官僚的交渉によって決定されるものである。最も重要なのは、開発計画は高射砲兵総監にとって地上防空に必要な物だけでなく、将来的な優先順位に関係した総監自身の戦略的視点を表現する機会なのである。
 von Axthelmの作成した開発計画は高射砲部隊の全体的な状況だけでなく、その未来についても極端に悲観的な評価をしていることは間違いない。もしもこの計画書だけを読んだならば、高射砲でまともな防御など不可能だと思うだろう。このvon Axthelmの暗い予測は、特に戦時の軍事計画における一般的な特徴と手法によって説明できるだろう。参謀部の作戦計画者は、自らの将来の軍事的要求と敵の戦力予測の両方の評価の積み重ねて行く中で、「最悪の」状況を考慮して計画を立てるように教育されている。最悪の状況を使用するのは、なるべく予算配分を有利にするというよりも、むしろ、敵が自分の部隊に対して最も脅威となる戦略を採った時に、自らの軍隊を効果的に対応可能な場所に置く為の手段であるといえる。確かに、最悪の状況を考慮した計画は「身長10フィート(神話におけるギガントの比喩?)」の敵を作り出してしまいがちではある。実際に、von Axthelmは明らかにこの傾向に陥っており、将来の連合軍戦力に対する彼の途方もない過大評価は、最悪を考慮した計画における潜在的な罠を的確に表現している。それに加えてvon Axthemは砲兵将校出身であった為、高射砲に対する近視的な視点しか持っておらず、地上防空を全体的な視点で見ることができなかった。例えば彼は、それまでの2年間に相当な効果を上げていた偽施設(Scheinanlagen)の改良に関する議論を全く忘れているのである。


想像と現実

 皮肉な事態のもつれで、ゲーリングが1942年の高射砲開発計画を承認したまさにその日に、ゲーリングは防空に関係するドイツ空軍の殆ど全ての上級指揮官と会議を行っている。9月1日に開催されたこの3時間の会議では、開発計画に関する事ではなく、1942年の夏におけるドイツの防空の現状に関するありのままの意見が出された。ゲーリングの他の参加者は、空軍参謀長のHans Jeschonnek大将、夜間戦闘機司令官(?General of the Night Fighters)のJosef Kammhuber、中央航空管区司令官のHubert Weise大将、航空情報隊(Air Reporting Service)司令官のWolfgang Martini大将、Walther von Axthelm大将、そして後の戦闘機部隊の司令官となるAdolf Galland大佐(Colonel)であった。この会議の中で参加者は空襲からドイツを防御する事に関係する様々な項目について検討を行い、そしてそれによる会議の議定書からは、第三帝国の迎撃機と地上防空の現状についての明確な洞察が見てとれる。
 ゲーリングは、地上防空部隊での人員不足に関する議題から会議を始めた。ゲーリングは会議の出席者に、SA(突撃隊)、SS、国家労働奉仕団(Reich Labor Service)、そしてヒトラーユーゲントのメンバーを防空任務に充てることを、ヒトラーが了承した事を伝えた。ゲーリングはまた、「我々はすでに軍事訓練の為された若者(military-trained youth、militarische Jugend)を必要とし、彼らは任務に就こうとしており、更には女性達も交換台やレーダーサイト、そして指揮所(command post)といった部署に配置しなければならない。」とも強調している。ゲーリングの主張に対してWeise大将とKammhuberは2人共に、高校生の動員に関しては保留を表明していたが、この計画は1939年にも一度提案されたもののこの時も拒否されている。Kammhuberは、全ての動員可能な若者はすでに動員されており、残った若者を「厳選したところ」で防空部隊の能力を低下させることには変わりないと言っている。それとは対照的にWeiseは、防空部隊へこれ以上の女性の動員を行う前に、こうした採用活動における法律上の身分を裁判所の法令によって定めなければならない事を主張している。Kammhuberはすぐにこの提案に同意し、そして再び、現在の他からの動員でもなお任務の需要に追いついていない事について注意を喚起している。
 ゲーリングはこうした議題は無視し、自動車化した高射砲もしくは高射砲の移動用砲架の生産と、高射砲の固定砲座への配備の、状況の対比について尋ねた(?)。Weiseはそれに対して、ベルリン防衛においては全ての高射砲を固定砲座に転換したものの、それによって訓練が困難になっていると答えた。これに対してゲーリングは「ならば君(Weise)は、配下の全ての中隊を実弾射撃場へ引っ張って行く代わりに、訓練射撃場に固定砲座の高射砲陣地を造るべきではないのか。高射砲を移動する理由なんて全く無い。」と怒気を顕わに答えた。1942年の秋には既にドイツ空軍で燃料不足が顕在化し始め、パイロットと高射砲兵の訓練が制限されることが多くなっていた事を考えると、ゲーリングの指摘の後半部分は重要である。事実、ゲーリングは訓練用の航空燃料の不足から、1943年の春にははドイツ空軍は航空機の数に見合うだけのパイロットを維持できなくなる可能性がある事を警告しているが、これは戦争中における彼の数少ない正確だった予見の1つであった。パイロットの居ない操縦席という状況は高射砲部隊にとっても重要な含みを持っており、戦争の最終年に現実のものとなる。結局、ゲーリングは全ての128mm高射砲を固定砲座とする彼の以前の命令を繰り返した。Weiseはそれに対して、建設資材(Bauvolumen)の不足から固定砲座の建設が進んでいない事を主張した。ゲーリングはそれに対して、シュペーアは運搬砲架の製造に必要な資材を出すくらいなら、むしろ固定砲座の為の資材を提供してくれると答えている。
 それに続いて、ゲーリングは関連する議題へと移り、偽施設建設の責任者は誰かと尋ねた。Jeschonnekは、こうした要求については市民防衛総監(Inspectorate of Civil Defence(L In 13))と共にWeiseが調整を行っていると答えた。そこでゲーリングは、イギリス軍の位置認識を妨害する為に、こうした施設をある一定の期間に移動させるよう提案した。Weiseは、経験上から偽施設の爆撃機を惹きつける効果を上げるには高射砲による射撃が必要である事を付け加えた上で、同意した。ゲーリングは再び話題を変え、水素工場を防御する為に、白い「霧」でなく黒煙を発生させることが可能な煙幕発生器を、「なるべくすみやかに」配備するよう要求した。水素プラントでは空軍の要求する航空燃料が製造されており、第三帝国の戦時経済の死命を握っていた。ゲーリングが、偽施設と水素プラントに言及している事は、偽施設が成功し、戦争において重要なものとなっている事を強く示している。
 会議のこの時点で、固定砲座化を完全に実行できるだけの充分な建築資材の提供を保証させる為と、シュペーアが空軍の128mm高射砲第2中隊をベルリンからハンブルグへ移動させる命令を出したというWeiseによる主張の調査を行わせる為に、ゲーリングは電話でシュペーアを呼び出した。短い休憩の後に会議が再開され、Weiseは、この命令で、ハンブルグ、ケルン、そしてDuisburgを防衛するよう計画されている他の追加の高射砲中隊も、空軍の128mm高射砲中隊も、どちらもベルリンの防衛に使用すべきであると報告している。ゲーリングはそれから、総統はミュンヘン、ヴィエナ、リンツ、そしてニュルンベルグに高射砲塔を建設すること、また既に建設されているベルリンとハンブルグにも追加で建設することを望まれていると伝えた。ゲーリングによれば、ヒトラーはニュルンベルグとヴィエナの破壊は「自分の魂を夢魔のようにおおっている」と激しく主張したという。Weiseは、ドイツ語系(German descent、Volksdeutsche)ルーマニア人がドイツ本土に帰ってくる計画を考慮したとしても、追加の高射砲中隊とそれに必要な兵員が無ければ、それだけの全ての都市を防御する事は不可能だと声を荒立てた。ゲーリングは、国防軍がコーカサス南部で持ち堪え(?stand)次第、それだけの兵力をWeiseに回すようにすると答えている。そしてJeschonnekは、「フランスでの工場の防御はとにかく非現実的である」ので、フランスから全ての高射砲中隊を引き上げるよう提案をしたが、ゲーリングは「高射砲による防御の無いパリは受け入れられない」と拒否している。
 Weiseは、更なる重高射砲中隊と照空中隊だけでなく、国民兵部隊の装備も必要であると、更に主張を続けた。ゲーリングは見るからにイライラし、次のように言い返した。「私に対しての要求は、もうどうでもいい。それよりも可能な範囲で如何に成し遂げるか、私はそれを聞きたい。」そしてゲーリングは怒りながら、兵員や装備の要求を諦めるという提案を一度は聞いてみたいものだと叫んだ。空気は険悪になり、会議は昼食の為に中断された。この会議の第一部における討議から、幾つかの事がわかる。まず議論からは、高射砲中隊や照空中隊からレーダー基地に至るまでの地上防空ネットワーク全体で、人材が不足しつつある事が明らかである。次に、ヒトラーの言葉が、防空に関係する多くの事に影響を与えているということである。そして中でも最も興味深いのは、(議論の中で)何が欠けているかが最も重要であるという事である。効果を上げるためには、より多くの資源と人材とが必要であるという事が、問題とされている。つまり高射砲の現在の効果について何の不満も出されないという事は、シャーロックホームズのミステリーである「吠えない犬」のようである(訳者注:シャーロックホームズは読んでいないのでいまいち上手く表現できない)。Weiseによる資源の更なる要求が、現状への批難も無いまま行われているということは、地上防空はその時点においては成功しているという事を強く示していると言えるのである。高射砲兵科部門の発言に、資源と人材のより一段の要求が含まれていたとしても、それが必ずしも高射砲部隊の現状が不満足な状態であるとは言えないのである。
 35分間の休憩の後に会議は再開され、Jeschonnekは、ゲーリングからなされていた高射砲分野で利用可能な「クッション(緩衝の為の予備)」の総数に関する質問の回答を行った。Jeschonnekはゲーリングに対して、「全ての利用可能な砲が使用中」であり、弾幕射撃中隊用に使用可能な兵器が既に無い状態であると伝えた。Weiseはそれに、ドイツの工場からは毎月20個中隊相当の高射砲が生産されていると付け加えた。ただし実際には、Weiseの見積もりは誤解を与えるものであった。1942年に生産された重高射砲の総数は4,147門であり、その内の68%に当たる2,828門が旧式の88mm高射砲であった。1942年の月平均の生産数は、実際にはそれぞれ軽高射砲が2,040門、重高射砲が304門であった。304門という数字を使うと月当たりの6門編成の中隊数は約50個となり、Weiseの示した20個とは違っている。しかし、イギリスの空襲中に破壊されたり、消耗してしまったりした高射砲の代替として毎月148門の88mm高射砲が必要であることも、また確かなのである。Weiseの発言の後、Jeschonnekは前言を翻して、クッションとして約300門の砲があるものの、それらは仕上げの終わっていないものであると言っている。ゲーリングはそれに対して、ドイツの工場が仕上げ前の砲を出荷するとは「ふざけた」ものだと答え、たとえ生産数が減少する事になったとしても完成した兵器のみを納入するよう命令した。Jeschonnekはこうした状態になった原因は陸軍の軍需局(Army Ordnance Office)にあると非難し、ゲーリングが高射砲生産計画の管理監督者をMilchとした決定を、好意的に評価した。
 会議における2番目の発言として、von Axthelmは交換用の砲身よりも、完成した高射砲を入手する方が容易ではないかと口をはさんだ。するとWeiseは、それは南部の高射砲を他の地域へと移送するというのかと尋ね、直ぐにゲーリングが「総統もそう決断するに違いない」と加わった。Jeschonnekは、東部と東プロシアにあるドイツ製の高射砲を鹵獲したロシアの兵器に置き換えてはどうかと提案した。Weiseはこの案について、ダンチヒとケーニスベルグへの空襲があるとして留保を表明した。そしてWeiseは、ドイツの南部と中部との間に「大きな高射砲の間隙」が存在しており、その間隙の大きさからベルリンを充分守れないと述べた。Weiseはまた、今こそ国民兵重高射砲中隊の出番であるとも主張している。ただ、このWeiseの主張は、またも懐疑的に見なければならない。前にも書いたように、国民兵重高射砲中隊は第7航空指揮区域で既に7月には登場している。それに加え、ベルリンの防衛が「不十分」であるとする彼の主張と、高射砲が足らないとする彼の全般的な評価とは、2つの動機から成り立っているようである。1つは、より多くの兵器をという彼の議論を補助しようとする試みであり、もう1つは、1941年11月以来ベルリンが空襲されていないにもかかわらず、ケルンと同規模の空襲がベルリンに対して行われた場合の逃げ道を用意しておこうとしていた、と見る事ができる。そしてKammhuberはベルリンの防衛を強化すべきとの要求を支持し、そして2人共に首都周辺の防衛力を増加する為に第4戦闘機師団の創設を主張した。
 高射砲に関する議論が一段落すると、Weiseとvon Axthelmは射撃用レーダーと連動する主導用探照灯(master searchlight)として、四連装(? quadruple)150cm探照灯の月当りの生産数を4から5基とするよう要求した。Martiniは、この要求によって航空情報隊のレーダー生産計画が混乱しない事をゲーリングに保証した。するとゲーリングは「これが(重高射砲)中隊の何の役に立つのかね?」と尋ねた。これは、戦争が始まって以来3年間もドイツ空軍の指揮を執っている男から為されるには、奇妙な質問である。Weiseはこれに対して、それぞれの中隊では高射砲と射撃用レーダーに加えて、射撃指揮装置、予備射撃指揮装置、そして光学測距儀を装備しているのですと答えた。Weiseはそれから、中央航空管区内には2,800門の重高射砲が配備されていると付け加えたが、すぐにゲーリングが「世界にこれだけの強力な高射砲を持つ国が他にあるだろうか!」と叫んだ。Weiseはそれに対して素早く、与えられた兵力では「あの小さなイギリス」を守るのが精一杯である、と物足りなさそうに言う事で、ゲーリングの期待を控え目なものに抑え込んだ。
 9月1日の会議からは、ドイツの防空の指導者によって示される幾つかの特色を見ることができる。まずゲーリングは、相変わらず自らの地上防空部隊に関する詳細な技術や戦術について無知である。次にvon Axthelmは、高射砲兵総監(the Inspector of the Flak Artillery)の地位でありながら、議論には滅多に加わらなかった。実際にvon Axthelmは、その後も同じ振る舞いを続けるのである。彼がけしかけたHalder少佐のミサイル開発に関する覚書のように、von Axthelmは(自分以外の)他の人々が防空関連の事項を主導する(?take the point in)事を許可していた。彼は、ゲーリングやMilchと真正面から渡り合う危険性を避け、傍から観察することに満足していたようである。そして最後に、Weiseはドイツ本土の防空指揮官だったが、より多くの兵員と装備が必要であると表明することによって、何度となく本土防空への期待を控え目なものにしようとしていた。
 この会議の雰囲気は、von Axthelmの開発計画の調子とは著しく対照的ではあったが、開発計画はまさに会議の行われたその日に承認された。実際のところ会議そのものは、高射砲部隊が兵員と装備の要求によって圧力や緊張を受けつつあったものの、こうした問題が、高射砲部隊の現在の能力を止めたり、大きく低下させる程のものでもなかった事を示していた。そしてこの会議そのものが、Harrisによるドイツ空軍の防空とドイツ市民に対する圧力の増大によって開催された事も、重要なのである。


爆撃機軍団の夏季作戦

 1942年の夏も、RAFはドイツ帝国への大規模な空襲を繰り返していた。Harrisと爆撃機軍団にとって多少とも残念なことに、ケルンに対する千機空襲は、その後の作戦の評価の基準となってしまったのである。夏の間、爆撃機軍団はブレーメンやハンブルグ、そしてルール渓谷の幾つかの目標に対して連続して空襲を行った。これらの空襲はそれぞれ数百機の爆撃機によって実施されたが、ケルンへの爆撃に迫る大規模のものは、Dusseldorfに対して行われた630機による7月31日の夜間空襲であった。爆撃機の数が多い事で爆弾と焼夷弾を集中する事に成功して950ヵ所で火災を発生させ、1,500の建物を破壊もしくは損傷させることができたが、しかし損害も大きく、特に訓練部隊では105機の内、11機が撃墜された。爆撃機軍団の努力の増大にもかかわらず、ヨーロッパ上空の戦いでは、再びドイツ空軍が上手を取っていた。ドイツにとって有利な状況を示すものの1つとして、その時期のゲッベルスの日記がある。ドイツの宣伝省であるゲッベルスは、1942年の夏には爆撃作戦の規模と効果が低減しつつあるとして、安堵を表明していた。実際にゲッベルスは、北アフリカとソビエト連邦での国防軍の戦果によって、夏にはドイツが勝利を収める事ができるという希望すら抱いていた。


夜間戦闘機の優勢

 8月にはドイツ空軍はケルンでのショックから立ち直り、RAFの爆撃機に対して再び優位に立ち始めていた。実際に爆撃機軍団の航空機の全体での損失率は、6月に4.1%だったものが7月には4.4%、そして8月には6.6%に上昇している。ドイツ空軍の成功は、主に夜間戦闘機部隊の能力向上に依っていた。7月31日に残っていた殆どの西部照空地帯が解散され、早春から開始されていたドイツ本土の都市防御の為の探照灯の引上げ作業が完了した。西部照空地帯が失われたにもかかわらず、Kammhuberの夜間戦闘機は、地上管制迎撃手法と機上レーダー(Lichtenstein)によって、夏にはかなりの成果を収めていた。機上レーダーは、追尾している航空機の距離、高さと水平方向の偏差を表示する3基のブラウン管(cathode ray tube)表示装置によって構成されており、操縦席に装備されていた。この機上迎撃レーダーは1941年8月には運用試験が行われていたにもかかわらず、1942年の中旬になるまで実用にならなかった。
 夜間戦闘機が成果を収めたのは、新しい機器や手法の導入以外にも、航空隊の規模の拡大という理由があった。1月に154機だった夜間戦闘機部隊は、12月には362機にまで増加し、乗員数も386人から741人と約2倍に増えていた。しかしある面においては、この夜間戦闘機の成功によってKammhuberは自身の部隊を過大評価するようになり、またドイツ空軍の指導者の間に油断(?sense of false security)を生じさせることになった。Adolf Gallandは戦後の回想録の中で、1941年から1945年の間のドイツ空軍の戦闘機部隊の指揮官について以下のように書いている:

夜間戦闘機の活躍によって、我々は時々、現在の手法での夜間戦闘の限界を忘れさせられた。1942年のドイツの夜間戦闘機の戦果は更に良くなり、またより長く続く可能性があった。我々の指揮官は敵に対して、従来の手法で積極的に対抗するのではなく、先を見越して計画した必要な防御手段を採る事を許してしまった。

Gallandの戦後の回想録は、多くの元国防軍将校の回想録のように批判的になりがちではあったが、しかしドイツ空軍の上級指導者、特にゲーリングが、それからの数年で航空戦が発展していく度合を見誤っていたという彼の意見は正しい。ある面で見れば、ドイツ空軍は自身の成功による犠牲者となったといえる。有利である内は、まだ見ぬ将来の航空戦に対する準備を行おうという気にはなかなかなれないものであるし、もしくは将来を見ようとすらしないものである。


高射砲の効果の評価

 ただ、ドイツ空軍が勝利によりかかっていたと告発するのは正確ではない。実際に、1942年に為された昼間と夜間の戦闘機部隊での規模の大幅な拡大は、ドイツの防空を強化する必要性の認識によってもたらされたものである。同様に、地上防空部隊の、特に高射砲と探照灯部隊の規模が拡大し続けていたのは、ヒトラーとドイツ空軍が、地上防空部隊の戦力を拡大し続けて行こうとしていたということを明確に示しているのである。地上防空の数倍にも上る拡大によって、高射砲の人材と機材とが逼迫していたのは間違いない。それにもかかわらず、1942年の2倍の拡張を目指した総統の1943年の高射砲計画に沿って、急速に高射砲部隊が拡大されていったのである。
 高射砲部隊の拡大に伴う主要な疑問(?question、問題?)は、その期間における部隊の効果に関するものである。表6.4はRAFの公式戦史による、1942年7月から12月までのヨーロッパ戦線での夜間空襲で撃墜されたRAFの航空機数を、戦闘機によるものと高射砲によるものとをまとめたものである。


表6.4
月/1942年 戦闘機 高射砲
7月 45 51
8月 48 36
9月 36 55
10月 12 24
11月 7 9
12月 21 18
合計 169 193


絶対敵な撃墜数から見ると、1942年後半においては、高射砲による撃墜数が戦闘機によるものよりも24機多い。更に、年末の3ヶ月間での低調な撃墜数は、ドイツの防空能力が低下したわけではなく、RAFの出撃数が大幅に減少した事による。実際に、月毎の爆撃機軍団の夜間出撃延べ数は、9月が3,489回、10月が2,198回、11月が,2067回、そして12月は1,758回である。出撃数が低下した原因は主に9月半ばから年末にかけての長期間の悪天候である。それに加えて、RAFは連合軍の北アフリカ上陸を援護する為に、10月末から11月にかけて、北イタリアを攻撃する為にかなりの数の航空機を移動していた。


戦闘機の為のレーダー

 RAFの損失から、1942年を通じてドイツの防衛上、高射砲部隊が重要な役割を果たしていた事がわかる。地上防空の拡大は戦争を継続するにあたって、特に人員の面で大きな重荷となっていた事は確かである。同じく1942年に夜間戦闘機部隊の規模が拡大されたことによって防空の効果は改善されたものの、悪天候の時期には夜間戦闘機は活躍できず、特に射撃用レーダーを装備した高射砲部隊の活躍が目立つようになる。1942年後半でのドイツの防御システムで達成された最も重要な進歩は、射撃用レーダーの機能向上に関するものであった。8月31日から9月18日の3週間だけで、ミュンヘン、アウグスブルグ、そしてシュタットガルトの3都市の周辺に、最新型の射撃用レーダー、FMG39T(D)型が18基も配備された。
 10月には、射撃用レーダーの能力向上にもかかわらず、ゲーリングはヒトラーに対して中央航空管区に「レーダーと通信機器を優先すべき」ことを表明した。しかしゲーリングのこの要求は、高射砲の支援用のレーダー装備への要求の拡大からではなく、むしろ戦闘機部隊の支援用レーダーに対して高まった苦情によるものであった。10月14日のゲーリングとMilchとの会談で、Martiniはより多くのレーダー装備、特に長距離「フレイヤ(Freya)」システムを懇願した。Martiniは、フレイヤ機器の注文が、高射砲部門側のウルツブルグ射撃用レーダーの要求によって妨害されていると不平を言った。それに対してゲーリングは、Martiniが1941年の時点で、Rudelと高射砲部門に通信部隊(signal corps)を好き勝手にさせた事を叱り、Martiniが戦争の早い段階で明確な要求を行わなかった事を非難した。Milchはまた、アルミニウム、鉄、そして銅の不足によって機器の製造に影響が出る事も指摘した。そしてゲーリングは、要求を補助してゆくものの、幾つもの違う機種の代わりに1つの特定の機種を製造することによって、機器製造の標準化を行うことを要求した。


連合爆撃機による攻撃へ向けて

 性能の増したレーダーは高射砲や探照灯の部隊にとって、主に夜間、もしくは日中でも曇天時のドイツの防御において、無くてはならないものになっていた。しかし1942年秋には、ドイツはRAFと誕生間もなくのアメリカ第8航空軍の爆撃部隊(第8爆撃軍団)による二面攻撃にさらされようとしていた。アメリカは1941年12月に参戦したものの、作戦に向けてイギリスの基地で行っていた乗員の組織化や訓練、そして装備の調達が、予想よりも長引いてしまった。1942年夏に第8航空軍が作戦状況を検討した結果、アメリカの爆撃部隊の指揮官であるIra Eaker大将(General)は、RAFによる初期の失敗にもかかわらず、昼間戦略爆撃を実行することを決定した。
 実際に爆撃機軍団は、1942年4月にドイツに対して昼間空襲を行おうとしていた。RAFの爆撃機が港湾施設を空襲する代わりにドイツ国内の目標を攻撃することで、大西洋の戦いで最大の支援を実行できることを証明する為、Harrisはアウグスブルグにある潜水艦のエンジン組立工場への攻撃を命令した。4月17日に12機のランカスターが離陸し、1,000マイル以上を低高度で飛行した。ドイツ空軍の戦闘機はフランス上空でこの内の4機を撃墜し、更にアウグスブルグ周辺の高射砲が3機を撃墜し、残りの5機に損傷を与えた。爆撃機部隊はこの作戦で58%にも上る大損害を被った。あるイギリスの歴史家は次のように述べている。「この空襲の主な教訓は、いずれにせよはっきりしている。1942年時点でのランカスターは、1939年から1940年でのブレンハイムやウェリントンと同様に、昼間にドイツ上空を大きな損害を受けることなく飛行する事は不可能であった、ということだ。」
 1942年の終わりまでは、ドイツ本土であろうと西部占領諸国であろうとも、低空での昼間作戦はかなり危険なものであった。あるO.R.S.の1942年11月の報告書によると、1941年7月1日から1942年10月17日までの間に行われた延べ403機による低空における作戦で、RAFは61機の航空機を失い、88機を損傷した。報告書での分析は、次のような結論を出している。「こうした低高度での作戦を実施する際には、目標に配備された軽高射砲が中でも断然に危険である。」実際に、撃墜原因の判明しているものの内の70%は、ドイツの軽高射砲が撃墜したものであった。USAAF(アメリカ陸軍航空隊)の爆撃機の航空戦への参加機数が増加して行く中で、彼らもヨーロッパ上空での低高度作戦の危険性を学んで行くことになるのである。
 Eaker大将と第8航空軍にとって、彼らの先輩たるRAFが失敗した戦場でB-17とB-24が活躍できるのかという問題が残っていた。折しも、7月4日にアメリカ軍の初の爆撃作戦が行われることになった。この作戦には、アングロ−アメリカ連合軍による6機のボストン軽爆撃機も参加し、各機毎にオランダ内の小型飛行場へ爆撃を行う事になっていた。このアメリカ人乗員による6機の内のたった2機だけが実際に目標を攻撃し、そしてドイツ軍の高射砲によって2機が撃墜され、3機目も酷く損傷させられてしまった。それに加えてイギリス軍部隊側も1機が高射砲によって撃墜された。第8航空軍の爆撃機による大陸上空での最初の空襲は、アメリカ側の昼間攻撃計画の不幸な幕開けとなってしまった。しかしUSAAFは低空爆撃が危険な計画であることを直ぐに理解し、中型爆撃機は高い高度を飛行するよう命令した。
 8月17日になって、Eakerと第8航空軍による2回目の空襲が行われた。RAFの戦闘機によって護衛された12機のB-17は、フランスのRouenにある操車場を23,000フィート上空から爆撃した。爆撃は成功し、しかも1機も失わなかった。これは戦闘機による護衛と、比較的高い高度からの爆撃とが、潜在的な成功原因となったようであった。空襲の後、Harrisは次のようなメッセージをEakerに対して送った。「ヨーロッパのドイツ占領地域において、アメリカ人だけによる初めての空襲が大成果を挙げた事に対して、爆撃機軍団の全ての階級から賞賛の言葉を贈らせてもらう。間抜けなヤンキーは確かに街に行って、別のふさわしい羽根飾りを帽子に差すことになったわけだ。(Yankee Doodle ...アメリカの愛国歌をもじったもので、こればかりは翻訳不可能。)」しかしHarrisの誇張とは逆に、Rouenに対する空襲だけでは、今後アメリカ軍の爆撃機がドイツ国内へ昼間に長駆突入し、厳重に防御された目標に対して無事に作戦を遂行可能かどうかは判断できなかった。
 8月17日から10月9日までの間に、第8航空軍は合計14回の作戦を、主にフランスの目標に対して実施した。最も規模の大きかった空襲はフランスのLilleの工業目標に対して108機の爆撃機で実施したものであった。しかし戦闘機による厳重な護衛にもかかわらず、たった69機しか目標に到達できなかった。アメリカ軍部隊はドイツ空軍戦闘機部隊の強力な反撃に遭い、3機のB-17と1機のB-24を失い、また46機の爆撃機が戦闘機の攻撃で損傷を受けた。爆撃の精度も散々なもので、588発の高性能爆弾が投下されたが、目標地点から半径1,500フィート以内に着弾したものは9発だけであった。
 第二次世界大戦のアメリカ陸軍航空隊の公式記録によると、こうした初期の攻撃によってアメリカの航空指揮官達は、爆撃機は「例え護衛戦闘機によるささやかな援護があったとしても、敵戦闘機の攻撃に対して進路を維持するのがやっとである」事を認識させられた。更に公式記録ではこうした初期の作戦で、航空部隊の指揮官達はドイツ軍の防空による危険を最小化しようと、「ドイツ軍が爆撃機に対して重大な脅威を与える暇がない(?直ぐに逃げた、ということか?)」ようにしていたと指摘している。AAFの指揮官に高射砲の脅威を軽視している人が何人か居たとしても、爆撃機の乗員の間にはそんな人は出なかった。例えば、後に第3飛行師団の指揮官となるCurtis Lemay大佐(あの東京大空襲のカーチス・ルメイ)は1942年秋にイギリスに赴任し、Frank Armstrong大佐に戦闘経験について質問をした。ルメイの質問に対して、Armstrongは「高射砲は本当に恐ろしい」事と、「等速直線飛行を10秒も続けたら、直ちに撃墜されてしまう」という2点を強調している。
 爆撃機の乗員が航空戦に対して、部隊の幕僚と違った認識を持つという事はあまりない話である。しかし、このアメリカの初期の空襲の結果について、ドイツ空軍と陸軍航空隊の指揮官は、全く反対の結論に至っているのである。まずゲーリングは、アメリカ軍の爆撃機の数が少なかった事から損害が比較的軽かったとして、ヒトラーに対して「防御目的としての昼間戦闘機の大幅な増量は必要ない」と約束している。同様に1942年10月20日に、Eakerは陸軍航空隊の司令官であるHenry "Hap" Arnold大将(Hapは愛称、Happyの略らしい)に対して手紙を書き、「B-17とB-24による昼間のドイツに対する空襲は、適しており、実用的で、経済的である」と言っている。このEakerの評価は、まだドイツ国内の目標を攻撃していない部隊の指揮官のものとしては、余りにも楽天的過ぎるようである。部隊がドイツ領内の目標を攻撃したのは1943年1月末になってからであり、それまでの1942年末の3ヶ月間は、悪天候と北アフリカでの連合軍の上陸作戦の支援要請の為に第8航空軍はヨーロッパ上空での作戦を相当に制限されていた。アフリカの海岸への上陸作戦によって、第8航空軍の航空機は第20航空軍へと転用された。同様に、ドイツの潜水艦が連合軍の侵略船団の脅威となる事を防ぐために、フランス沿岸のドイツ軍の潜水艦修理ドックの攻撃に集中する事となった。その為にアメリカ陸軍航空隊が戦争に参加したものの、1942年末まではドイツ方面に関してはほとんど何も変化は無かった。


1942年の総括

 1942年末のドイツ空軍の状況は、様々な面において嵐の前の静けさという感じであった。つまり1942年には、地上防空は上手く機能していたといえる。ドイツの防空の成功によって、爆撃機軍団の司令長官であるArthur Harris空軍大将(Air Marshal)は、「特に1942年の後半、我々の損害率は上昇の一途にあり、敵は相当な戦術的優位を得つつある」と嘆いている。レーダーに支援された高射砲の威力向上を認識していたものの、Harrisはドイツ空軍の成功の主な要因を夜間戦闘機部隊の増強であると見ていた。それに加えて、あるO.R.S.(作戦研究部)の報告書は、1942年(元は1941年とあるが、恐らく間違い)8月から12月の間のRAFの損害を分析して、「ドイツの目標での損害は、1942年を通じて増加する傾向にある。1年を通して、西部ドイツへの作戦では損害は出撃延べ機数の約1%、北部ドイツでは2%、南部ドイツでは3%、それぞれ増加している。」と結論付けている。そして報告書は、「帰還した航空機から高射砲に損害を与えられた、もしくは戦闘機によって攻撃もしくは損傷を受けたと報告される割合も、1年を通じて増加している」と指摘している。
 その年の終わりにゲーリングは、全ての前線において高射砲こそが防空システムの「主力」であると称賛した。確かに、地上防空はドイツ空軍の防空システムでの重要な要素であり続けていた。戦争が始まって以来の全戦線での撃墜申告数の合計は、8,707機にものぼっていた。同様に、ドイツ空軍の欺瞞や偽装は、RAFの夜間空襲に対して高い効果を保ち続けていた。それに加えて高射砲の砲数や防空機材の総量も、1年を通して劇的に増加していた。しかし高射砲部隊の増大はドイツ空軍によって両刃の剣となっており、各種の地上防空施設の増加のペースに対応する為に、質的に劣る男女を駆り出さざるを得なくなっていた。実際に、急速な空軍と国民軍の高射砲部隊の増強によって、防空帯に大きなひびが出来ていた。ドイツ空軍の立場からすると、民間からの男女の動員によって防空兵力の質と即応性とが下がっていた。それに加えて、夜間戦闘機部隊の拡大にもかかわらず、高射砲と探照灯とがドイツ防衛のための主要な集団であり続けていた。ただこの点においては、防空システムの殆どの部分は上手く機能していたといえる。RAFによるLubeckとケルンに対する空襲は、一時的にではあるが多くのドイツ市民に衝撃を与え、またヒトラーとナチスの指導者達を激怒させたが、モラルへの影響やナチス体制の弱化には、ほとんど効果が無かった。しかし1942年の終わりにドイツ空軍の指導者達は、翌年の作戦に対して充分な準備ができるかどうかという、重大な問題に直面していたのである。



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