大向 防空高角砲台・聴測照射所
2006.4.28 探索失敗
2020.3.3 探索
2023.3.19 再探索
2023.6.18 聴測照射所の指揮所に関する記事を修正


赤色が探索ルート、オレンジ色が推定される旧軍道、緑色は2006年の探索ルート

 倉橋島の南西端、城岸鼻から岳浦山へと続く尾根上に、大向(おおこう)防空高角砲台の遺構がある。2006年に探索した際には道は無く、仕方なく別荘団地の裏手から登ったものの藪が酷くて撤退。その後、岳浦山への登山道が整備され、探索しやすくなった。
 尾根の標高170m付近に防空砲台関連の遺構が、標高230m付近には聴測照射所関連の遺構、そして尾根の東斜面の谷地に兵舎関連の遺構が存在する。防空砲台と聴測照射所は登山道の脇にあり探索がかなり楽であるが、兵舎は周囲が深い藪に埋もれてしまっている為、ハードな藪漕ぎが必要である。

 周囲が石切り場であるためか、施設の建築に石を豊富に使用している。それにより煉瓦や鉄筋コンクリートがあまり使われていなかったためか、戦後の破壊が少なく済んでいる。それから一般的に兵舎には大型のトイレが、砲台や聴測照射所にも小型のトイレが設置されているのだが、未だにトイレ跡を見つけられないままでいる。

 早朝に海岸沿いの車道を散歩していた地元の古老に話を伺ったところ、集落の奥の方に発電所があったらしいのだが、兵舎の敷地内にあったのか、もっと東下にあったのかは不明である。

 それから2006年の探索の際、団地に住んでいる人から、砲台跡に慰霊碑を建てる計画があるという話を伺っていた。しかしそれから20年近く経過しているものの、一向にそうした話は耳に入ってこない。




目次

 航空写真から見た大向防空高角砲台

施設:
 防空砲台
 何かの遺構
 聴測照射所
 兵舎
 弾薬庫?


 来歴
 参考文献・リンク

航空写真から見る大向防空高角砲台


米軍の航空写真(上:M2-6-1、右下:M2-6-2、国土地理院)

 終戦直後の米軍の航空写真(1947年頃)を見ると、防空砲台や聴測照射所やそれを結ぶ軍道といった尾根上にある物は比較的良く写っている。聴測照射所の東から南東斜面には施設らしきものやジグザグの道が写っているが、その多くは現在は藪に埋もれており、実際に施設があったかどうかは確認できていない。


 聴測照射所については、南端にある
聴音機掩体と、その北の管制器掩体の
石塁の円形がしっかりと写っているが、
北端の円形石塁については写っていない。
 聴音機掩体の南東と管制器掩体の東に
ある掘込み平坦地についても施設らしい
ものが写っているものの、建物の有無
迄はわからない。

 防空砲台関連施設も尾根上で写りやす
い場所にあるため、5ヶ所の円形窪地や
付属施設が明確に写っている。
 南東端の砲郭から南方向へと道らしき
ものが下っているが、軍道かどうかは
確認をとっていない。ただ軍道があった
としても、後述のようにその先は戦後の
開発で山の形が消えてしまってる為、
どこに降りていたのか、その先に何が
あったのかについては永久にわからなく
なっている。






米軍の航空写真(右上・上共に:M2-6-2、国土地理院)

 兵舎については山陰に入っているので、航空写真からは判別できない(黄色線で囲んだ範囲)。兵舎のある場所の東の尾根の上に白い長方形が写っているが、最初はこれが兵舎ではないかと思い、この場所を目指したのだが、この白い長方形は単に木が伐採された跡だったようで、掘り込み平坦地ではなかった。多少の遺構が残る採石場跡らしいaは、この白い長方形の北東下の谷となっており、同じくこの航空写真には影となり写っていない。
 防空砲台や聴測照射所から兵舎へと向かう道については、幾つか写っている。1本だけでなかった理由は、恐らく移動の際の登り降りを最小限にするためだったのではないかと思われる。
1975年の航空写真(CCG747-C55、国土地理院)

 1975年の航空写真を見ると、防空砲台の南下の斜面の殆どが開発で切り出されているのがわかる。南東下側は現在も残る別荘団地であるが、その上の幾つかの平坦地が何だったのかは判らない。北西上端の平坦地は現在の登山道が横切っているが、綺麗な水平面というわけでもない。
 真砂土の採取でこの一帯全て消える予定だったものが、何らかの理由で採取が中止され下側は別荘団地へと転用されたのか、もしくは上の方まで別荘団地にする予定だったものが半分の所までに縮小されてしまったのか、そうしたことなのだろうと思われる。

 何故ここで1ページを割いて防空砲台とは関係の無い1975年の開発の話をしたかについてだが、以下の3つの事を説明したかったからである:
(1)2006年に別荘団地の裏手から山を登った際に軍道だと思っていた道が、
   実はこの1975年の開発時に付けられた工事用の道であったこと
(2)弾薬庫らしいもののある採石場が、最近のものでなはない、古い時代のもの
   であること
(3)南東端の砲座から南に降りている道の先が跡形も無くなっていること
防空砲台



 標高170mの尾根を中心にして、防空砲台が築かれている。記録によると8㎝高角砲は最大で4門が装備されていたが、砲郭と思われる内径6mの円形窪地が、ABCDJの5ヶ所存在する。その内のABCJの4ヶ所では中央に基礎を掘り返した穴が開いており、更に砲員待機所らしい掘り込みが夫々備え付けられている(Aでは羊歯の藪で確認できなかったが、倉橋町史[4]によるとAの東に砲員待避所らしい遺構が残っている)ことから、このABCJの4ヶ所が8㎝高角砲の砲郭であると推測できる。更に砲郭として配置を見るに、最初はBとCの2ヶ所のみだったところに、後からAとJが追加されたと思われる。

 それでは円形窪地Dは何なのか?という疑問が残るのだが、1つの仮説として、元々はここに高角砲用の測距儀や高角双眼鏡等で構成される指揮所が置かれていたのだが、昭和19年3月に高角砲が撤去され聴測照射所となった際、ここよりも50mも高い場所にあった元々の聴測照射所から探照灯と聴音機を防空砲台跡に移設し、その際に新しい聴音機の置場として、元の場所と同じ内径6mの円形窪地をここに築き直したのてはないかと推測してみる(三脚式の90式聴音機なので基礎は必要ない)。この北隣にある円形窪地Eには中央部に基礎を掘り起こした跡が残っているのだが、2m測距儀は三脚で基礎を打つ必要が無いことから、ここには測距儀ではなく探照灯の管制器が移設されていた可能性も考えられる。指揮所も防空砲台のもの(H)を流用できる。その場合、探照灯はJに置かれたと思われるが、残念ながらこれらの推測を裏付ける明確な証拠はない。





左:砲郭Aの南下の石垣、右:砲郭Aの掩体内部


左:砲郭Aの南西側の石垣、右:砲郭Aの中央の基礎抜取り跡

 南西端にある砲郭Aは比較的良く残っているものの、藪に埋もれて全体の様子が分かりにくい。掩体の内径は約6mで、中央には基礎を抜取った穴が開いている。東側に出入口が開いており、倉橋町史[4]によるとAの東15mに3.3m x 1.6mの石造りの構造物が残っていると書かれており、形状等から砲員待機所かと思われる。砲側応急弾薬筐(砲側弾薬庫)らしい遺構は見つからなかった。


左:砲郭Bの掩体内部、右:砲郭Bの掩体の南側


左:砲郭B中央の基礎抜取り跡、右:砲郭Bの東にある砲員待機所らしい窪地


左:砲郭Bの北西下の石垣、右:砲郭Bの北西下のコンクリート塊

 砲郭Bも藪に埋もれていて様子が分かりにくい。掩体の内径は約6mで中央には基礎を抜取った穴が開いている。東側に出入口があり、その先に砲員待機所らいし窪地がある。ここも砲側応急弾薬筐らしい遺構は無かった。砲郭Bの北東下に1辺50㎝くらいの大きなコンクリート塊が落ちている。2面が平らになっているので基礎のコンクリートでは無さそうである。





左:砲郭Cの掩体内部、右:砲郭Cの掩体の南西側


左:砲郭Cの掩体の東側の石垣、右:砲郭C中央の基礎のボルトの跡

 南東にある砲郭Cは、登山道から外れていることから一番藪が深くなっている。掩体の内径は約6mで中央には基礎を抜取った穴が開いている。幅13~14㎝のボルト痕が残っているが、猿島の8㎝高角砲基礎のボルト間隔約14㎝とほぼ同じである。掩体の西側に砲員待機所のような窪地がある。また掩体の北側に砲側応急弾薬筐があったかのような痕跡があるものの、明確にはわからない。


左:砲郭Cの南下の石垣、右:砲郭Cの西にある砲員待機所らしい窪地


左:掩体D、右:掩体Dの南東側の石垣


左:地下壕Eの通気口?、右:地下壕E

 砲台施設の中央部に掩体Dがある。内径は約6mで、内側は石垣葺きで他の砲郭と同じであるが、出入口や中央の穴が無い。中央付近で鉄棒を立ててみたがコンクリート基礎が埋まっている感触はなかった。また穴の深さが他の砲郭よりも深い。仮に戦争末期に聴測照射所が下に移設されたとするならば、ここが聴音機掩体ではないかと推測しているが、裏付けになる明確な物証はない。
 登山道の西下に崩落した地下壕Fがある。倉橋町史[4]によると地下壕の寸法はW2.7xL3.8xH2.3mで直径40㎝の空気口があると書かれている。用途は不明だが、真上にある掩体Eの要員の待機所かもしれない。






左:掩体Eを西から、右:掩体Eを北から


左:掩体Eを東下から、右:方形窪地Gを北東から

 掩体Dと指揮所Hの間に掩体Eがある。内径は3m弱で、外も中も石垣で南西側に出入口がある。中央は基礎を抜取った穴が開いており、北東側が崩れている。装備から2m測距儀の掩体かと思われるが、2m測距儀は三脚式で基礎は不要であり、仮に戦争末期に聴測照射所が下に移設されたとするならば、ここに管制器が置かれていた可能性もある。


左:方形窪地Gの内部、右:指揮所Hの東側の石塁


左:指揮所Hの西側を南から、右:指揮所Hの東側を南から


左:指揮所Hのコンクリート基礎、右:指揮所Hの南側を北から

 掩体Eの南東の斜面に方形窪地Gがある。内寸は約2.5x3.5mで平石で丁寧に石垣が組まれている。用途は不明だが、南西上にある掩体Dの要員の待機所かもしれない。
 掩体Eの北下に指揮所らしい建物跡Hがある。東西7m南北10mの掘り込まれた場所になっており、北と東は石垣になっている。建物の基礎があり、北端には建物への入口の階段がある。スレートの波板の破片や電子部品の一部らしいもの、戦前のビール瓶等が落ちている。



左:指揮所Hの北西隅の石垣、右:指揮所Hの北端の石垣と階段





左:弾薬庫Iの東にある水槽、右:弾薬庫Iを南東上から

 指揮所Hの北の尾根の西斜面に弾薬庫Iがある。南北約20m、東西約7mで、三方が掘込まれた低い平坦地になっている。あちこちに屋根を葺いていたと思われるスレートの波板の破片が転がっている。建物の基礎は見当たらなかった。指揮所に近すぎるきらいがあるが弾薬庫かと思われる。ここが弾薬小出庫なのか主弾薬庫かについてもわからない。東上には石垣組モルタル塗りの水槽がある。防火用水だろうか。


左:弾薬庫Iを北から、右:弾薬庫Iに散乱するスレート波板


左:砲郭Jの南西側の出入口、右:砲郭Jの掩体内部


左:砲郭Jを北から、右:砲郭Jの北東にある砲員待機所らしい窪地

 防空砲台区域の北端には砲郭Jがある。登山道の一部となっており、砲郭の中では藪が最も薄い。内径は約6mで、中央には基礎を抜取った穴が開いている。北東下に砲員待機所らしい窪地がある。仮に戦争末期に聴測照射所が下に移設されていたとするなら、ここに探照灯が移設されたのではと思われるが、それらしい痕跡は残っていない。
何かの遺構?





左:聴測照射所と防空砲台の間の瓦礫がある場所K、右:穴?


左:散乱した瓦礫、右:瓦礫

 砲台と聴測照射所の間にある標高200mの尾根上に、瓦礫が散乱している場所Kがある。平坦地とは言えないものの、比較的なだらかな場所で、壁の残骸のようなものが幾つか転がっている。穴のような場所もあるが、明確ではない。位置からするとトイレのような気もするのだが、トイレとする明確な痕跡は無い。
 倉橋町史[4]によると、聴測照射所と砲台との中間部に水槽1があると書かれている。2回の探索で、この水槽を見つけられておらず、もしかすると町史に書かれている中間部の水槽がこの瓦礫か?と思ったものの、この町史の出版から20年、調査年がいつかは不明だが恐らくは30年程しか経過しておらず、その間に水槽が粉々に粉砕されてしまうということは無いだろう。
聴測照射所



 標高230mのなだらかな尾根上に聴測照射所の施設が築かれている。比較的良く残っているのだが、それらが何なのか非常にわかりづらい。
 配置や形状から考えて、南端にある円形窪地Lが聴音機の掩体である可能性が高い。そして北端にあるOもしくはPが、重量物を想定した重厚な造りからしても、探照灯の掩体である可能性が高い。ただOは石塁で掩体が造られているものの内径が約3mと110㎝探照灯を配置するには狭く、Pの方は約5m四方で広さはあるものの、基礎どころか平坦地が無く、代わりに石垣造りの溝がある丘があるだけである。もしかすると、Pの方が探照灯座であり、Oには管制器が置かれていたものの、探照灯に近すぎる上に探照灯との位置が悪かったことから、後にMへと移設されたのかもしれない。
 PとOの間から南に延びる掘込み平坦地Nは、探照灯用直流発電機や探照灯要員待機所等と思われる。
 LとOPの中間にある掩体Mは内径が約4mで、位置や形から管制器掩体である可能性が高い。またMの西縁には南北に走る石垣があり、その西側は南北に長い平坦地になっている。聴測照射所の指揮所があったとすれば、この辺ではないかと思われる。 ←Mが管制器掩体だとすると、ここに指揮所の建物があると邪魔である

 東側は、更に良くわからない遺構がある。Mの東下にあるQは、楕円に近い円形窪地の真ん中に土橋がかかっているという池としか表現できない形状をしている。そしてこのQの西縁に海軍標柱が建っている。境界方向は西と南で、特に西は敷地の範囲として間違っているとしか思えない。それともMとの間にもう1本標柱があったのだろうか。東端の掘込み窪地Rも何かの施設なのだろうが、平坦部は荒く基礎もなく、当然用途も不明である。登山道の脇からRの南下を通る溝は、ケーブル類を埋めていた跡だと思われる。






左:聴音機掩体Lの南西の石垣、右:聴音機掩体Lの内部を北から


左:聴音機掩体Lの東側、右:同左西側

 (恐らくは)聴音機の掩体Lは内径約6mで、内部は石やコンクリ片が散乱しているものの、基礎を掘り起こしたような痕跡はない。北東側4分の1が開いており、そこにL字の石垣がはまり込んだような形になっている。開戦後に造られた聴音機掩体のようにすり鉢型にはなっていないが、他に候補らしい場所もないのでここに比定しておく。聴音機の格納庫は無さそうである。聴音機掩体Lの南東下に平坦地があるが、聴音機要員の待機所かと思われる。


左:聴音機掩体Lを北西から、右:Lから北に続く石垣


左:管制器掩体Mを西から、右:管制器掩体Mを北西から


左:管制器掩体Mを東下から、右:Mの東下の平坦地

 Lから北に石垣が伸びており、その途中に(恐らくは)管制器掩体Mがある。内径約4mで北西に出入口と東西に細いスリットがある。中央に盛り上がった基礎が石垣で造られているがアンカーボルトは残っていない。東下に小さな平坦地があるが、管制器要員の待機所かと思われる。
 Mの西側は平坦地になっており、聴測照射所としての指揮所があったとすれば、この辺にあったのではと思われる。





左:窪地Nを北東上から、右:窪地Nを東上から


左:施設Pを南下から、右:窪地Nを西上から

 Mの北西には掘り込み平坦地Nがある。南北約8m、東西約4mで、東と北西に階段が設けられている。ここには探照灯の直流発電所や探照灯要員の待機所等があったのではないかと思われるが、建物等の基礎らしいものは見当たらなかった。


左:窪地Nへと降りる東側の階段、右:施設Pを東から


左:施設Pを北から、右手前に階段がある、右:施設P中央部の丘と石垣の溝


左:施設Oの東下の石垣補強部、右:施設Oの北東下の石垣補強部

 Nの西上に施設Pがある。約5m四方の大きさで、円形というにはいびつな形をしている。南面と東面が高石垣になっており、南西に補強用の石積みが飛び出している。Pは探照灯座の可能性が高いと思うのだが、中央部は良くわからない形をしており、少し盛り上がった所に石垣で造られた溝があるだけで、コンクリート基礎やアンカーボルトといった探照灯の基礎らしい明確な痕跡はない。





左:施設Oを北西から、右:同左


左:施設Oを西から、右:施設Oの内部

 Pの北東横には施設Oがある。円形の石塁で内径は約3m、北西と南東に出入口があるが、北西のそれは狭く通路ではないかもしれない。東下と北東下の2か所に補強用の石積みが飛び出している。石の使用量は砲台の中でここが一番多い。Pと同じくこちらもコンクリート基礎らしいものはない。110㎝探照灯用としては3mは少し狭く、管制器掩体であった可能性の方が高い(最初はここだったが、位置が悪いのでMへと移設された、とか)。
 北西下の登山道脇に小さな掘り込み平坦地があるが、用途は不明である。


左:池?Qを北から、右:池?Qを西から


左:平坦地R、右:平坦地Rの切岸


左:Rの南下の溝、右:聴音機掩体Lの南東下の平坦地

 Mの東には、池らしい円形窪地Qがある。内側は石垣で組まれており、中央に東西に橋らしいものがかかっている。陸海軍問わず、金魚でも飼っていたような池の遺構が見つかることが多い。これもその一つなのではないかと思われる。池?Qの西端に海軍標柱がある。標柱上部の境界方向は西と南である。
 更にその東には平坦地Rがある。1辺約6m程で、平坦部はあまり明瞭ではない。用途は不明。このRの南下にはケーブル溝が通っている。
兵舎


赤線は藪漕ぎの進入路

 兵舎施設は、航空写真では山影に入って写っておらず、航空写真で白い長方形らしきものが写っていた石切り場aの付近を目指して藪漕ぎをしている最中、偶然に見つけた形になった。最初は棚田かと思ったのだが、平坦地の真ん中に大きな水槽がある他、瓦礫が散乱していたこと、そして海軍標柱があったことで、ようやく兵舎施設だと識別できた。
 南西から北東へと下る谷地に6段の平坦地が石垣で作られている。南東端に通路となる緩やかな階段と排水溝が造られており、排水溝には3か所の小さな石橋が架けられている。通路は北東端で90度曲がり、門柱を抜けて、再び90度曲がって北東下へと降りて行っている。こちらが本来の麓からの軍道なのだろう。
 南西端の最上段の平坦地Sの真ん中に大きな水槽がある。この谷を流れる水を誘導してSの水槽に貯めていたのかと思ったものの、Sの水槽には水はほとんど貯まっておらず、また南東の排水溝にも水は流れていない。一方で北西端の平坦地Yの西上からは水が流れ出していることから、Y付近に堰を作って水を貯め(Yの西上にでも貯水池があったのか?)、そこからポンプでSにある水槽に水を送っていたのではないだろうか。
 平坦地Vにも水槽があるが、平坦地の真ん中にあることから天水桶ではなく、また構造からトイレでもなく、発電機の冷却水槽のような感じもするが、発電機の基礎らしいものも残っていない為、用途はわからない。
 敷地の北端に海軍標柱が2本残っているが、境界方向が互いに合っておらず、時代が異なるのか埋め替えられたのかはわからない。
 尾根を越えて東側のaにも石垣や少量の瓦礫が残っているが、軍の施設というよりも石切り場の跡のようである。





左:通路と排水溝、右:平坦地Sの排水溝と石橋


左:平坦地Sの水槽の南西側、右:水槽の北東側

 南西の最も高い位置にある平坦地Sには大型の水槽がある。計測はしていないが、約6x4m、深さは2mくらいある。南西面は直ぐ上に石垣があり、北東面はその先が直ぐに平坦地Tになっている。オーバーフロー用の小さな排水溝が通路脇の排水溝へと繋がっている。水槽の南東横には建物か何かの基礎らしいものがある。高さが低く、発電機やポンプの基礎のような感じはしなかった。


左:平坦地Sの水槽、右:水槽の南東脇の基礎らしいもの


左:水槽から出ている排水溝、右:通路脇の排水溝へ続く


左:平坦地Tから通路を、右:平坦地Tの石垣、この向こうにSの水槽

 平坦地Sの水槽は、縁の高さが地面から10㎝くらいしかない。上水用の水槽は雨水が入り込まないように地面からある程度の高さをとることから、上水用の水槽ではないかもしれない。平坦地Sの奥にも遺構は続いているようだったが、藪が酷くて探索していない。

 Sの北東下の平坦地Tは、何もない平坦地である。瓦礫類もほとんど無く、ぬかるんだ場所もあり、ここだけを見ると田んぼの跡のようである。

 







左:平坦地Uの石垣、右:平坦地U


左:平坦地V脇の通路と排水溝、右:平坦地Vの石垣

 平坦地Uも一見田んぼだが、ここには幾つかの瓦礫が散乱していた。
 平坦地Vは、真ん中に水槽がある。幅約2mで長さは4~5mくらい。北側の縁にオーバーフロー用の溝が切ってある。用途はわからないが、トイレの便槽ではないようだ。周辺には瓦礫が散乱している。




左:平坦地Vの水槽の南側、右:水槽の北側


左:平坦地Wの石垣、右:平坦地W


左:平坦地Xの石垣、右:平坦地X

 平坦地Wまで下ると平坦地も広くなり、兵舎感が出てくる。また瓦礫も多くなる。ただ粉々に砕かれた瓦礫ばかりで、建物の基礎のようなものは見つけられなかった。平坦地WからXへと下るスロープが付けられている。
 最下段にある平坦地Xは最も広い平坦地である。瓦礫の量も最も多い。また北西端には、この一帯で唯一の施設跡らしいモルタル遺構が残っているが、用途はわからない。片辺は綺麗な垂直面であり、水槽や浴槽等の箱物の残骸というわけではない。








左:平坦地Wから平坦地Xへと下るスロープ、右:平坦地Xの北側の石垣


左:平坦地Xの北にあるモルタル遺構、右:その北東下の水路と海軍標柱

 平坦地Xの北下と北西端に海軍標柱がある。番号の書き方が古いタイプであった。標柱上の境界方向は2つで食い違っており、標柱が建てられた時代が違うか、動かされたかしたのかもしれない。





左:水路脇の海軍標柱、右:平坦地Xの北東端にある海軍標柱


左:平坦地Y、右:平坦地Yの西面の石垣から流れる水


左:平坦地Xの南東下の通路と排水溝と石垣、右:排水溝にかかったアーチ状の石橋

 平坦地Xの更に北西に平坦地Yがある。西面の石垣から水が流れてきており、水路によって北東下へと誘導されている。石垣の向こうに貯水池でもあったのかもしれなかったが、2本の標柱の向こう側にあり、更に2m以上ある石垣を登るには体力と気力共に足らず、調べていない。
 平坦地Xの北東下には、門柱Zがある。2本1組なのだが、1本は倒壊している。ここでの道幅は1.5m程で、トラックが通れる道ではない。更に麓へと続いているようだったが、藪が酷くて、門柱の場所で引き返した。






左:平坦地Xの北東下の門柱Z、右:その片割れは倒れている


左:石切り場aの石垣、右:同左付近の瓦礫

 兵舎のある谷と尾根を挟んで東側に、石切り場らしい遺構aがある。明確な平坦地は無いが、あちこちに石垣が組まれている。また建物の一部ようなものや一般用でない特殊な陶器や磁器の破片も転がっている。またここからも麓へと下る道があるが、藪で進めなかった。


弾薬庫?





左:方形窪地bを北東上から、右:北西の土塁にある出入口


左:北西面の土塁、右:方形窪地bの内部、右が土塁

 現在の登山道の脇に弾薬庫のような遺構がある。長さ約15m、幅約8mの掘り込まれた平坦地で、北西と南西に出入口がある。この周辺は古い石切り場で、あちこちに石垣や平坦地、切り出された石がある。この方形窪地bの南東面の崖が岩であることから、この場所も以前は石切り場だったと思われる。しかし、ただ石を切るだけの為に方形に整形したり、土塁や切通のような出入口を設けたりすることはしないだろう。砲台を建設した際に石を切り出した跡を利用して、弾薬庫を造った可能性もあるのではないだろうか。
 


左:方形窪地bの底部、南西方向、右:南西にある切通しのような出入口


左:南東面の崖、右:北東面の崖

 問題があるとすれば、その位置である。この場所は砲台からの距離が200~300mで、主弾薬庫の条件を満たしているものの、兵舎のある東麓からの補給路とは真反対の位置にある。終戦直後の航空写真を見ても、今でこそ海岸沿いに車道ができているが当時はまともな道が無く、この場所へ弾薬を運び込むには、西の大向集落方面から細い斜面道を通るか、軍道の有る兵舎方面から砲台を経由してここまで降りてこなければならない。
 また、建物の基礎や建物に付属する天水桶のような遺構が全くないことも問題である。ただ、ここまで綺麗な弾薬庫地形も無いので、疑問符付きながら紹介しておく。

来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事
昭和12年9月4日 官房機密第3562号
昭和12年11月 竣工
昭和16年11月 防空砲台、第二砲台群(下士官5、兵14)
機密呉鎮守府命令第394号、大向、高烏山砲台8cm砲各1(付属兵器共)灰ヶ峰砲台に移動作業開始
准仕官以上2、下士官兵81、有線電話
8cm高角砲3門、ステレオ式2m測距儀1、110cm探照灯1
90式2型聴音機1、石油発動機1
准士官以上2、下士官8、兵66  
昭和16年12月 防空砲台  
昭和17年1月 防空砲台  
昭和17年2月 官房機密第1979号訓令に依り呉軍港防空砲台(大向、烏帽子、螺山、灰ヶ峰)変電所新営工事施工の件指令す(呉鎮)
官房機密第2216号訓令に依り大向、烏帽子、螺山及灰ヶ峰防空砲台電気施設増設の件指令す(呉鎮)  
昭和17年3月 将来砲台建設要望(?)
昭和17年4月 3年式40口径8cm高角砲3門、ステレオ式2m高角測距儀1
須式110cm探照灯1、90式2型聴音機1
89式高角射撃盤2型1
セミディーゼル発電機1
3号通常弾薬包改一900
89式高角尖鋭高射信管及2号撃発火管3型900
38式小銃6丁
配員 下士7(臨9)、兵15(臨31)分隊長のみ
昭和17年6月 探照灯用部外電力用変圧所新設中
昭和17年7月 探照灯用部外電力用変圧所新設中
昭和17年8月 8cm高角砲3、89式射撃盤1、110cm探照灯1、ス式2m測距儀1
観測鏡2、7倍双眼鏡2、6倍双眼鏡1
12cm高角双眼望遠鏡1、8cm高角双眼望遠鏡1
昭和17年9月 防空砲台第2砲台群  
昭和18年1月 防空砲台(第3砲台群)  
昭和18年6月 機密呉警備隊命令第41号(18.6.25)、警戒隊派遣、准士官1、下士官兵5  
昭和19年3月 官房艦機密第157号(19.1.14)「支那方面及内地防空砲台新設並に整備の件」訓令により8cm高角砲3門撤去
既設大向白木山高角砲台砲撤去照聴所として残置
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事(続き)
昭和19年6月 既設照聴所
昭和19年7月 既設照聴所
昭和19年8月 既設照聴所
昭和19年9月 既設照聴所
昭和19年10月 既設照聴所、110cm探照灯1
昭和19年11月 150cm探照灯1(?) 完備
昭和19年12月 150cm探照灯1(?)、空中聴測装置無し 完備
昭和20年1月 150cm探照灯1(?)、空中聴測装置無し 完備  
昭和20年2月 150cm探照灯1(?)、空中聴測装置無し 完備  
昭和20年8月31日 引渡:[3]
須式110cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
焼玉直流発電機110V三相27.5KVA付属品共 1基
建築物 兵舎1、其ノ他付属施設4