日本陸軍の高射指揮装置
(AA Director of Japanese Army)





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2010.5.9 97式高射算定具の写真追加
2016.9.8 97式高射算定具の写真リンク追加



目次:

概説

11年式高射照準具
88式高射照準具
90式高射算定具
97式高射算定具
改修式90式高射算定具
2式高射算定具
2式高射射撃盤
4式高射算定具
5式高射算定具

参考文献





概説


日本陸軍による高射指揮装置の開発は、大正11年(1922年)制定の11年式算定具から、終戦直前の試製4式高射算定具までの約25年間しかなかったが、海外の製品を参考にしながら幾つもの機種を開発し、また対米戦開戦以後は大量生産向けの製品や、15cm高射砲用の高精度なものまで開発している。技術軽視と言われている陸軍にしては珍しいようにも思えるかもしれないが、陸軍そのものは決して竹やりでB29を落とせというような事は言っておらず、高射砲やレーダーの開発にも常に力を入れている。ただ、国土の立地条件から防空意識が殆ど無かった為に終戦2年前にしてようやく本格的な防空網の整備を始めた事と、その急速な整備に答えれるだけの充分な基礎技術や工業力が日本に存在しなかった事が、一方的に空襲を受ける状態を招いたのではないかと思う。



それはともかくとして、陸軍の開発した指揮装置の特徴だが、陸軍高射部隊のバイブルである「高射戦史」[1]では次のようにまとめている。

・機械的歯車式が主流でノモグラフィー(計算図表学)によって算定を行う
・電気的解明や電気製品の生産は苦手である


また「陸戦兵器総覧」[2]には、初期の指揮装置の開発の際に参考にしたと思われる各国の指揮装置の特長を簡単にまとめている。

・シュナイダー社(Schnider、仏):
世界における高射算定具の元祖

ビッカーズ社(Vickers、英):
種々の機構において後の算定具に多くの影響を与える

スペリー社(Sperry、米):
ギョルツ社(Goertz、もしくはGoert、独)の開発した分速度式計算機構を採用し発達させる。97式算定具の基礎となった。幾何学的に装置の中に位置を再現させる方式で計算を行う

文章だけを読んでいると何が何だか判らないが、といって計算ダイヤグラムを見ても余り判らないのは同じである。現在はU.S.Patent(Google Patentsで検索可能)で、シュナイダー社のはNo.1576367、ヴィッカーズ社のはNo.1811688もしくはNo.1831595、スペリー社のはNo.2378910などで見ることができる。便利な世の中になったものだが、もちろん英語でしかも特許書類なので図を眺めることくらいしかできない。日本のものも残っていればいいのだが、日本なので色々な意味で残っていなさそうである。


「陸戦兵器総覧」[2]の記事では、それに対して、

・日本の11年式や88式、90式は欧米のそれらとは全く形式の違った機構を採っている。計算の解き方も日本は独特
・88式海岸射撃具や試製電気算定具においては純電気的に電圧、電流、抵抗を用いて代数的に式を解くもので世界に類を見ない
・欧米が等高度と仮定して計算を行っているものの、日本では2式以降は高度の変化にも対応可能

と日本の独自性を主張するのだが、90式及び2式算定具に代表される曲線円筒を多用した計算機は、1926年にドイツのギョルツ社によって特許が出されており(No.1825659)別に珍しくもないどころか、この曲線円筒を用いると構造が簡単にできるもののその分だけ操作が煩雑になり、また自動化からは程遠くなってしまうためにシステム構築という面では余り威張れる部分ではない。また等高度の仮定を無くしたM4指揮装置が1939年に、電気式計算機も実用高性能なM9指揮装置が1942年に、それぞれ米軍に採用されており、これらも自慢にならない。
陸戦兵器総覧の記事を書いているのは兵器開発を行った担当者なのだが、戦後にあれだけ時間があったにも関わらず、自分達が開発した製品を相対化して評価できていないのは、日本的な悪い部分なのかもしれない。


話が大きくそれてしまったが、多少の独断と偏見による陸軍の指揮装置の流れは、以下のようになるのではないかと思われる。




簡単に流れを説明すると、日本陸軍初の本格的な指揮装置は90式高射算定具で、これは曲線円筒を多用したものだったが通信機能で故障が多発し、また新型の開発が始まっていたので生産を途中で打ち切る。しかし別途スペリー式を参考に開発していた97式高射算定具も機構が精巧すぎて量産に向かず、こちらも100台程で生産打ち切り。仕方なく90式に立ち戻り、故障の多かった箇所の修正や航速測定装置の追加、戦時生産用の変更を行って2式高射算定具を開発。2式はある程度成功し、この2式を基に15cm高射砲用の4式(試製)、更にそれを発展させた5式の開発が行われたものの、結局5式は完成せずに終戦。という感じだろうか。

自国の国力に見合わない技術を切り捨て、国情や戦況にあった方向へ製品開発を進めて行った見切りの良さは、技術史的には情けないことではあるものの、マネージメントとしては評価されるべきだと思う。






11年式高射観測具・高射照準具

陸軍初の高射砲用計算機で、11年式7.5cm高射砲と共に開発された。
詳細は不明で、「高射戦史」[1]の説明では、
「飛行機の発展とともに11年式7cm高射砲、14年式10cm高射砲の時代には照準具が砲に取り付けられるようになった。この機構は第35図(省略)のようなものであり、照準眼鏡(方向用と俯角用の2つ、筆者付加)で目標を追随すれば火砲は目標未来位置へ指向する。この原理は多田砲兵大尉の発案によるわが国独自のもので終戦までわが国算定具の源流をなしていた。11年式…等高度、直線飛行を仮定し、高低未来修正量は略近似を使用した。」
と書かれている。

高射砲の図面や写真を見ると、砲を操作する転把の脇に曲線円筒のようなものが付いており、予め目標のデータを曲線円筒等に設定しておいて、砲の左右にある上下と左右の照準器で目標を捕らえるように転把を回すと、見越角を含めた方向へ砲が指向するという物だったのではないかと思われる。
どちらにしろ高射砲それぞれで各々に修正を施すというもので、高射算定具の源流ではあっても指揮装置とはいえないものである。






88式高射照準具


88式高射照準具? 88式7cm高射砲の砲架部分、Japanese Field Artillery / Millitary Intelligence Division / War Department / U.S より


「高射戦史」[1]には、「仮定条件不変略近式よりやや正確な式に改良された」、とあるだけである。恐らくは11年式高射照準具と殆ど変らないものなのかもしれない。


1944年にアメリカでまとめられた日本軍の装備レポートでは[14]、恐らく88式高射照準具と思われるものの説明が成されているので、引用してみる。ただし図は省略している。

現代的な標準によれば、現在までに観察した日本軍の重対空火器用射撃管制装置は、88式(1928年)75mm高射砲に使用するための設計で、旧式化している。この火砲と一緒に使用される砲架から分離した射撃管制装置および計算機の機構は、次のとおりである。

(1)2メートル基線型測高・測距儀、この機器は、優れた光学的構造の模範であるが、回収した大半のサンプルには電気的情報伝達設備がなかった。これは目標の「現在高度」を火砲に提供する。

(2)目標速度・進路角計算器。この機器は三脚に取り付けて使用する。写真(略)には両開き望遠鏡が含まれていないが、この機器を操作するときは機器の頂上に取り付けられるに違いない。計算機は、現在位置における目標の進入角(進路角)および対地速度を提供する。

(3)修正目盛り盤。これは、その盤上で風向に対する修正角度、および装薬温度を機械的に読み取る金属製目盛盤である。

(4)対空監視双眼鏡。この双眼鏡は位置修正に使用され、倍率15×および4°の視界を持っている。

以上に示す各機器から得た情報は、「砲架上」で機器の操作に当る砲手のうちの決められた者に大声で伝えられる。この手順により、理論的に火砲は正確に目標に照準され、時限信管はそのように調定されているので、発射弾は標的上で炸裂する。「砲架上」の構成要素は、次のとおりである。
(a)高度計算器、(b)方位計算器、(c)補助高度およびリード(見越し角)修正円盤、(d)信管調定器


以上の記述を見るに、バラバラの観測機器で目標のデータを測定し、口頭で砲側に伝え、砲架に付属している計算機に設定を入力して射撃していたようである。






90式高射算定具


左:90式高射算定具、右:2式1型航速測定器(日本大空襲 / 月刊沖縄社 より)



大正15年2月25日に審査開始。昭和2年3月に日本光学で試作品が完成し、以後試験と改良を繰り返し、昭和10年5月に制式制定を上申した。[5]

90式の説明としては、日本光学の社史[3]が一番良くまとまっていて判りやすいので以下に引用する。
昭和3年の陸軍技術本部の注文により設計試作したもので、その構造は88式高射照準具の計算装置をまとめて1つの筐体に収め、三脚架上で旋回できるようにしたものである。測高機で目標高度を、航速航路角測定器で目標の航路角と航速とを測定し、これらを本機に調定すると共に、本器の照準眼鏡によって目標を追尾照準して、旋回角と俯仰角とを導入し、砲に与えられるべき発射諸元を計算する。計算された諸元はホイートストンブリッジの原理を応用した抵抗環装置によって火砲に伝達されるようになっていた。本算定具は野戦高射砲と共に使用されるので、大きさも重量も移動に便利なように設計された。
未来修正量の計算方法は対照準面基準、線速度方式といわれるものであって、主として曲線図筒を使って次式を解いた(式略)


日本陸軍初の本格的な高射砲用射撃指揮装置で、計算した射撃諸元を電線を介して火砲に直接伝達することができた。ただ、1つの配電盤に接続可能な火砲数が2門までとあり[5]、1個中隊6門編成でどのように配線を引いていたのか興味があるところである。

構造が簡単で精度も良好だったが、火砲とのデータ通信用に採用したホイーストンブリッジ方式に故障が多発してしまった為に、100台程で生産が終了してしまったらしい。[1]
実際、アジア歴史資料センターで資料を調べてみると、 昭和16年9月に出されたホイーストンブリッジ式並行誘導方式を電圧型式に変更するために88式7cm野戦高射砲と90式高射算定具の改造を指示する書類[9]や、昭和17年2月下旬までに陸軍技術本部に集めて配電盤とその付属品を改修する旨の書類[6]がある。

ただ、それにしては余りにあっさりと生産打ち切りが決定されてしまっているが、これはこの90式が制式制定された昭和10年(1935年)にはすでに米国のスペリー式を参考にした全く新しい97式の試作品が作られており、水面下で派閥争いでもあったのではないかと思われる。






97式高射算定具


左と中:97式高射算定具、右:接続箱(左:日本光学社史より、中と右:日本大空襲 / 月刊沖縄社 より)


97式高射算定具[18]


高射砲側のポインター(左右共に[18])




オーストラリア戦争記念館[19]所蔵のの97式高射算定具(4面+2枚の写真あり)



昭和8年12月28日に審査開始。昭和10年3月に日本光学で1つ目の試作品が完成し、以後試験と試作を繰り返して、昭和14年10月に制式制定を上申する。最大航速150m/s、最大火砲4門、操作要員8名[7]

簡単にまとめると、アメリカのスペリー社の算定具と原理構造共にほぼ同一のもので[2]、スペリー社式によるXYZ座標による分速度方式の研究試作を行い、平行誘導方式にビッカーズ社のステップモーター式を導入したものの、故障多発の上に生産性も悪く、需要に生産が間に合わなかった[1]そうである。

詳細な開発過程に関しては、日本光学の社史[3]と、日本の計算機開発の記録をまとめた「計算機屋かく戦えり」(アスキー刊)[4]に詳しいので、以下に引用する。


日本光学社史:

昭和8年、種々調査研究を重ねていた陸軍技術本部から、操作上および構造上精度のすぐれた新しい型の高射算定具を設計試作するよう指示を受けた。その為に従来のものとは全く異なった方法で、計算を純機械的機構によって行い、計算するにあたっては指針追尾方式を採用し、航速ならびに航路角を測定する機構をも含んだ装置となり、これを97式高射算定具と称し、試作2回の後に型式が定まった。
本装置は旋回架三脚上に載っていて、左側に高低照準眼鏡があり、目標の上下方向を照準し、右側に方向照準眼鏡があって目標の左右方向を照準し、本装置全体を旋回する。3mステレオ測高儀よりの高度を受信調定し、砲車位置と算定具位置との間隔を調停して、照準眼鏡で目標を追尾照準すれば、弾着未来位置の座標を計算し、これに砲の射表値、風による修正を加えて、発射諸元である射角、旋回角、信管分画を求め砲に通信する。
これらの計算を行うにはレゾルバー、乗算機構、摩擦盤、立体カム機構等の計算機構が13個、その他非常に多くの歯車類が使用され、総部品点数は約2万点に及んだ。計算精度を良くする為に自動追尾を採用し、また測高機よりの高度の伝達、砲への発射諸元の伝達にはDCステップモーターを使用し、取り扱いの簡便と伝達精度の確保がはかられた。
本算定具は陸軍野戦用として設計されたもので、その容積、重量に対しては非常な制約を受けたので、小型に作られた上に野戦高射砲と同時に行動できるように車載式となっていた。
計算式は、直角座標分速度方式(式略)



「計算機屋かく戦えり」:

「これは幅550mm、奥行き600mm、高さ525mmでした。高さは、三脚を含めると1565mmになります。重さは450kg。陸軍というのは、この寸法と重さを最初に指定してきて、開発陣に変更を許さないんですね。下に三脚を置くんで下のスペースが空くわけですから、ちょっと装置の背を高くするだけでも製造はぐんと楽になるはずでした。部品を組む際に手が入りやすくなりますからね。それで、製造にはだいぶ理不尽な苦労を強いられたのです」

「もう雲の上から下された決定という感じですから、現場は我慢して作るだけなんです。この算定具は3メートル測高機と組み合わせて使用され、13個の計算機を搭載していました。操作員は10名です。44年までに98台が製造されたんですが、4個の立体カムと3組の自動追尾装置などが製造困難なうえ、小さいスペースに計算装置を無理やり詰め込んでいたんで、非常に生産性の悪い装置だったようです」

開発に際しては、三次元の直角座標で表現される目標の未来位置を極座標に変換せねばならなかった。また、通常はハンドルのバランスを取るのは左右にハンドルを回すだけですむが、直角座標の象限は四象限あるため象限によってハンドル操作が複雑に変ってしまう。そこで自動追従装置を使い、座標の変わり目でオートマティックに操作を切り替える仕掛けが導入された。

立体カムは耐蝕性があって耐磨性の良い特殊鋳鉄でできていた。形状は、水平距離と高さの関数をそのまま形にした、さつまいものような形となっている。原理は簡単だったが、製造が非常に困難で、0.01mmレベルの細工技術が必要だった。最初はスライスで製造したというが、それではとても精度が出ず、いちいちダイヤルインジケーターを当てて削っていく方式に切り替えられたという。削るうちにどこかを少しでも深く削りすぎると、もう一回最初からやり直しになった。



元になったスペリー社の指揮装置(恐らく米陸軍のM4指揮装置)の資料によると、本家本元でも生産性がかなり悪く第二次世界大戦勃発とともに急速に高まる需要に応えることができず、ヴィッカーズ社の機関砲用の射撃装置(M5指揮装置)を急遽代用品として生産する事になったそうである。[15]


ともかく、鳴り物入りで始まった高性能な外国製品の模倣に失敗した事でかなり懲りたらしく、以後は日本式に立ち戻り、90式高射算定具の改良によって開発を続けて行く事になるのである。

「高射戦史」[1]では、外国製の模倣が妥当ではないという理由として、以下のようにまとめている。

(1)高射数学の算定はノモグラフィー(計算図表学)によって行われ、電気的解明になじめなかった
(2)学者技術者に祖国愛があり欧米式を受け入れ難かった
(3)欧米式算定具の生産にはわが国では不相応の技術が必要とされた
(4)使用部隊の電気的知識が薄かった
(5)高射部隊の拡張に97式算定具(欧米式)の生産が追いつかなかった

(2)の祖国愛云々は技術者としてどうかと思うが、国情に合わせた方針変更が為されたという事は、注目すべきことである。


生産は、日本光学で昭和19年までに98台製造した他[4]、日立製作所でも昭和18年に20台を製作している[16]。他の製造会社は未確認である。


また、この97式高射算定具は、陸海軍の協定によって海軍でも95式陸用高射装置として製造されている。大量生産できなくて急遽戦時生産用の陸用高射装置が開発されたのは陸軍と同様である。






改修式90式高射算定具


「高射戦史」[1]では、90式の平行誘導方式を改良したものとだけある。

前出の、昭和16年9月に出されたホイーストンブリッジ式並行誘導方式を電圧型式に変更するために88式7cm野戦高射砲と90式高射算定具の改造を指示する書類[9]や、昭和17年2月下旬までに陸軍技術本部に集めて配電盤とその付属品を改修する旨の書類[6]からも、90式が改造されていた事を裏付けているが、わざわざ「改修式90式高射算定具」と別名称を立てて区別するほどのものなのかと思わされてしまう。

それからややこしい事に、「2式2型高射算定具説明書」[11]の中に、
2式1型:90式の改修版
2式2型:1型の応急処置による不十分な点を新設計によって完全なものとしたもの
という説明が書かれており、この電圧型式に改造された90式の名称が、改修式90式だったのか、2式1型だったのかは、実際のところよくわからない。






2式高射算定具


「高射戦史」[1]には、修正式90式高射算定具に数学的能力の開発と適応性を加え(?)、航速、航路角の電気的測定装置を加えたもの。航速200m/s。と書かれている。

日本光学の社史[3]には、多少詳しく書かれているので引用してみる。
昭和18年、戦争の進展に伴い、量産を第一条件とした指揮装置が設計製作されるようになった。
この条件に従って官民共同設計により2式算定具を造り、終戦まで多数製作され、当社も設計に参加した。これは90式高射算定具を発展させたものであって、航速航路角測定機構を本器に組み込み、並行誘導装置に改善が加えられた。構造上は部品点数を減少して加工を容易にし、組み立てにあたっては極度に分業作業が出来るように量産向きのものであった。


また、横河電機の社史[10]にも、2式算定具の製造に関する記事が載っている。ただ、これが算定具本体も含めたものなのか、照準具やアプリケーションだけのものなのかは判らない。
大久保工場は東京の淀橋にあった伊勢丹の建物を陸軍の斡旋で借り受けたもので、高射照準具の専門工場となった。高射照準具というのは砲側に2式2型抵抗環、2式測合電計箱、2式接続箱を、測高機に対空双眼鏡、測高機配電盤、電続装置、計器類を組み合わせたもので、陸軍第一造兵廠の指令によって生産された。18年度の受注は100組、600門であった。


他に日立製作所でも製造されていたらしいが、製造数は不明である。[16]


それからややこしい事に、「2式2型高射算定具説明書」[11]の中に、
2式1型:90式の改修版
2式2型:1型の応急処置による不十分な点を新設計によって完全なものとしたもの
という説明が書かれており、正式には2式2型という呼称なのかもしれないが、まあ良く判らない。



2式高射算定具の機構ダイヤグラム、2式2型高射算定具説明書より

内部の機構だが、上記「2式2型高射算定具説明書」[11]の図を見ると、主に6個の曲線円筒と1個の簡単な3次元カムで構成された機械式計算機であり、航速測定器と航路測定器の部分等に可変抵抗器や摺動抵抗器などによる電気的な計算機構も組み込まれている。
また同じく「2式2型高射算定具説明書」[11]にある配置図を見ると、遠隔地にある大隊標定機(レーダー)の測定値を無線並行誘導装置を介して指揮用配電盤に接続されており、中隊標定機や中隊の測距儀と平行して使用することが可能だったようである。






2式高射射撃盤



日本大空襲 / 月刊沖縄社 より

「陸戦兵器総覧」[2]によると、2式高射算定具の製造が需要に追いつかず、その穴を埋める為に造られた予備算定具で、写真を見ると剥き出しの曲線円筒6個によるシンプルな計算機である。日本ビクターによって製造されたらしいが、社史では確認できなかった。






4式高射算定具


4式高射算定具、試製4式高射算定具覚書より



4式航速測定器、試製4式高射算定具覚書より



「高射戦史」[1]によると、15cm高射砲用に2式算定具を改良したもの。設計常数の合理化と計算範囲の拡張。航速航路角の電測を改めて光学に戻し、照準算定を分離し、測定機械と未来修正の計算部を別個にした、とある。
昭和20年8月1日の久我山陣地での対B29戦でその優秀さを示したが、終戦後にバラバラに分解されて隅田川に投棄されたらしい。勿体無い話である。



「試製4式高射算定具 覚書」[11]にまとめられていたので、この総論を引用しておく。


総論

1.本射撃具は大高度目標を射撃する大口径高射砲(15cm)の指揮装置として使用するのであるが、3個の弾道に関する曲線円筒を簡単に交換する事によって12cm高射砲その他にも使用することができる。

2.た号(測遠機)測高機何れをも使用可能であって、直距離使用の場合は高低角を用いて高度を求める。

3.高度、航速、航路角を基準とする(航速、航路角方式)。従って射撃法に関しては従来と何ら異なるところはない。

4.試製4式高射射撃具は
 ・試製4式高射算定具(略号T.G.)
 ・試製4式航速測定器(略号M.G.)
 ・試製4式並行誘導装置(略号U.G.)
より成る。従って照準分離方式であり、算定具は固定式である。

5.T.G.(高射算定具)
T.G.の原理は、2式算定具と同じく、90式流である。
2式算定具と原理的に異なる主な点は:
1)近似式を使用しない
2)高低時度(函数)のみを使用し、方向時度は使用しない
2式算定具と機構的に異なる主な点は:
1)操作及び製造を容易にするため設計常数を合理化する。
2)算定具諸元を発唱しないようにする。すなわち、
 i)航路角は目盛板を見て測合する
 ii)航速は方向高低系統を一緒に○定する。(注:○は漢字が読めなかった)
 iii)高低時度は従来の方向時度のごとく、円筒によって連続的に求める。(方向時度は使用しない)

6.M.G.(航速測定器)
M.G.は簡単にいうと、方眼板と大体同一原理である。即ち方眼板の座標を変換して水平距離と方向角を直交座標とするガラス円筒に鉛筆で水平航跡を描き、測秒器を使用して平均水平航速と航路角を求めるものである。
瞬間的に航速、航路角を求めるには自動追尾装置を使用しなければ正確な値は求められない。簡単な装置で正確な値を求めるには一般に測定秒時が長くなるのは当然である。
本測定機は90式航速測定機と大体同程度の測定時を要するが、遠距離においても測定可能にするため、た号との連動に重点を置き、また照準眼鏡として24倍の10cm対空双眼鏡を使用する。

7.U.G.(並行誘導装置)
M.G.とT.G.間には2式抵抗環を、T.G.と各火砲間には階動電動機を使用する。U.G.の概略を下図に示す(略)

8.主要算定限界
最大高度20000m
航速300m/s以下
他略

9.操作人員
M.G.5名、T.G.8名、計13名

備考:
1)照準分離方式にした最大の原因は、急速整備に応ずるごとく製造を分業化したためである。
2)その他種々の原因のあること
3)1つの算定具にすれば、操作人員は9〜10名になるが、分離方式の方が操作は確実に容易であること等に注意、本算定具の全ての点に関して急速整備の現実に対応するという事が設計の方針である。



5式高射算定具


「高射戦史」[1]によると、4式高射算定具は15cm高射砲用の応急的なもので、これに本格的に改良を加えたものが5式高射算定具だった。航跡基準の座標等を採用し、かつ再生追随方式を採用したものの、試作前に終戦になったらしい。
この説明だけでは何が何だか良く判らないが、資料が残っていないので仕方ない。









参考文献

[1] 「高射戦史」、下志津(高射学校)修親会
[2] 「陸戦兵器総覧」、日本兵器工業会/編
[3] 「日本光学社史」、日本光学
[4] 「計算機屋かく戦えり」、アスキー
[5] 「90式高射算定具仮制式制定の件」、アジア歴史資料センター
[6] 「90式高射算定具改修の件」、アジア歴史資料センター
[7] 「97式高射算定具制式制定の件」、アジア歴史資料センター
[8] 「97式高射算定具臨時修正に関する件」、アジア歴史資料センター
[9] 「88式7cm野戦高射砲及90式高射算定具現地修理実施の件」、アジア歴史資料センター
[10] 「横河電機社史」
[11] 「2式2型高射算定具説明書」、防衛省戦史資料室/蔵
[12] 「試製4式高射算定具 覚書」、防衛省戦史資料室/蔵
[13] 「LESSON 1 - HISTORY OF AIR DEFENSE AND EARLY WEAPON SYSTEMS」、http://www.globalsecurity.org/military/library/policy/army/accp/ad0699/index.html
[14] 「日本陸軍便覧」原題:Handbook on Japanese Military Forces、アメリカ陸軍省/編、光人社/刊
[15] Anti-Aircraft Fire Control and the Development of Integrated Svstems at Sperry, 1925-1940、 David A. Mindell、IEEE Control Systems、1995年4月号
[16] 「日立製作所社史」
[17] 「日本大空襲」、月刊沖縄社
[18] 「Photograhic Interpretation Handbook - United States Forces, Japanese Electronics 15 March, 1945」, Photographic Intelligence Center, Division of Naval Intelligence, Navy Department, 国会図書館憲政資料室、マイクロ番号:USB10 R64
[19] AUSTRALIAN WAR MEMORIAL https://www.awm.gov.au/








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