足摺岬西部 兵舎、発電所





全体配置図






左:兵舎周辺の全体図、右:兵舎周辺の米軍の航空写真(M274-76、国土地理院)




スカイライン沿いにある浄水場の南西、民宿高原の西側の一帯は、兵舎や発電所の跡である。戦後は新しく出来た足摺中学校がこの兵舎を間借りしており、中学校の記念写真の背後には兵舎の建物が幾つか写っている。
現在はその殆どが藪に埋もれ、水場もあることから猪の巣のようになっているので、探索する際には注意が必要である。




戦後の足摺中学校時代の写真、向かって右後がトイレ(D)、左後が元兵舎(F)か?


同上、撮影場所は不明だが、元兵舎の建物の様子が良くわかる

上2枚はいずれも地元の郷土史を調べておられるNさんが、当時中学校の教師として勤めてらした方からお借りしたものを、デジカメで撮影したもの





Nさんの調査によると、伊佐国民学校(後の足摺岬小学校)の学校日誌には、
・進駐して来た部隊については「足摺派遣陸軍部隊(清隊)」と記述されていたこと
・昭和19年3月25日に兵舎が落成したこと、また同年4月6日と8日に落成式用の幕とマイク、スピーカを貸したこと
・昭和19年10月に、小学生の勤労作業で港からレンガを900個運んだこと
が書かれているらしい。


また部隊名であるがNさんによれば、地元では一般に「岬隊」と呼ばれており、「清隊」とあるのはこの学校日誌のみである。この記事の後に部隊名が清隊から岬隊に変更になったか(注:岬隊は観音寺を本隊として足摺岬と室戸岬を含めた中部軍航空情報隊の部隊名として存在しているらしいが[1]、一方で高射戦史[2]の付図では昭和19年8月頃までは足摺岬は西部軍の管轄下となっており、西部軍の時の部隊名が「清隊」であった可能性もあるものの確たる資料が存在していない)、もしくは、清隊というのは建設部隊の名称で岬隊とは別ものではないか、とのことである。




元技師のMさんがNさんに宛てた手紙を見せていただいたが、明確な配置等は読めず、はっきりとした事はわからない。ただ兵舎が2棟に通信室、烹炊所などがあったようである。この辺りは、この縄張図をMさんに見ていただかなければならない。





部分一覧


兵舎、主要部
発電所等
南部
本土決戦部隊用兵舎?


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兵舎 主要部





左:東下にある民家の畑から主要部を見上げる、右:平坦地A、一面藪



左:D付近から北を、右:同左、右奥に上へ通じるスロープ



左:壁面Bにある東側の地下壕、右:同左内部



左:壁面Bにある西側の地下壕、右:同左内部



左:壁面Bの西端、西側から北へスロープ、右:壁面B






左:Bの文字付近から西を、奥にあるのが水槽C、右:水槽Cを北から



左:水槽Cの南側、水が溜まっている、右:水槽Cから北を、右奥が水槽E



左:水槽Eを南東から、右:水槽Eを西上から



左:平坦地Fを水槽Eから、右:水槽Eから南を、奥下にあるのが水槽C



左:平坦地F、中央付近に建つ最近の電柱、右:平坦地Fから平坦地Aを見下ろす






左:平坦地Fに落ちていた陸軍の食器、右:同左の裏



左:平坦地Fの東端から南に降りるスロープを、右:水槽Dの北にある石垣



左:水槽Dの北側、右:水槽Dの南側



左:水槽Jを南西から、右:水槽J付近に落ちていた碍子



左:平坦地Aの中央部、右:平坦地Aから西下の平坦地に下りる道



右:兵舎周辺の米軍の航空写真(M274-76、国土地理院)


兵舎の主要部は幅の広い尾根の上にあり、南北2段の広い平坦地で構成されている。

南側の平坦地Aは東西約20m、南北約30〜40mの平坦地で、北東隅と北西隅に北上の平坦地Fへ登るスロープが、また北西隅から発電所方向へ降りると思われる道Q(ただ途中繋がっているかは不明)、また西縁の中央付近には西下の平坦地へ下りる道がある。一面藪で、いまいち地形の把握が出来ておらず、平坦地Aの南下にある平坦地Kが本当にあったかどうかは多少とも自信がない。ただ、写真には撮っていなかったものの中央付近に電柱が1本建っていた。航空写真を見ると、この平坦地Aには東西に長い兵舎らしき建物が南北に2棟建っていたようである。

平坦地Aの北面には壁面Bがある。一部石垣になっているが、全面が石垣と言うわけではないようである。また壁面には東西2ヵ所の地下壕が掘られている。中には入っていないが、どちらとも奥行きは約5mで行き止まっている。
平坦地Aの北西隅のスロープの手前には、コンクリート製の水槽Cがある。形状からしてトイレかと思われるが、西下の平坦地の為の飲料水用水槽の可能性もある。水槽Cの北のスロープを登ると、コンクリート製水槽Eがある。南と西の2面が崩壊しており、また東面には丸い穴が開いている。浴槽か、もしくは下の平坦地用の飲料水用水槽かと思われる。
水槽Eの東は平坦地Fになっている。東西は約20m、南北は約10mで、中学校時代の古い写真を見るとここに兵舎が建っていたようである。航空写真を見ても、東西に長い兵舎らしい建物が建っている。またこの平坦地Fには陸軍の星のマークの入った食器が落ちていた。中学校時代にも食器を使い回していたのだろうか。
東側のスロープの東には、コンクリート製水槽Dがある。北側の水槽は落ち葉で埋まってしまい中の様子が分からないが、形状や大きさは水槽Cと同じかと思われる。また水槽の北には石垣がある。上記の中学校の写真には、この付近に小さな小屋が建っており、トイレではないかと思われる。
平坦地Aの南東の東下にもコンクリート製水槽Jがあある。形状、大きさ共にC、Dと似ており、位置からしてトイレのように思われる。またこの水槽J付近に碍子が落ちていたが、時代は不明である。


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発電所等





左:発電所Nの北側を西上斜面より、右:発電所Nの南側を西上斜面より



左:発電所Nの南端を西上斜面より、右:水路の出口Pを南から



左:発電所Nの西側にあるコンクリート基礎、右:同左の北側の基礎



左:更にその北の基礎、左上にレンガ構造物、右:発電機の基礎?



左:発電機の基礎?、右:Nの東側斜面にある地下壕






左:発電機基礎から北を、右:発電機基礎の西にあるレンガ構造物



左:レンガ構造物を南から、右:発電機基礎から南を



左:Nの西側の基礎を東から、右:同左の続き



左:Nの南東端にある水槽跡、右:同左アップ



Nから南の平坦地Lを望む



左:発電所上流にある水場、右:同左にあるコンクリート製水槽





谷筋にある平坦地Lの北端の高台に発電所跡Nがある。高台の西側には南北にコンクリート製の床が3枚並んでおり、北端にはレンガ製の構造物がある。床は厚さ15cm程で、南側の2枚は元々は途中まで溝が入っていたものが割れてしまったようである。北端のレンガ製構造物は南北2基あり、北側のものの上には円形の穴が開いているが煙突のもののようであり、このレンガ構造物で火を炊いていたのではないかと思われる。元技師のMさんの手紙には発電所の他に厨房や浴場もあったそうで、風呂の炊き場かかまどかと思われる。
レンガ構造物の東には、発電機のものらしきコンクリート基礎がある。L字型で何ヶ所かに方形の穴が開いている。発電機の基礎らしきものの東には、地下壕がある。L字型の基礎が発電機のものならば、油脂庫として使われていたものかもしれない。
高台の南東端には水槽らしきものがある。発電所付属のトイレか何かだろうか。
発電所跡Nの西には、水路Pが通っている。水路は平坦地Lに出ると無くなってしまうが、元々はPから平坦地Lの西端を通ってOまで南下してそこから石垣の西下へと続いていたかと思われる。しかし埋もれてしまったのかO-P間の水路は今では見当たらない。また水路Pを遡って行くと、谷の上流に水場がある。水場には2基のコンクリート製水槽があるが、これが当時のものかは不明である。




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南部





左:O付近を南西から、右:Oから平坦地Lの西端下の石垣を



左:平坦地Lの中央部、右:平坦地Lの東端の斜面



左:地下壕M、右:同左の内部



左:本来の登り道Rを東から、右:Rの東方向、工場がある




右:兵舎周辺の米軍の航空写真(M274-76、国土地理院)


平坦地Lの西端のOから、送信所2方向へ行く道が出ている。またOから南下へ水路が下っており、その東側にはかなり立派な石垣がある。
平坦地Lはかなり広い。戦後一時期だけこの兵舎跡を足摺中学校として利用していたのだが、そのまま中学校のまま使っても良かったのではないかと思われるくらい広い。航空写真を見ると、東下から道が南を回りこみ、平坦地Lの南西端付近に上がっているのが写っているのだが、藪が酷くて平坦地Lの南端がどうなっているかは確認していない。
平坦地Lの東端、平坦地Aの西下斜面には地下壕Mがある。幅は約3mでかなり大きい。元々は平坦地Aの下を東まで貫通していたらしいが、東側の出口は民家から出たゴミで埋められてしまっている。入って少し行くと左に折れており、崩落の恐れもあるのでそこまでしか確認できなかったが、話によると北に折れた後に再び東に折れて伸びており、その両脇に部屋が並んでいるそうである。

民家の畑の南端付近から、本来の登り道らしき道Rが平坦地L方向へ登っていっているが、こちらも途中から深い藪でどこに行き着いているのかは確認していない。


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本土決戦部隊用兵舎?





左:平坦地Gを南から、右:平坦地Gの東側を



左:平坦地Hと石垣、右:平坦地Hを北東から、手前にコンクリート製の何か



左:円形窪地I、右:同左の北東の平坦地



左:北上の平坦地から平坦地Gを見下ろす、右:同左付近から陥没した地下壕(西)を



左:陥没した地下壕(西)を南から、右:同左の最奥部






左:陥没した地下壕(東)を南から、右:同左の最奥部



左:地下壕(東)から西に折れた陥没部分を西から、右:一番最上段の窪地



左:平坦地Gの北斜面、右:平坦地Gの東部分



左:平坦地Gの東端から上水場を、右:平坦地Gの南側の窪地



左:平坦地Gの東側から中央方向を、右:平坦地Gの中央部にある瓦礫、左上には蛇口も





兵舎の主要部の北東側にも幾つかの平坦地があるが、地元の古老Yさんの話だと、この付近は警戒機陣地のものではなく、本土決戦用の部隊の三角兵舎が建っていた場所だそうである。

平坦地Fから一段上がったところに、平坦地GがL字型に広がっている。上がって直ぐ西には平坦地Hがあり、その東側は石垣で補強されている。またこの平坦地Hの北東端付近にはコンクリート製っぽい何かがあるが、水槽ではないようである。
L字型の角部の北西上には、直径1.5m程の円形窪地Iがある。見張用の蛸壺かなにかだろうか。Iから一帯は、段々の平坦地が幾つか有り、また所々で地下壕が陥没してできた窪地が幾つもある。
Gの北斜面には大きな地下壕が東西に2本あり、どちらも陥没している。東側のものは、途中で西に折れているらしく、窪地が西に延びている。更にその北上にも窪地があるが、地下壕の陥没後かは不明である。
平坦地Gの東端は大きく削られている。地元の古老Yさんによると、この東にある浄水場の工事の際に大きく削られてしまったが、昔はここから更に東に平坦地が延びていたらしい。全部で5棟くらい三角兵舎が建ち、その内の2棟分くらいが削られているらしい。また削られている部分には大きなトイレがあったそうだ。
平坦地Gの南には、地下壕の陥没跡らしき窪地がある。また平坦地Gの中央部付近には瓦礫が幾つも転がっている。瓶や鍋釜、壷、茶碗と生活感溢れるものばかりであり、しかも近くには水道の蛇口すらある。この蛇口の水道管がプラスティックであることから、ここには戦後に家が建っており、これらの瓦礫もその時のものと思われる。


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参考文献
[1] 「第二次大戦における日本の電探兵器による防空作戦の実態  〜澤木修一氏の聞き取りから〜」 http://www7a.biglobe.ne.jp/~noji/sawaki.html
[2] 「高射戦史」 下志津修親会


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