第4章 戦争初期での教訓 1939年-40年
1939年の初めまでに、第三帝国の歴史の中で最も壮大な建設計画の一つが形になり始めていた。スイスから北海までのドイツ国境に沿ってたコンクリート要塞壁の建設は、ヒトラー独自の「マジノ線的精神」を反映したものだったが、ヒトラーは防空の効果についても信用していた。西方防壁もしくは西方防空帯(Air Defence ZONE-WEST)は、フランスとイギリスの爆撃機を、要塞化した高射砲拠点と戦闘機の群れで破壊するという、ある種の空の防壁を作ろうとしたものである。空軍が関与する前にも、陸軍がドイツの西側国境線沿いに西方防壁と呼ばれる防御拠点の連結線の建設を開始していた。1938年6月に航空大臣のErhard Milch大将は、西方防壁による防衛と、統合された、高射砲、探照灯、そして聴音機の拠点を含んだ第二の要塞線の建設を含む「西方防空帯」の建設を指令した。防空帯は突破不能な壁の構成を意図したものではなく、むしろ敵の航空機を迂回もしくは高空へ回避させて分散させることを狙った「応接線(?reception line)」のようなものを想定していた。西方防壁の防空部隊は、ドイツ領内へ侵入しようとする敵航空部隊とまず交戦し、その後領内からの離脱を試みる際にもう一度交戦を行う事になる。西方防壁の防衛は、このようにドイツ領内の重要な都市と工業地帯を目標として侵入する敵航空機に、その往復の途上で戦闘を強制することによって防空を補助したのである。
空の防壁の建設
防空壁の建設の主要な重点は、当然に西側国境にあるルール渓谷の工業地帯に置かれていた。1937年10月22日に、空軍の参謀本部はルールの北と南を防御する命令を出した。そしてこの指令では、西方防空帯の完成期限を1939年10月1日としていた。ヒトラーがその瀬戸際外交でヨーロッパを戦争の危機に巻き込みながらもスデーテンランドを1938年10月には第三帝国に併合している事を考慮すると、指示された完成期限の日付は偶然ではない。1938年秋の時点でもヒトラーの野望はまだ満足からは程遠く、西方防壁沿いの陸軍と防空拠点が対仏・対英戦争計画でのドイツ軍部隊の出発点となっていた。同様に、ヒトラーがポーランドを最初に攻撃する決意した時にも、これらの要塞がドイツの背後を防御する堡塁となることで、ヒトラーは注意を東方に集中できたのである。
1939年2月に参謀本部将校のFreiherr von Hanstein大尉(Major)は、西方の陸上と空の防衛に関する資料を作成した。この中でHansteinは「西方防空帯そのものは、完全に空軍の所掌である」と主張している。彼は資料の中で、20mmと37mm機関砲による第一線と、重高射砲による第二線の、2本の防衛線によって構成する防衛を提案している。Hansteinは次のように見ていた。:
「西方防空帯の目的は、空の防壁を作る事である。これによって敵編隊を高度19,500フィートから26,000フィートに押し上げ、防空帯突破の際に時間を無駄にさせると共に燃料の消費量を増大させ、行動半径を小さく抑えるのである。更に飛行高度を上げさせることによって爆弾の搭載量に制限を与え、高高度を飛行させることで乗組員に極度な緊張を強いることが可能である。」
またHansteinは、西方防壁によってもたらされる追加の利益についてもふれている。:
「目標地点を爆撃する為に航空機は一度降下し、帰途には再び26,000フィートまで上昇しなければならない。しかも同じ空域には戦闘機も存在しており、そこで運悪く損害を受けるか、もしくは何らかの理由で安全な26,000フィートまで上昇不可能な航空機は、再びA.D.Z.(Air Defence ZONE、防空帯)の洗礼を受けることになるのである。その為、A.D.Z.が存在しているだけで、いや「A.D.Z.の存在」そのものが、結局のところ敵の空襲の利益にならないことを想像できるだろう。」
軍事計画者は、ルールの西の50km北の防空帯の最も薄い幅20kmの場所を、敵の爆撃機が通過するには5分が必要であると計算していた。そして同じく防空帯の建設計画では、各航空機が3個から5個の高射砲中隊と交戦可能なように高射砲拠点を配置するよう求めていた。その為に1939年の秋までに完成した拠点の総数は、重高射砲陣地が197か所、軽高射砲陣地が48か所で、建設費用は4億RM(1600万米ドル)にのぼった。この防空帯には788門の88mmもしくは105mm高射砲と、576門の20mmもしくは37mm高射機関砲が配備され、高度22,750フィート上空を飛行するどのような航空機に対しても、3個中隊が交戦可能となっていた。
事実上、西方防壁は、広い前線に沿って地上防空作戦を迎撃機と協調させるという統合防空網(integrated air defence network、IAD)を建設しようとした最初期の試みの一つであった。地上防空は、高射砲や探照灯、聴音機、そして阻塞気球といった防空設備の全体的な連続帯によって構成されており、そして航空情報隊(Air Reporting Service)からの適時な警報に大きく依存している。繰り替えすが、空軍は西方防壁を、空襲に対するドイツ防衛の為の独立したスタンドアロンシステムであるとは見ておらず、むしろ重点が置かれ過ぎている拠点防御の補助物であると見ていたのである。それに加えて西方防壁は、戦闘機と防空部隊とが協調するというドクトリン上の焦点も補強した。戦争前に書いたエッセイの中で、西方防空帯の司令部付参謀長のAlfred Schlemm大佐(Colonel)はこの点を「高射砲中隊の効果は、戦闘機や阻塞気球、そして探照灯によって補足される」という彼の見方で、正確に表している。
1939年3月1日に、ゲーリングは次のように豪語した。「1935年3月1日以来、私とその仲間は総統の意思を実行に移す為に、世界で最新の空軍を短時間で作り上げた。ドイツ空軍が、総統の創造的な政治的手腕の強力な道具の一つとなっている事を自慢に思う。この無敵の航空隊と、最新鋭で見事に訓練された高射砲兵への恐れが、外国の憎しみに満ちた戦争狂共の悪夢となっているのである」。ゲーリングの誇張癖は別にしても、ドイツ空軍と高射砲部隊は、1932年のささやかなスタートから劇的に進化していた。そして西方防空帯は、この改良作業の更なる段階の一つであり、ただの自己欺瞞の為の巨大建築物ではないのである。
戦後、Walther von Axthelm高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)は、「西方防空帯は想定したものとは合わなかった」と簡単に主張している。この時、西方防空帯は時間によって見方を変えなければならないことから、Axthelmの主張は幾分か誤解されやすい。例えば、1930年代のイギリスのドクトリンでは、爆撃は昼間に高度約10,000フィートで行うよう求められていたが、この高度では西方防空帯の高射砲部隊はかなり効果的に交戦可能か、もしくはその為に爆撃機軍団は高度を上げざるを得なくなるだろう。RAFは単純に高射砲による危険性を無視して10,000フィートという高度を選択しただけであり、高射砲地帯は航空機の速度なら素早く通過可能であるとみていた。皮肉にも、この思い込みはアメリカ陸軍航空隊にも共有されてしまっており、航空隊戦術学校教官のLawrence S. Kuter大尉(Captain)の「高射砲はうるさいだけで無視するに足るものだ」という主張にも見て取れる。RAFと陸軍航空隊が高射砲の効果を過小評価していたとすれば、ヒトラーとゲーリングも戦争までの数年間、高射砲の効果を過大評価していたと言える。しかし彼らは世界で最新の地上高射砲部隊を作る為に多大な努力を払った。極端に言えば、西方防壁は高射砲の効果への過大な期待と、急速に発達しつつあった航空機の可能性に対する過小評価によって作られたものであったが、といってこれによって作られた防空の基礎は、決して無根拠なものではなかった。
空軍委員会(Luftwaffe Commission)の設立
1939年2月1日、ゲーリングはRudel高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)を「空軍委員会の委員長」に任命した。この役職でRudelはゲーリングの直下となり、空軍に関する「特命事項」、特に高射砲と防空一般の評価を行う事になった。空軍委員長は基本的に、現在の防空部隊の能力の評価と装備や人員、ドクトリン、そして組織に関する事項への提言を行う総監大将(?Inspector General)であった。この役職が作られたのには大きく2つの理由がある。まず、1939年の空軍の組織構造の変更で、ドイツ本国が4個の「航空管区(Luftlotten、正式にはLuftkreise)」と、10個の「航空指揮区域(Luftgraukommandos)」とに分割されたことがある。指導将校(?pilot officer、空軍少尉?)は各航空管区とそれを取り囲む幾つかの航空指揮区域を指揮した。このシステムでは、航空管区以下の多くの組織にまたがる作戦の指揮をとるには、Rudelは将校としてあまりに上層にあり過ぎたが、しかしこうした航空管区の指揮を実際に執っていたのは、基本的に飛行将校(?flying officer、空軍中尉?)に限定されていた(??委員会創設の理由とは思えない)。2つ目として、空軍委員長の役職の創設とそこへのRudelの任命は、ゲーリングがドイツ地上防空に興味を持ち続けている事を表現したものであったことがあげられる。
第二次世界大戦の数か月前、空軍委員会は防空に関する幾つもの問題に取り組んだ。例えば、予備兵の配置と訓練手法に関する研究、光学測距儀と射撃指揮装置の操作に必要な人員の削減に関する手法の研究、レーダーや赤外線追尾システムの必要性の評価、トーチカや要塞に対する高射砲の利用の分析、といったことだった。そうした中でRudelが取り組んだ最も重要な仕事は、平時と戦時での防空部隊の組織構成の予想であった。1939年3月11日、空軍委員会は「高射砲兵の戦時並びに平時の組織」と題した報告書を作成した。この報告書では、前線の陸軍部隊が必要とする高射砲と、ドイツ本土防衛に必要な高射砲とに分けていた。委員会は、150個師団の陸軍部隊の作戦の支援の為に必要な部隊数を、重高射砲中隊220個、軽高射砲中隊205個、照空中隊30個と計算した。この時の装備数は、88mm高射砲が880門、37mm高射機関砲が675門、20mm機関砲が1,530門、探照灯が270基であった。同様にドイツ本土防衛に必要な数として、105mm高射砲中隊75個、88mm高射砲中隊650個、37mm高射機関砲中隊40個、20mm高射機関砲中隊700個、150cm照空中隊が200個と評価していた。この場合の装備数は、105mm高射砲が320門、88mm高射砲が2,800門、37mm高射機関砲が500門、20mm機関砲が9,000門、探照灯が1,900基であり、前線での作戦支援に要求されている規模の4倍を超していた。
表4.1は委員会の要求の合計と、1938年秋にまとめられた1939年4月1日現在の防空部隊の兵力予想との比較である。:
表4.1
品名
戦時での委員会の要求値
1938年における1939年4月の予想値
105mm/88mm砲
4,000
3,090
37mm機関砲
1,175
1,154
20mm機関砲
10,530
11,756
150cm/60cmSL
2,170(本土での60cmは含まず
3,404
射撃指揮装置
-
710
聴音機
-
1,821
委員会の計算は高射砲と探照灯とに厳密に制限されていたが、計画と見積もりとの間で大きな違いがあったのは重高射砲だけであった。1939年7月にヒトラーは、重高射砲の不足に対して88mm高射砲の生産増大と、重高射砲中隊の作戦に関連した全ての装備の生産の加速とを命令した。その結果、8月3日にゲーリングは重高射砲の生産数を月産150門にまで引き上げた。ヒトラーによる再びの干渉は、ドイツ地上防空の発展を重要視し続けていた事と同時に、高射砲に関連する事項に個人的関わりを持ち続けていた事を表している。
1939年9月1日までの高射砲部隊と照空部隊の合計兵力は、重高射砲中隊657個、軽高射砲中隊560個、照空中隊188個で、装備の合計は88mm高射砲と105mm高射砲が2,628門、20mmと37mm機関砲が6,700門、150cm探照灯が1,692基、60cm探照灯が2,052基であった。防空部隊には、この他にも鉄道高射砲大隊が3個に阻塞気球大隊が3個、そしてドイツの沿岸部の重要な港を防備する海軍の高射砲大隊が7個存在していた。ドイツ空軍は前年に計画した兵力を揃える事には失敗していたが、それでも部隊の規模はかなりなものになっていた。この主張を補強する為に他の主要国と比較してみると、例えば戦争勃発時のイギリスのADGBの防空部隊は、おおよそ1,296門の重高射砲と、各種取りまとめて約1,200門の軽高射砲、そして2,500基を超える探照灯によって構成されていた。イギリスの高射砲部隊の主要な歴史研究家の一人は次のように書いている。:
「1939年におけるADGBの戦争に対する配置は、戦闘に合った兵力にすぐに変更できるようなものではなかった。そしてそれまでの急速な拡大努力と、それに対する装備の不足とはかなり大きなものであった。新しく編成された連隊の多くが、基本的な砲や機器の訓練を習っただけのものであり、戦術的手続きや、速やかな報告システム、戦争状態での人員配置、敵機の認識や実戦的な正式な部隊移動といった実戦的経験は、全く無い状態であった。」
同様にアメリカ陸軍の高射砲部隊も、イギリスの後に続いているような状態であった。1930年代に高射砲や探照灯による防御を取り入れた演習や訓練を何度も行っていたが、平時支出による財政制限の為に高射砲と装備の購入はほぼ最低限にしか行われていなかった。更に、George C. marshall大将のような陸軍の指導者は防空の価値を見出していたものの、このようなシステムに高いコストがかかることを重視し、それならばそのコストを使って陸軍の地上部隊を増強した方が良いと主張していた。最後に、1939年9月のフランスの防空部隊だが、フランス陸軍が管理していた防空部隊は、色々な種類の1,261門の高射砲と約1,800門の機関銃で構成されていた。
市民防空の手段
1939年においてドイツ空軍は世界で最新の防空ネットワークを持っていたが、同時にドイツの民間防空システムも世界一のものであった。民間防空の主な目的は、空襲による死者数の抑制と、都市や工場地帯での破壊の最小化である。1933年から1939年までの間に、ナチス政府は市民防空の分野で多大な努力を払っていた。帝国防空協会(Reichsluftschutzbund)は各種の受動的防空活動の指導を行う主要な組織であった。協会は「Die Sirene(サイレン)」という名前の隔月の雑誌を出版し続け、またドイツ中で展示会やエッセイコンテストを主催した。1938年の終わりには、会費を支払っていた協会員の数は1,300万人の男女に上っており、さらにその内の63万人は協会の運営役員だった。運営役員の多くは家や町内の管理人の役目を担当しており、灯火管制規則が家やアパートで守られているか、方々に積まれた消火砂などの義務化された消火装備が全ての建物に備わっているか、といった事を確認する義務を負っていた。1940年の7月には、協会員の数は1,600万人となり、5人の市民の内の約1人が協会員という計算になっていた。
この論文では詳しくは触れないが、市民防空の準備を多少でも調査することは2つの理由から重要である。まず第1に、受動的防空手段の堅固なシステム構築があった事は、ドイツの政治と軍事の上級指導者が、第三帝国内に爆撃機が飛来しないと考えていたという主張が間違っている事を示しているからである。政府は明確に市民防衛の重要性を認識しており、また空襲からドイツ市民を守る為の強固な手段を実行に移していた。そして第2に、市民防空システムが都市と工業地帯の両方への爆撃の与える衝撃を緩和ことによって、能動的防空の効果を増大させるからである。
戦争の開始と高射砲
戦争の勃発と共にドイツの能動的・受動的防空ネットワークは、戦闘という厳しい試験に曝されることになった。政治指導者や軍事指導者は、ドイツの防空ネットワークに対して特に高い期待を持っていたのは確かであった。ヒトラーとゲーリングの場合には、高射砲に対する期待は相当に高いもので、本土防空の第一の責任を担うものという認識であった。戦争の第1日目、ゲーリングは高射砲部隊に対する日課命令(?daily order)の中で、「君たちの砲身から発射される砲弾1つ1つが、妻の、母の、そして子供の命と、ドイツ人全体の安全とを保証することになるのだ」と叫んでいる。同様にRudelも1938年に「高射砲は将来の航空戦の中で決定的な要素となるだろう」と楽観的な予言をしている。(?ゲーリングのそれは)誇張され芝居がかった宣言であったものの、RudelとAlbert Kesselring大将(後に陸軍元帥(?Field Marshall))らの他の空軍指導者達は、高射砲と戦闘機とが同じコインの表裏の関係であり、本質的に分離不可能なものであることは認識していた。ドイツ空軍の指導者達が、防空の中で地上防空が最も活躍することを期待していたのは明白な事であるが、しかし戦争の終わりには、この点において認識と現実とが分離していることが判明する事になるのである。
1939年の秋には、ドイツ空軍は防空ネットワークの初期結果についての評価を始めることができるようになった。1939年10月12日、Rudelは空軍参謀本部(Luftwaffe general staff)に提出する夜間防空についての報告書をまとめている。この報告書を見ると、Rudelが航空兵器の方向性を正しく理解している上に、防空に対して公平なアプローチをとっている事がわかる。彼は次の見ていた:
「防空(戦闘機と高射砲)は日中はとても強力である。現在の所は、ドイツの戦闘機と攻撃機は明らかにイギリスとフランスの爆撃機よりも速度と武装の面で優れている。その為、イギリスとフランスは、ドイツの奥深くを目標とした夜間空襲を好むようになるだろう。」
そしてRudelは、夜間戦闘機も高射砲も、暗闇の中での作戦遂行は可能だと説明するが、しかし双方を同時に使用する際には「注意深い準備」が必要であり、そしてある条件下のみで利用可能であるとしている。Rudelはまた、夜間作戦で高射砲もしくは戦闘機部隊と連携させることによる探照灯の重要な役割についても述べている。そして彼は、高射砲は探照灯に「依存」しているとまで言っている。
それはさておき(?In a telling aside)、Rudelは「現在最も能力の高い夜間作戦用の防空設備は、日中の最適な兵器が戦闘機だと考えられているのと同様に、夜間戦闘機である事は明白である」と主張している。ただし、日中に戦闘機が最適である条件は「戦闘機を適時適所に十分な数を揃えられる時」のみであり、しかも「攻撃してくる航空機の速度が増し、武装が改良され、弱点が少なくなれば、この関係は変化し得るものである」とも警告ししている。最後にRudelは「防空は整然とし過ぎたり、厳密過ぎてはならず、利用可能な手法を、与えられた状態に合わせて、単独でもしくは他と同時に、そして柔軟に敏感に運用して行かなければならない」とまとめている。Rudelの報告書は、航空戦の発達の状況と、その行き先とを明確に掴んでいた。そして彼のこの主張は、ドイツの最高の階級で最も影響力を持った高射砲将校は、自らの兵科において不変の信念を持っているという観念を、明確に打ち砕いたのである。
Rudelの報告書はまた、別の面でも重要であった。少なくとも1936年にはその必要性について議論されていたにもかかわらず、戦争の初めにおいてもドイツ空軍は専用の夜間戦闘機部隊を持っていなかった。戦争開始からしばらく経って、夜間戦闘機部隊としてBf-109戦闘機で2個飛行中隊を編成し、Bonn-HangelarとHeilbronnに配置した。ゲーリングは始めの内、2つの理由から夜間戦闘機部隊の創設に反対していた。その1つは、夜間空襲には、探照灯と聴音機を併用した高射砲部隊によって対抗可能であると強く信じていたことがあげられる。2つ目に、彼自身の第一次世界大戦中での経験からによるものであり、ドイツ軍戦闘機が夜間戦闘を開始したのは戦争も終盤になってからで、恐らくこの事が彼の夜間戦闘機部隊についての考え方に影響を与えていたようである。結局、1940年6月のフランス戦での勝利の後になって、ようやくゲーリングは2個飛行団(wings、Gruppen、ドイツの飛行部隊の編成はややこしく、Staffelが作戦運用の基本単位で9機で編成されており、米英におけるSquadron、飛行隊に相当する。Gruppeは3つのStaffelで構成されており、アメリカのGroup、飛行群に相当する。そしてGeschwaderは普通3つのGruppenで構成され、アメリカのWing、飛行団に相当している)の、専門の夜間戦闘機部隊の編成を命令した。不足物も多かったが、これによって戦争の初期に訓練された夜間戦闘機部隊が事実上(ipso facto)、地上防空部隊の援護という形ではあるが、夜間戦闘の任務を負うことになった。
ドイツにおいて進化する航空戦の評価に加えて、ポーランド作戦(9月1日から10月6日)からの教訓に関する研究が空軍によって始められた。第一次世界大戦以来、高射砲部隊のドクトリンは、地上の陸軍部隊の防御に大きな比重が置かれてきた。この前提は、高射砲部隊が1935年4月に空軍の指揮下に移された後も変わることなく、むしろ国防軍の基本部隊から空軍の防空部隊に、この任務が移されただけであった。ポーランド戦で、空軍は高射砲部隊を各軍(?numbered armies、A.O.K.)に所属させていたが、これはドイツ陸軍の最も高い組織階層であった。作戦があまりに早く推移してしまった事と、実際には高射砲部隊がはるか後方に配置されがちであった事から、高射砲部隊は前線もしくは高射砲部隊を必要とした地域において利用できないことが多かった。
5週間の作戦期間中、混成高射砲大隊20個と軽高射砲大隊9個が陸軍部隊と行動を共にし、39機を撃墜した。一見この成果は平凡だが、ポーランド軍の航空部隊の全ての作戦機数が約500機だったことを考慮すると、この撃墜数はより印象的になる。更に忘れてはならないのが、ドイツ空軍はポーランド軍の航空機のほとんどを、侵攻の初めの1、2週間に飛行場で破壊していることである。このような事もあり、ポーランド軍航空部隊を速やかに破壊した事によって、ドイツ空軍は既に9月半ばには戦闘機部隊の引上げを開始している。ポーランド航空部隊の規模が小さかった事と、戦争初期におけるドイツ軍の成功によって、高射砲部隊の行動は逆に制限されてしまう事になった。しかし、高射砲部隊にとっては別の任務もあり、再び地上作戦によってそれを知らしめることになる。作戦中、高射砲部隊は幾つもの場面で直接地上戦闘に参加し、スペインでの先例を一新していった。
ポーランド戦における高射砲部隊の役割の分析から、Rudelはより効率を上げるために3つの提案を行った。1つ目に、Rudelは高射砲部隊の指揮の中心と部隊の所属とを軍レベルから下の階層に下げ、前線により近付ける必要があるということであった。2つ目に、彼は空の状況が許す限りにおいて、直接地上戦闘の支援に効率的に高射砲部隊を利用すべきであると強調した。そして最後に彼は、将来の敵航空部隊戦力の増大に見合うように、混成大隊の砲の数を増加すべきであるとしている。ポーランド戦での経験からゲーリングによってなされた一つの具体的な対策として、1939年10月に2個の高射砲軍団(Corp)の創設がある。高射砲軍団の創設によって陸軍作戦の支援をより円滑に行う事が可能になったが、一方で、防空から地上戦闘、そして果ては沿岸砲陣地に至るまでの様々な役割に、高射砲をより柔軟に運用することも可能となったのである。
奇妙な戦争(Phony War)
ポーランドにおける防空部隊の戦果は、ドイツ高射砲部隊の効果を評価する基本的枠組の一部分しか提供してくれなかった。実際にドイツの空における高射砲部隊の初めての大規模なテストは、フランスとイギリスによる空襲であった。英国王立空軍(RAF)が対ドイツ作戦を開始したのは直ぐであった。1939年9月4日、14機のウェリントン爆撃機と15機のブレンハイム爆撃機がBrunsbuttelとWilhelmshaven近郊に停泊していたドイツ艦艇の昼間空襲を遂行する為に離陸した。目標に対して爆撃機は低空の単独攻撃を行い、そして予想通りの結果となった。重高射砲の射撃を受け、5機のブレンハイムとウェリントンが撃墜されたが、ドイツ艦艇に対して微々たる損害しか与えることができなかったのである。この結果は爆撃機軍団にとっては、幸先の良い始まりと言えるようなものではなかった。
ドイツ船舶を空襲した初期のRAFとは対照的に、フランスの航空部隊は夜間偵察飛行と何百万枚物ビラを撒くなどのプロパガンダ作戦のみを行っていた。夜間飛行は、ドイツ軍の位置に正確にたどり着く為の最適な条件とは成り得なかったものの、実際にフランスは最新の航空機、特に長距離爆撃機、それどころか中距離爆撃機ですら不足し、苦しんでいた。11月の終わりまでに、フランスの航空部隊は700回の偵察飛行と300回の観測作戦を行い、その過程で25機を失っていた。ドイツ上空で制空権を確立できなかったことから、フランスの航空部隊はドイツ国境から20km以内の範囲に飛行を制限することになった。最終的には、攻撃的作戦を行うのに十分な航空機を確保できずフランス航空部隊は守勢に回らざるを得なくなり、将来の戦いに備えてパイロットと航空機を温存する決定を行ったが、しかしそれも1940年の5月から6月に、航空部隊の壊滅の時期を延期しただけに終わった。
RAFによるドイツに対する航空攻撃の公式記録によると、1939年12月に行われた3度の交戦が、後のRAFの戦略を形作る事になったとある。12月3日の朝、24機のウェリントンはHelgoland付近のドイツ船舶を攻撃した。RAFの爆撃機は戦闘機と高射砲による攻撃を受け、2機が高射砲によって損害を被ったものの24機全機がイギリスに帰還した。12月14日には12機のウェリントンがSchilling Roadsのドイツ船舶を目標とした強行偵察(armed patrol)を行った。悪天候のために時には200フィート足らずの低空飛行を余儀なくされた。編隊は高射砲と戦闘機による協調攻撃を受け、5機を失った。RAFはこの損失は戦闘機によるものではなく高射砲によるものとし、今後目標を攻撃する際には10000フィート以上の高度を取るよう指令を出した。12月18日の最後の攻撃では、24機のウェリントンがドイツ沿岸の船舶を目標とした攻撃に向かった。しかしドイツの高射砲によって爆撃機は高度13000フィート以上に押し上げられ編隊が緩み、そこを戦闘機によって攻撃され、作戦を断念せざるをえなくなった。RAFはこの空襲で12機の爆撃機を失ったが、正確にはその殆どはドイツ軍戦闘機によるものであった。
この12月の結果は、RAFが持っていた爆撃機の大編隊による昼間空襲への信仰を揺るがせた。更に、イギリスの航空指導者がこの結果から導き出した主な教訓は、昼間作戦において戦闘機は爆撃機に対して優勢である、というものであった。一方でドイツ軍側からの視点として、高射砲部隊は戦闘機と協調作戦を行う事によって相乗効果を生みだす事が明白であるとした。こうしたイギリス軍とは対照的に、ドイツ空軍第1戦闘機飛行群(Fighter Group 1)の公式戦闘記録では、12月18日の戦闘で、戦闘機によって34機のウェリントン(出撃数の24機を越えている)を、また高射砲によって1機を撃墜したとしている。最初の数字はドイツ空軍の戦闘機パイロットが自らの勝利を過大評価する傾向にあることの証であり、2つ目の数字はパイロットが高射砲を過小評価していることの表れである。振り返ってみると、これらの交戦によって防空に関する2つの明確な教訓が導き出された。まず、高射砲の中低高度における威力から、爆撃機は昼間にこの高度で爆撃を行う事が不可能になったということであり、2つ目は高射砲部隊の効果を判別する標準を撃墜数だけでなく、高射砲部隊による二次的効果を含んだものにまで広げる必要があるということである。高射砲が爆撃機に損傷を与えたり、爆撃機の編隊を崩すことによって、戦闘機は攻撃を行い易くなる。戦争を通じて、陸軍元帥(?Field Marshal)のErhard Milchのような空軍の指導者を含む多くの人は、地上防空部隊による貢献の評価を行う際に撃墜数そのものに拘る事で、こうした二次的効果の重要性を無視していた。
戦争の初期の段階で、RAFによる爆撃作戦の全体的な視点は特に限定されていた。「Sitzkrieg」もしくは奇妙な戦争の状態は、陸上だけでなく空中にも同様に存在していた。実際に、1939年9月1日から1940年5月9日までの間、西部防壁(West Wall)沿いの高射砲陣地はたった7機を撃墜しただけであったが、これは1機撃墜するのに3,600万RMもしくは900万米ドルかかったことになる。しかし一方でRAFは、5月10日の夜になるまでドイツ本土には1発の爆弾も投下しておらず、そして1940年5月15日の会議でようやく戦時内閣がライン川東岸の爆撃を許可したに過ぎない事にも注目すべきである。事実、戦争の初期の段階において、ドイツ船舶に対する空襲の他には、イギリス軍パイロットはドイツの都市に対して爆弾ではなく、ビラの投下しか行っていなかったのである。爆撃機軍団の司令長官であるSir Peter Portal空軍中将(Air Marshal)は、空軍参謀部の参謀副総長であるSir Sholto Douglas空軍中将に1940年5月19日に送った手紙の中で、戦争初期におけるイギリスの爆撃機部隊の状態について適切に記述している:
「難点は2つある。まずドイツを空襲した時に、ドイツに決定的な打撃を与えるのに十分な数の爆撃機がないことである。そして2つ目は、我々の持つ重爆撃機は重防御のために速度がかなり遅く、そしてそれにもかかわらず防御武装は不十分で、敵の攻撃に対して大きな弱点となっていることである。」
イギリス軍爆撃機の乗員の経験した主な問題で最も語られているのは、乗員自身の評価から来ていた。あるRAFパイロットが、Dusseldorfの駅に対して行われた、彼にとって初めての爆撃作戦について詳述しているが、目標付近に到達した時、ドイツ側の灯火管制によって乗員は駅の位置を確認できず、周辺を「方形探索(?square search、航空用語らしいが詳細不明、しらみつぶし?)」をし、それから闇の中に爆弾を投下しただけだったと言っている。このパイロットはそれに続けて、「今自分が居る街ですら判別が困難な乗員が多い時には、そうした目標設定は無意味だった」と述べている。以上の逸話には、いくつかの興味深い点が含まれている。まず戦争の初期において、イギリス軍爆撃機の乗員が航法の問題を抱えていた事が明白である。たとえ晴れた夜であっても、道や小さな村といった目標は高度6000フィート以下でなければ識別できず、また工場などの個別の建物を明確に認識するには高度4000フィート以下を飛行する必要があり、そうした高度は軽高射砲と重高射砲の両方の射程範囲内であった。次に、パイロットが有名な工業地帯に対して困難な「方形探索(square search)」を実施する時間と傾向とがあったということは、ドイツの夜間防空の強さに対する信仰は、まだ大きくなっていないということである。最後に、ドイツの市民防空が適切に実施され、灯火管制が成功していたことを物語っている。皮肉にも、夜間の航空戦の初期の段階においては、ドイツ空軍もRAFも文字通り闇の中で手探り状態にあったのである。
イギリスとフランスの空軍が活発でない事は、ドイツ空軍にとって好ましいものの、予想していなかった空白期間でもあった。実際に第7航空指揮区域(Air District VII)の司令部は、ミュンヘンやスタットガルト、アウグスブルグといった主要都市とその周辺の工業施設に対して、西側諸国が開戦初頭に行う奇襲的な空襲に備えるよう警告を出している。矛盾にも、ドイツ空軍は防空のために膨大な量の資材を持っていたにもかかわらず、ポーランド作戦における部隊の損害と幅広い目標を防御する必要性から、すぐに防空部隊が薄く伸びきってしまったことを認識するに至った。第7航空指揮区域では、部隊の不足から以下のような優先順序付けが必要になった。1)主要都市、2)主要工業地帯、3)重要な交通要衝、4)主要な補給施設、5)空港と軍事補給所
予備高射砲部隊の動員により不足が緩和され、高射砲大隊の数も80から115へと、3分の1近く増加することになった。しかし予備部隊の動員は両刃の剣でもあった。一方では、部隊の増加によってドイツ国内の要所により厚い防空網を敷くことができるようになった。しかしその一方で急速な動員の為に防空部隊内での機器不足が悪化し、更に予備兵の訓練不足もすぐに明らかになった。機器不足の例としては、西部防空帯(Air Difence Zone-West)において半分の中隊しか射撃指揮装置を持っていなかった。訓練不足の例としては、あるドイツ空軍の研究は、予備部隊は本土防空の質的「弱体化」を招いていると指摘している。しかし36型射撃指揮装置1台の操作に13名の兵員が必要である事を考慮すると、射撃指揮装置の不足は実際には、複雑な恩恵であったとも言える。そして機器の不足にもかかわらず、ドイツ空軍の防空部隊はもう一つの弱点である弾薬に関しては、十分な補給量を保っていた。表4.2は、戦争の冒頭3ヶ月間の、月ごとの弾薬使用量と弾薬の合計とを表したものである。
表4.2
砲種 39年9月使用 39年9月合計 10月使用 10月合計 11月使用 11月合計
105mm 27 85,870 39 96,230 21 96,210
88mm 23,240 5,541,000 15,010 5,359,000 1,870 5,639,000
37mm 66,300 4,532,000 72,900 5,017,000 16,170 5,092,000
20mm 296,800 64,053,000 48,200 65,597,000 338,590 67,677,000
この表の数値からわかるのは、ポーランド作戦と開戦当初の数か月間の本土防衛においては、極小の高射砲弾しか必要でなかったということである。事実、補給総監(General Quartermaster)はこの点について「どれだけの弾薬が高射砲に必要かということは、ポーランド戦からは判らなかった」と書いてる。同様な報告として、ドイツ空軍の参謀長だったHans Jeschonnek大将は更に進めて、ドイツ空軍はこれから起こる西部戦線において「桁はずれに多い」量の弾薬が必要となると警告している。ただ、高射砲弾の製造において幾つものボトルネックが存在したにもかかわらず、高射砲部隊は必要量が供給されていたということは、弾薬の供給量からも明白であった。この面においては、RAFとフランス空軍の活動が極小であったことによって、防空部隊の使用可能な弾薬量が維持されたともいえる。そして1940年3月には豊富な弾薬量から、弾薬の浪費の元となる弾幕射撃や口頭による射撃指揮といった手法が採り易くなっていた。
1939年末に高射砲部隊に十分な弾薬があったとしても、利用可能な高射砲中隊と探照灯の不足は深刻なままであった。第7航空指揮区域では開戦時に、41ある飛行場と軍事施設を防御する為の部隊として3個重高射砲中隊を持っていたにすぎなかった。部隊の不足から、最も重要な飛行場だけに高射砲を集中せざるを得ず、しかも飛行場に1個中隊づつしか配備できなかった。1940年3月には防空部隊は工業施設の防備に集中されていた。5月1日になると、航空管区(air district)司令部は、主要な防備対象を空軍の飛行場と地上施設とし、それぞれ最低でも2個重高射砲中隊を配備するという劇的な大転換(volte-face)を行った。更に命令では「都市に対する空襲は近い将来予測されない」とし、都市から残りの全ての高射砲部隊を引き抜き、空軍施設へと回すよう要求した。ドイツ空軍の突然の飛行場と地上施設への部隊の移動は、国防軍によるたった9日間の対フランス作戦の準備のためであった。
西部での作戦
1940年5月10日から6月22日にかけての低地諸国とフランスにおける作戦で、ドイツの高射砲部隊は重要な役割を果たした。1939年9月にゲーリングによって創設された高射砲軍団も、各種の戦闘作戦に関わるようになっていた。ポーランド作戦を高射砲部隊の洗礼とするならば、フランス作戦は血まみれの堅信礼式(confirmation ceremony、キリスト教で幼児洗礼を受けた人が成人して信仰を告白し、教会員となる儀式)であるだろう。西部戦線の戦いに参加した混成高射砲大隊24個と軽高射砲大隊11個は、ポーランド戦の参加兵力よりも少し多いだけであった。しかしその損害は、60名の将校と890名の兵員が死傷、もしくは行方不明であり、ポーランド戦の約4倍にも上った。ただその一方で、作戦を通して受けた損害と同じだけの活躍をし、503機の航空機と152台の戦車、151か所のトーチカに13か所の要塞、そして20隻を越す艦艇と輸送船を破壊した。それに加えて、陸軍がマジノ線のフランス軍陣地を突破する際に、高射砲部隊は重要な役割を果たした。
初期の作戦で高射砲部隊の示した優秀な能力を見て、陸軍指揮官は直ぐに、より高射砲部隊に依存するようになった。一つの例として、第7軍は陸軍作戦の支援の為に、至急に高射砲部隊を編成するよう催促した。それに応えて6月9日に第7航空指揮区域は、4個混成高射砲大隊と2個軽高射砲大隊で構成されるVeith高射砲旅団(名前は後に指揮官によってつけられた)を編成した。6月20日、Veith高射砲旅団はライン川の東岸に移動し、第7軍の「小熊作戦(Operation Little Bear)」を支援した。旅団は2つの主要な任務を持っていた。一つは陸軍部隊の地上直接支援であり、もう一つはライン川上流にかかる橋の対空防御である。文字通り数時間後に休戦協定が結ばれたが、それまでに旅団は12か所のトーチカと無数のフランス軍防御陣地を、たった7名の死者と5門の損失を出しただけで破壊した。
フランス作戦の終わりに、陸軍指揮官は高射砲部隊から受けた支援を称賛した。国防軍の戦車指揮官の一人であるハインツ・グーデリアン大将は、彼の部隊を支援した第102高射砲連隊の功績を個人的に次のように述べている:
「我々の背後で18日間の激闘が存在した。軽高射砲大隊を含む第108高射砲連隊は、計り知れない程の功績を軍団に対して為し、そして軍団が勝利する大きな一因となった。」
さらに彼はこう続けている:
「高射砲は色々な用途に使える兵器であることが判明した。…重戦車やトーチカ、そして要塞に対して高射砲は大活躍をした。高射砲連隊は更に駆逐艦や魚雷艇、そして輸送部隊といった任務外の対象とも交戦した。陸軍の戦友(comrade)を助けるべき瞬間に、高射砲部隊は常にそこに居てくれたのである。」
第102高射砲連隊は、地上や艦艇の目標の他に243機の航空機を撃墜したが、これはフランス作戦期間中の高射砲部隊全体の撃墜数のほぼ半数を占めていた。
7月2日に開かれた陸軍指揮官との会談の中で、ヒトラーも高射砲の活躍、特にトーチカの破壊について称賛した。しかしヒトラーは敵国に対抗策をとらさせない為に、戦争の終結まで公式にこの結果を発表する事を禁止した。西部戦線での陸軍部隊を支援した高射砲部隊の活躍は、第一次世界大戦時に創設され、そして大戦間に強化された協調作戦のドクトリン的勧告に従った結果であることは明白である。しかし、大規模な防空部隊の創設が無ければ、前線でこれほどの活躍を行うことはできなかった事も指摘しておかなければならない。実際に、もし戦争前の部隊の規模が半分だとしたら、地上作戦の援護のために航空指揮区域から部隊を文字通り引きはがさなければならなかっただろう。結果として、高射砲部隊はドイツの勝利において大きな役割を果たし、フランス上空で撃墜した航空機の数だけ、ドイツに侵攻する航空機の数が減少することになった。
フランス戦の勝利における最も直接的な効果の一つは、西部防空帯の不活発化に関することであった。イギリス軍とドイツ軍の間の前線はドーバー海峡沿岸にまで移動し、西部防空区域はその存在意義(raison d'etre)のほとんどを失ってしまった。その結果、ドイツ空軍は重要な軍事施設と工業施設とを防御する為に、西部防空帯の防空部隊を占領した西部地域へと移動してしまった。まとめるならば、防空帯は第三帝国の政治的・軍事的指導者の防空に関する高い期待を完全な形で表現していたと言える。ある面では、防御を犠牲にして引き続き攻撃に重点を置くということは、軍にとっては大変な仕事であったともいえる。技術的な見地からは、進化した航空機の性能と夜間作戦への移行によって、コンセプトはすぐに破たんしてしまうものであった。資材の点では、防空帯に沿って要塞化された防御陣地は完備のまま維持するにはあまりにも多くの人材と資材とを必要としていた。軍事的見地からは、阻止効果は防空帯のその広大さによって成り立っていた。しかしそれでも、防空帯(AirDifenceZone)が実際にテストされることもなく、フランス作戦にも失敗していれば、西側防壁はドイツ本土防衛にとっての重要性を引き続き保っていた事もまた確かである。
1940年6月の始め、第7航空指揮区域は戦争の最初の9ヶ月間における防空能力の評価を行った。この報告書は航空戦の有効な一断面(snapshot)となるだろう。戦争開始後の数ヶ月間、連合軍の作戦の多くは、ライン川上流付近の国境沿いの偵察飛行に集中されていた。表4.3は、1939年9月から1940年5月までの第7航空指揮区域での連合軍の作戦行動を示したものである。
表4.3
月 飛行数の合計 夜間飛行数/合計の飛行数での割合
1939年9月 25 0/0%
10月 20 2/10%
11月 75 6/8%
12月 25 3/12%
1940年1月 25 9/36%
2月 25 3/12%
3月 60 22/37%
4月 55 10/18%
5月 100 25/25%
合 410 70/17%
この表から、連合軍機の活動は1940年の春から大きく増加していることがわかる。後半の作戦ではミュンヘンやViennaまで飛行した。しかし期間全体を通じて、飛行全体の75から80%が国境沿いの偵察飛行で、ドイツ領空をほんの数分間侵犯する程度のものであった。夜間作戦の回数もまた劇的に増加し、特に3月と5月だけで期間全体の夜間飛行の数の80%を占めていた。
またこの報告書では、一般的に高射砲の射撃を受けると、敵機は突然西へ旋回してしまうとしている。それに加えて連合軍機はドイツ軍の戦闘機と一度でも交戦すると、19,000フィートより上空を飛行し始めるとある。10月5日のFreiburgへの孤立攻撃を除くと、第7航空指揮区域への敵の空襲は、6月にミュンヘン、ウルム、Memmingen、そして黒い森に対する空襲まで無かったのである。ドイツの防空の成功は微々たるものであった。1939年9月から1940年6月までの間、戦闘機と高射砲はそれぞれ7機を撃墜したにすぎなかった。この撃墜数の低さは、ドイツ領内への飛行のほとんどが侵入を阻まれてしまったことに主な原因がある。しかしこの報告書が最も強く主張しているのは、夜間作戦においては1機も撃墜できていない事実であった。
夜間戦闘での問題
1940年の夏の時点でのドイツの防空のアキレス腱は、統合された夜間戦闘ネットワークの欠如であった。3月に第7航空指揮区域を訪れたRudelは、高射砲指揮官との会議でこの事を指摘している。Rudelは「状況の変化により、今後夜間攻撃が多くなる」と見ていた。そしてRudelは夜間戦闘に訓練を集中するように指令した。RAFのSir Arthur Harris中将(?Marshal)は、RAFはすぐにドイツの夜間防空がお粗末なものである事に気付いたと戦後の回想録に書いている。それと同様にRAFの公式記録でも、イギリス軍爆撃機にとって夜間作戦時の主な脅威は天候であり、ドイツの防空部隊でなかったと正しく記述している。以前にも触れた通り、ゲーリングは1940年の夏になって初めて夜間戦闘機部隊を創設する計画を慌てて作成している。実際に、6月4日と5日のミュンヘンに対する空襲の後に、ドイツ空軍はようやく都市の周辺に夜間戦闘機防空区域を作っている。しかし夜間戦闘に聴音機を使用した際に敵味方の区別を付けにくくなる為、地上防空部隊にとってこの区域は大きな問題であった。ミュンヘンの周辺での夜間戦闘機防空区域の設立は、航空指揮区域から次のような反感を買う事となった。「航空管区からのこの提案は、ミュンヘン近郊から全ての高射砲の撤去しろというのに等しい。これでは夜間の敵機に対する高射砲による防衛は不要ということになる。」
レーダーと防空
実際に夜間作戦時の高射砲部隊における大きな障害は技術的なものであった。ドイツ空軍がイギリス軍爆撃機の探知に使用していた聴音機は、幾つかの理由から不適切である事がわかった。まず1つ目として、戦闘での高いレベルの大気ノイズだけでなく、航空機の飛行高度が上昇した事によって、聴音機操作員の限界が近づいていた。2つ目として、湿気等の天候条件が音響探知に悪影響を及ぼした。最後に、第一次世界大戦時に爆撃機のパイロットは、聴音機操作員を混乱させる為に最終爆撃航程の際にエンジンの回転数を変更し、高度を下げつつ滑空するということを常に行っていた。イギリス軍爆撃機が夜間爆撃へと大幅に移行していくに従って、高射砲部隊の指揮官には新しい、改良された追尾システムが必要であることが明白となっていったのである。
開戦時に、ドイツ軍はたった8基の「フレイヤ(Freya)」レーダーシステムを持っているだけであり、それらはドイツの北岸に沿って配備されていた。既に1939年の始めには、ドイツ空軍の委員会は「フレイヤ」装置の実用試験を、海軍と通信部隊と高射砲部隊で実施する計画を立てていた。この「フレイヤ」は最大120kmまでの接近する航空機を判別可能であったが、目標の高度までは測定出来ず、そして高射砲の射撃諸元のような正確な値の測定には向いていなかった。委員会は1940年の初めにかけて、改良されたレーダーシステムの競合試験(?trial)を計画した。この実用試験では、Lorenz社の「A-2」、Telefunken社の「A-3」、そしてTelefunken社の新しい「ウルツブルグ(Wurzburg)」レーダーの試験が含まれていた。1940年の夏には、夜間にイギリスの爆撃機と交戦する為のより効果的な手段を求める防空部隊からの圧力から、試作中のレーダーの試験機器を製造工場から技術者と一緒に作戦部隊に直ぐに配備するよう要求されるようになった。それに加えて、帝国防衛評議会の議長であったゲーリングはその立場から、1940年7月18日に射撃用レーダーの生産を最優先としたのである。
射撃用レーダーの場合、「必要は妥協の母」であった。1940年夏の実戦試験において、Lorenz社の機器(FunkmeSgerat 40 L)は15から24マイルの距離において、±12-15ヤードという高射砲の照準として最適な精度を示した。それとは対照的に、Telefunken社の「ウルツブルグ」レーダーは、Lorenz社の機器の約倍の距離まで探知できたものの、精度はそれよりも低かった。しかし、航空情報隊(Air Reporting Service)は既に「ウルツブルグ」システムの注文を行っており、1940年8月には納品が始まっていたのである。射撃に必要な精度になるまで改良が必要であったにもかかわらず、「ウルツブルグ」が選ばれてしまった。Telefunken社が競り勝った理由は、基本的にはLorenz社よりも生産準備が進んでいたからであった。結局、ウルツブルグは射撃用レーダーとしてより効率的になるように戦争を通じて改良が行われ続けた。1941年夏にはウルツブルグはドイツ空軍の標準的な射撃用レーダーとなり、改良点をまとめてFu.M.G.39T(C)という型式になった。12月にはドイツ空軍はFu.M.G.39T(D)を採用したが、これは戦争の終わりまで標準的な射撃用レーダーであり続けた。
ドイツ空軍がレーダーの開発に精力的でなかった事は、一般の地上防空に対する情熱を考慮すると矛盾しているように見える。Rudelが1937年の開発計画の中で、非光学照準システムは「緊急で、非常に重要である」と書いている事を考えると、この見落としはより明確になる。同様にRudelがこの事が高射砲の生死を分ける問題になるだろうと言った警告は、1940年夏には敵の航空部隊が計器飛行を開始していた事をみれば、預言のようでもあった。同じく不思議な事に、ゲーリングは1938年11月に個人的にレーダーの試験を見学しているし、ヒトラーも1939年7月にRechlinの基地で行われた試験を見学しているのである。
ドイツ空軍の指導者達は、何故レーダー技術を追求しなかったのだろうか?ゲーリングは間違いなく、ドイツ空軍を攻撃的兵器(Angriffswaffe)として捉えており、そしてゲーリングは技術的議論中に、彼の注意力が続く間しか知的事項を理解できなかった。それに加えて、彼自身の第一次世界大戦中の経験では日中の視覚による作戦が標準であり、その経験が第二次世界大戦でも航空戦は同様なものになると思わせるようになったと見るのが合理的かもしれない。ドイツ空軍の戦闘機エースパイロットだったAdolf Galland大将は、戦後に自叙伝の中でその心境を次のように書いている。「ゲーリングをトップにして、ドイツ空軍の最高位に並んだ第一次世界大戦の古い戦闘機パイロット達は、強制的に時間を15年止めており、その間に急速に進化した航空機を恐らくは知らないで居た」。こうした要素のそれぞれが予算的考慮や官僚的抗争にように、レーダーに関連した決定に影響を及ぼしたのは明白である。ある軍事技術の歴史家は、空軍の攻撃的兵器システムに対する偏向だけでなく、海軍と空軍の任務の競合部分による抗争も、レーダーシステム調達に抑制的であった事の主要因であったとしている。結局1940年の秋には、ドイツ空軍は遅れを取り戻すべく巻き返しを図らねばならなくなっていた。
対空兵器の拡張と経済的コスト
1940年7月に、ヒトラーは防空に関連する幾つかの事に対して干渉を行った。まず、ヒトラーは88mm高射砲の弾薬の生産量を月当たり100万発に増やすよう命令した。ヒトラーはまた20mm機関砲の生産数も上げ、そしてドイツの防衛の為に捕獲した高射砲も使用するよう命令している。それに加えて1940年8月19日には、増加するRAFの空襲に対してヒトラーが高射砲部隊の規模拡大を命令した。ヒトラーの個人的な働きかけにより、1939年の第4四半期で48門だった88mm高射砲の月産数は、1940年第3四半期には108門に上がっていた。それと対照的に、過度の使用や破壊などによる88mm高射砲の月当たりの損耗数は、1940年を通してたった10門に過ぎなかった。しかし88mm高射砲の弾薬の生産数が月産100万発を越したのは1941年の半ばであった。ともかく、高射砲部隊全体での戦力は、戦争の最初の10か月間に大きく増加していた。表4.4は1939年9月と1940年6月における対空装備の数を比較したものである。
表4.4
品目 1939年9月 1940年6月
105mm及び88mm 2,628 3,095
37mm及び20mm 6,700 9,817
150cm及び60cmSL 3,000 4,035
聴音機 - 2,058
射撃指揮装置 - 502
1940年夏には、ドイツ空軍は重高射砲で15%、軽高射砲で32%、探照灯で25%の増強を行っている。それに加えて、弾薬の備蓄量は88mm高射砲で590万発、37mm高射機関砲で540万発、そして20mm高射機関砲で7,820万発となっていた。8月には対空兵器の増強によって、広大な範囲での地上防空兵器や装備の運用に528,000名が必要となっていた。
これとドイツ空軍委員会が1939年に作成した戦時の必要量予測と比較してみると、ほとんどは計画通りに増大しているものの、軽高射砲と射撃指揮装置はそれぞれ76%と70%でしかない。射撃指揮装置の不足は、それが射撃諸元を機械的に計算するいわば「頭脳」の役割を担っているだけに深刻であり、こうした装置が十分に確保できない事によって、高射砲陣地の射撃精度のレベルを低下させてしまうことになっていた。1940年には、射撃指揮装置の不足と本土防空の間隙を補う為に、ドイツ空軍は幾つかの「弾幕防壁」陣地(Sperrfeuerbatterien)を組織した。この部隊の殆どは、捕獲したチェコやベルギー、フランスの高射砲と光学測距装置を装備していた。その主な任務は防御目標の周辺に鉄のカーテンを作り出し、それによって爆撃機に攻撃を諦めさせるか、もしくは最低でも爆撃照準中に乗員の意図を妨害することであった。ドイツ空軍のある研究によると、弾幕射撃によって爆撃機の編隊を崩すことで迎撃機による攻撃を容易にする追加効果も持っていた。
弾幕射撃の採用によって、射撃指揮装置を使用して光学的に直接射撃を行う場合と比較して、航空機の撃墜数が激減することになった。また弾幕射撃によって弾薬も無駄になり、1機当たりの撃墜コストが特に増大した。撃墜コストについてみれば、国防軍の支出全体における高射砲の弾薬コストの割合は、比較的に小さいものであった。表4.5は、1年間の国防軍全体の弾薬予算における、陸海空軍それぞれへの弾薬の生産量の分配の割合を比較したものである。
表4.5
1940年 陸軍 海軍 空軍 高射砲部隊
第1四半期 58 9 15 18
第2四半期 52 7 30 11
第3四半期 53 6 33 8
第4四半期 44 9 33 14
高射砲部隊の予算は、年間を通じて平均で約15%である。戦争初頭で高射砲の増加数が際立っていたにもかかわらず、この時点での国防軍内における防空部隊の弾薬の予算の割合は、実際には控えめなものであった。
防空での囮と欺瞞
高射砲部隊の規模拡大が続けられて行く中で、戦争の初期段階において地上防空で最も大きな成功を収めていたものの一つが、皮肉にも帝国中に建設された無数の偽施設(Scheinanlagen)であった。こうした偽施設が歴史書の中で触れられる事はほとんど無く、実際の効果に対して余りにも過小評価されてしまっている。7月の初め、第3航空管区の指揮官だったHugo Sperrle大将(すぐ後に陸軍元帥(?Field Marshal))は、自らの管区内に工場の偽施設を建設する命令を出している。更に彼はこうした偽施設の建設に「人材、資材、そして予算を惜しまないよう」とも指示している。偽施設や設備を使う事によって空襲に対抗しようというアイデアは新しいものではない。実際に第一次世界大戦時にドイツ軍は既に偽工場施設を建設することを考えており、ドイツ空軍も1934年から35年の冬に行われた対フランスの兵棋演習で、航空部隊を防御する為の手段として偽施設の建設を用いていた。ドイツ空軍における偽施設の建設の目的は、既存の工場施設とそっくりな物を施設近くに配置することによって、イギリス軍爆撃機の乗員を混乱させるというものであった。7月の半ばには、アウグスブルグ近郊に最初の偽施設の一つが完成した。その年の終わりには、ハンブルグの近郊だけでも11か所の偽施設が出来上がっていた。表4.6は第7防空区域において8月の第一週までに建設された偽施設の一覧である。:
表4.6
位置 コードネーム
Hardtwald、Karksruheの北 ベネゼーラ
Sollingen コロンビア
Stuttgart/Lauffen ブラジル
Stein am Kocher ペルー
Stadt Augsburg アルゼンチン
メッサーシュミットの工場/ アウグスブルグ ボリビア
Schwabisch Hall近くの偽飛行場 コスタリカ
Karlsruhe(南) パナマ
Goppingen グアテマラ
ドイツ空軍の建設部隊(Baukommando der Luftwaffe)は、RAFのパイロット達を長期間騙し、こうした偽施設を本物の目標と勘違いさせていた。建設部隊は、建物や工場施設、鉄道の駅、そして道路上を走行する自動車のヘッドライトの流れを再現した電気照明の仕掛けまで含んだ車列といったものの複製を作成した。そして偽の目標の周辺には高射砲と探照灯も配置していた。RAFのパイロットを偽の目標におびき寄せるために、施設はわずかに電灯を点け、あたかも灯火管制がいい加減であるかのようにしていた。それに加えて本当の目標から偽物に注意を逸らせる為に、イギリス軍の航空機が接近すると探照灯はこれを照射し、高射砲は射撃を開始した。そしてドイツ空軍は、偽施設で花火を爆発させて爆弾の炸裂を表現し、接近する航空機を更にその施設へとおびき寄せる為の効果を高めた。
8月6日に第7防空区域司令部は、偽装施設作戦の幾つかの指針を発表した。まず指令では、高射砲と探照灯の部隊は、自分たちが極めて重要な施設を防御していることを、爆撃機の乗員に信じ込ませるように行動することに重点を置いていた。次に、ある一定の間隔で高射砲陣地を移動させることで、実際の戦力よりも多く見せるよう要求していた。ただしその一方で余りにも誇大に戦力を強調しすぎて、爆撃目標から外されることのないように注意を促している。そして最後にこの指針では、爆撃機の乗員を欺瞞する可能性が夜間よりも昼間の方が圧倒的に低い事から、日中の高射砲部隊の活動を控え目にするよう指示していた。
最初、RAFの乗員は本物と偽物の施設の識別に熟達しているように見えた。ある面では、高射砲陣地が明らかに手を掛け過ぎ、陣地を判別しやすくしすぎてしまったところがあった。イギリス兵捕虜の尋問から、「異常なまでの対空射撃」が偽施設の周辺で見られる事が明らかとなった。7月26日から8月9日の間には、イギリスの航空機が幾つかの施設の上空を通過し、しかも照明弾を落としたにもかかわらず爆撃航程に入らなかった。しかし8月の中頃にははRAFの爆撃機は偽の目標にも爆弾を投下し始めたため、ドイツ空軍は欺瞞が成功していることを信じるようになった。しかし偽施設の効果は両刃の剣であり、ある偽装施設の周辺にある小さな町の町長は、こうした欺瞞手法によって自分の町が致命的な被害をこうむる危険性が増してしまうと苦情を述べている。この町長による施設の移設要求は拒否されたが、ドイツ空軍は偽装施設周辺の小さな共同体に、適時空襲警報を伝えることが重要であると指摘している。
ドイツ空軍の指導者層が欺瞞手法に興味を持ち始めたため、町長の抵抗が聞き入られなくなっても不思議ではない。事実、ゲーリングとMilchの双方が作戦の改良を提案してきた。Milchの場合には、偽施設周辺の高射砲陣地では捕獲した高射砲だけを使用し、それ以上ドイツの防空資材が薄くなってしまうことを防ぐと共に、優秀な高射砲を作戦目標の為に保存しておくよう命令を出した。(?RAFの)偽施設への興味の度合は、究極的には偽施設の効果と関係していた。8月と9月にドイツ空軍が計算したところ、第7航空指揮区域内の目標に対してRAFは415発の高性能爆弾と1,607発の焼夷弾、そして376発の照明弾を投下していたが、その内の60発の高性能爆弾に219発の焼夷弾、そして77発の照明弾が偽施設に投下されており、それらは率にすると高性能爆弾と焼夷弾の14%、照明弾の20%であった。
初期成果は確実なものとなり、11月の半ばには、偽施設による成功が宣伝大臣のヨセフ・ゲッベルス(注:ゲッペルスではない)によって賞賛されることになった。ゲッベルスは、日記の11月14日の項にイギリス軍の爆撃の効果について次のように記している。「イギリスは相当に偽施設に騙されているようである」。同様にSperrleも偽施設の効果を次のように褒めている:
「偽施設の建設の大きな重要性は、ここ数週間、特に明瞭に際立っている。偽施設は完全にその目的と任務を果たしている。これは、技術と知性とのバランス良い解決を目指して、困難な問題と建設の実施の下、偽施設の正しい戦術運用と部隊員の巧みな任務遂行によって得られた、満足の行く証明なのである(?)」
このSperrleの賞賛は、偽施設の効果が高かった週に為された。11月4日から10日の間に、イギリス軍爆撃機は172発の高性能爆弾と355発の焼夷弾を第7航空指揮区域内に投下した。偽施設にはこの内の58発の高性能爆弾と183発の焼夷弾が投下され、それは全体の34%と51%に上った。11月6日夜のアウグスブルグでは、偽施設だけでRAFの爆撃機が投下した33%の高性能爆弾と70%の焼夷弾が投下された。同様に11月8日夜のシュタットガルトでは、数がほとんど逆転して、65%の高性能爆弾と38%の焼夷弾が偽施設に命中した。これらとは対照的に、11月8日夜のミュンヘンとアウグスブルグでは、期待外れにもたった12%の高性能爆弾と8%の焼夷弾しか投下された無かった。ドイツ空軍はこの割合の低さを、偽施設の少なさ(ミュンヘンではたった1ヶ所)が原因であるとし、現在建設中である旨を強調している。
戦争初期における偽施設の成功は、地上防空システム全体の効果を測定する為のもう一つの例となった。こうした施設はイギリスの爆撃機を撃墜しているわけではなかったが、しかしRAFの攻撃の衝撃を大幅に薄める効果を実際に成し遂げていた。更に、後にRAFがまとめた戦争初期のイギリスの爆撃作戦の一般的な不正確さに関する研究での結論を説明する助けとなるじれったい見識を、この偽施設の存在が提供することとなる。
結局のところ、偽施設の効果については、地上防空ネットワークに関係するコストと利益の計算を均質化したということも考慮しなければならない。実際に、そうした施設はわずかの資材と維持管理努力しか必要としていなかった。それに加えて、鹵獲した高射砲のみを使用するというMilchの命令によってわかる事は、高射砲とそしてある意味弾薬も、消耗資材であるということである。更にこうした施設は、最近動員された予備兵だけでなく、高射砲と探照灯の未経験な操作員にとっても最適な実弾射撃訓練場となった。しかし戦争が進むに従って、RAFの乗員の訓練度の上達と電子航行機器の発達により、偽施設の効果は次第に低くなっていくのである。
阻塞気球による防備
偽施設に加えて、ドイツ空軍はその受動的防御の効果を改善すべく考えられた他の手法を試したが、その中の1つに阻塞気球の数の拡大があった。戦争が始まった際には、未だ阻塞気球の効果に関して懐疑的な見方が残っていたが、ドイツ空軍はすぐに低高度攻撃に対する阻塞気球の効果を認識した。その結果、ドイツ空軍は港湾施設や重要な工場施設の周辺に、60から100基の気球を円周もしくはチェッカーボード(互い違い)パターンに配置した。こうした防御には主として、布製で水素を充てんした大小2種類の気球が用いられており、大型の200m3の容積の気球は高度6000から8000フィートに、小型の77m3の容積の気球は高度3000フィートに設置された。1940年9月には、ドイツ空軍は戦争開始時に108基だった阻塞気球の数を、3倍を超す380基にまで増やした。一般的に阻塞気球は、ダムや石油精製所、そして橋といった、分散した施設の夜間防備に最適であった。特に阻塞気球による橋の防御については、戦争初期のイギリスによるドイツへの夜間空襲に対して高射砲部隊が混乱して上手く対応できなかったことから、極めて重要なものであった。
盲射撃(?Fireing Blind)
空軍の防空指揮官にとって不幸な事に、防空システムの全ての要素が、偽施設ほど上手く機能してはいなかった。1940年の秋の時点でも、高射砲部隊は夜間射撃が苦手であった。1つの酷い事例として、探照灯部隊がイギリスの爆撃機を照射するまでに11分もかかり、その間に123発の無駄弾を出したというものがある。この出来事から目標に命中させることが困難であることと、そして射撃速度が比較的に低かったということがわかる。射撃速度の点に関しては、既に8月には敵機と交戦する際には「弾薬の消費を考慮することなく」可能な限りの高射砲が射撃を行うよう、高射砲中隊に対して通達が出されている。撃墜数に関しては、1940年前半の第7航空指揮区域の高射砲部隊の戦果は酷いもので、1月から6月を通じてたったの2機であった。それに加えて高射砲部隊は8月と9月には1機の英軍機も撃墜できず、30,893発の88mm高射砲弾に11,663発の37mm高射機関砲弾、そして44,258発の20mm高射機関砲弾を無駄に損耗した。
あるドイツ空軍の報告書は、敵の編隊を崩してより上空へと追い上げる為に、不意の大量射撃という戦術を高射砲指揮官に実行させている事から、敵機の撃墜そのものが困難になっている事を指摘している。更にこの報告書では「究極の目的はあくまでも撃墜にある」と強調している。そしてこの戦果の評価に関する曖昧さは、評価手法についての議論の中心となるのである。実際、高射砲部隊を撃墜数だけで評価してしまえば、爆撃機乗員を目標から遠ざけてその意図を挫くという高射砲火による阻止効果を、良くても最小化、悪ければ無視してしまうことになる。例えば1940年11月8日、ビアホール一揆から17年目の記念日に当たるミュンヘンでは、高射砲部隊の弾幕射撃によってイギリス爆撃機部隊を街の中心部から遠ざける事に成功しているのである。
夜間作戦時の効率の悪さは幾つからの要因から成っている。まず第1に、未経験の予備役兵と急速な訓練を受けて転化してきた兵員の大量流入と、射撃指揮装置の不足から来る精度の低下がある。老予備役兵の大量流入はまた年齢配分の偏りの原因となり、そしてこの偏りが後の防空部隊の能力にも影響を与える事になった。そして第2に、砲弾に不発と腔発(?premature detonation)が多かった事がある。そして第3に、高射砲指揮官は、夜間の照準と音響探知の訓練を行う為の、空中目標に適した航空機の不足を挙げている。第4に、中央ヨーロッパでは特に晩秋から冬にかけて、悪天候によって照準が複雑になり、探照灯照射が全く効かない時もあった。第5として、高射砲員も戦闘機パイロットも、夜間作戦に必要な基本的熟練に達するまでに、高いレベルの訓練を要求されていた。例え昼間には優秀な高射砲手もしくはパイロットであったとしても、特別な訓練が無ければ夜間には使い物にならないと事は、当時も今も当たり前である。そして最後に、適切な射撃用レーダーが無かった事が射撃能力を阻害する大きな原因であり続けていた。
夜間作戦時の高射砲部隊の効果の低さに、ドイツ空軍の上層部が気付かないわけもなかった。11月24日にゲーリングは「高射砲による撃墜数が、西部戦線での攻勢時のそれと比べて相当に落ちている」と不平を述べている。そしてゲーリングは部下の高射砲指揮官達に対して「あらゆる手段をもって、夜間の高射砲の命中率を上げるよう」命令している。夜間に射撃用レーダーの無い状態において航空機を追尾する効果的手法を工夫する中で、解決方法の1つとして、2基の聴音機を離れた場所に配置して複数の陣地に対して射撃諸元を送るという事が考案された。しかしこの「音響傍受(aural intercept)」照準手法は、既存の手法よりも多少増しになった程度に過ぎなかった。実際に幾つかの高射砲中隊では、聴音機を基にした射撃もしくは単なる弾幕射撃という弾薬消費が増加する傾向にある射撃手法に、次第に依存して行きつつあった。ゲーリングの不満にもかかわらず、第7航空指揮区域の高射砲部隊は88mm高射砲で16,472発、37mm機関砲で3,393発、20mm機関砲で47,478発もの弾薬を消費しながら、11月も1機も撃墜できなかった。こうした状況はSperrle空軍元帥(Air Marshal)の怒りを買い、元帥はいかなるコストも顧みず、この不足を改善しうる全ての状況下で夜間射撃手法を改良するよう要求した。
ゲーリングの怒りの原因は2つあった。1つは、RAFによるドイツの空襲、特にベルリンへの空襲によって、ゲーリングは大いに辱めを受けていた。帝国元帥閣下の「ミスター」のジョークは色々な形でドイツ中に広まっていた。ゲーリングは彼自身のプロパガンダの最初の犠牲者とも言えたが、これは彼1人の問題でもなかった。例えば、ある空軍の戦時日誌では、市民が夜中に街の上空を(?味方の)航空機が飛行する事に対してすら不満を述べている事を、驚きをもって記述している。例え航空機が爆弾を投下しなくても、上空を飛行しているだけで不満の原因になり得るという事を示している。ゲーリングのドイツ空軍が、空軍の持つ能力以上のものを期待されるという、いわば自ら撒いた種を刈り取らざるを得ない状態にあったことは明白である。もう1つは、9月、10月そして11月にかけてのRAFの爆撃機によるベルリンへの初空襲は、今後の空の戦いにおける前兆となり、そして都市地域が危険となりつつあることを警告していた。
8月末時点でのドイツの首都の防空戦力は、重高射砲中隊が29個、軽高射砲中隊が14個、そして照空中隊が11個であった。そして9月23日と10月7日のRAFによる夜間空襲によって、60人が死亡し154人が負傷、そして2000人以上が家を失ったのである。防空部隊がそもそも拡張されつつあった事と、そしてイギリスの爆撃機による脅威が増大したことから、ベルリン周辺の防空部隊は10月中旬には、重高射砲中隊45個、軽高射砲中隊24個、照空中隊18個、そして2個夜間戦闘機飛行隊(squadron)に拡張された。
ベルリン周辺の防衛を改善する過程で、ドイツ空軍は11月に第3防空指揮空域と第4防空指揮空域を、Hubert Weise大将の指揮下に組み入れた。ゲーリングは空襲警報センターを訪れた際にWeiseの説明を聞き、防空ネットワークを「奇跡のシステムと組織だ」と11月2日付の日記に書き記している。ベルリン周辺の防空部隊の、イギリス空軍に対する最初の劇的な成功は11月15日夜の空襲で、30機前後の爆撃機の内の7機を撃墜した。この成功の秘密は試作中の射撃用レーダーを用いた事であり、こうした照準システムの将来的な能力を発揮する良い機会となり、これによって充分な数が調達されることになった。RAF乗員の捕虜による尋問からも、首都周辺の防衛が新たな局面に入ったと認識されている事が判明した。全体としても11月はドイツ空軍にとっての成功の月となり、合計で37機を撃墜している。
高射砲の効果の評価
1940年末の地上防空の戦果をまとめることで、防空部隊の成功を評価する幾つかの手法を見て行く事が出来る。航空機の追尾に問題を抱えていたにもかかわらず、高射砲部隊は1940年末までに合計で1489機を撃墜していた。第7航空指揮区域の効率は悲惨なものであったが、それでも平均して1機を撃墜するのに2,412発の重高射砲弾と4,598発の軽高射砲弾とが必要であったことになる。しかし西部戦線における初期の突出した成功によって全体の平均値がゆがめられてしまう為、1940年12月の撃墜数だけを見てみると、この1ヶ月だけで高射砲部隊は31機の航空機を撃墜したものの、1機当たり7058発の重高射砲弾と20504発の軽高射砲弾を必要としていた。表4.7は12月に高射砲によって撃墜された航空機の統計的な表である。
表4.7
航空指揮区域 昼 夜 重 軽 重&軽
第2高射砲軍団 2 3 2 3 -
第6航空指揮区域 - 2 1 1 -
第7・8 - 1 - - 1
オランダ 1 3 1 3 -
ベルギー 5 1 2 3 1
フランス 3 10 - 2 11
合計 11 20 6 12 13
この表以外の追加情報として、この撃墜数の中で直接射撃で撃墜したものは23機だが、弾幕射撃で撃墜されたものはたったの1機だけだった、という事も挙げられる。更に第6航空指揮区域では試作品の射撃用レーダーが用いられたが、その際に1機を撃墜するのに使用とした砲弾数は、たった39発であった。
この12月の報告書を含む各種情報を分析すると、この時期の防空作戦に関する幾つかの結論を導くことができる。例えば、昼間の撃墜数11機全てと、全体の内の28機もの撃墜数とが、西部の占領地域で為されているという事である。西部地域の高射砲によって高い撃墜数が得られた理由は2つある。一つは、RAFは英国本土上陸作戦の為に準備された部隊や補給センター、そしてドイツ艦船を目標に、主に午後遅くにかけて占領地域内の港湾施設や飛行場を何度も攻撃していたからである。こうした地域の幾つかに配備された強力な高射砲部隊は、目標の危険性を相当なものに引き上げた。St.Nazaire港の攻撃に参加したあるRAFのパイロットは、コックピットから見た情景を次のように生き生きと描いている:
そうして高度を上げると、景色は素晴らしい。探照灯はどこからも来ない。高度は9000フィート。目標マーカーを目指して、乱暴に回避行動をとりながら突っ込んで行く。高射砲が遂に射撃を始めた。PFF(Pathfinder Force、先導部隊)を見ると機体の下が照らされながら港へ向かっており、奴らから地獄の歓迎を受けていたものの、先導機は無事に逃げのびたのだ! 次は我々の番だ。こんなに張りつめた興奮は体験した事が無かった。空一面、不気味な光で照らされ、Henleyの夜(??Henley地域の祭りか何かか?)よりも10倍も輝いていた。爆弾が炸裂して地上は白い閃光を放っていた。辺り一帯高射砲だらけで、幾つもの機関砲弾が蛇のように、赤い長い尾を引いて上って来た。爆撃の照準航程に入った。これまでに1年も経ったようだった。まるで座った鳩のような、もしくはピカデリー広場をズボンをはかずに横切っている人のような、全くそんな感じだった。爆撃照準航程の間、爆弾はいつ落ちてもおかしくないくらいに機体は激しく揺れていた。爆弾を投下すると、出力を上げてもう一度乱暴に回避行動をしながら離脱する。交差する2本の探照灯の光の間を辛くもすり抜け、何とか目標から逃げ出した。
この文章は、夜間空襲でドイツの激しい地上防空に直面した爆撃機乗員の経験した、恐怖と混沌とを的確に表現している。
もう1つは、ドイツへ空襲に向かう爆撃機がまずここを通りかかることから、ドイツ空軍は西部地区周辺から海岸線に向けて、多くの高射砲と探照灯の陣地を前進させていたからである。ゲーリングの任命で1940年夏に夜間戦闘機師団を率いることになったJosef Kammhuber大佐は有名な「カムフーバーライン」を作ったが、これは北はデンマーク北部から南はドイツと西部占領諸国との国境付近に至るまでの幅12マイルの防御線であった。このカムフーバーラインは、レーダー、夜間戦闘機、高射砲、そして探照灯による統合的防空システムの区画を、幾つか連ねて構成していた。レーダー兵と通信兵は接近する航空機を探知して警報を出すと、探照灯部隊は夜間戦闘機の為に上空を照射し、それによって敵の攻撃を押し返そうとしたものであった。あるベテランの爆撃機指揮官は1941年初めのこのシステムの印象を次のように記述している:
目が眩まんばかりの量の探照灯の光だけだった。これがオランダとドイツの海岸線沿いと、戦略的にドイツ・オランダ国境と全ての大都市の周辺とに配置されていた。探照灯は重高射砲や軽高射砲と連動していた。軽高射砲は空襲を防ごうとして、ホースで水を撒くように空に撃ち上げていた。
彼は、夜間戦闘機が探照灯の照射コーン(cones of searchlight)の付近をうろついており、イギリスの爆撃機は照射コーンに照らし出されてしまうようなら、簡単にその餌食となってしまったと記述している。このシステムは突破不可能というわけではなかったものの、イギリスの爆撃機乗員はそれに近いものであるように受け取っていた。戦争中の地上防空の効果を議論する際に見落とされがちな点ではあるが、探照灯部隊はドイツの夜間戦闘機を補助する重要な存在であった。そして3つ目として、これまでにも指摘されたように単体もしくは重高射砲部隊との協調による軽高射砲部隊の活躍である。実際に、こうした軽高射砲は高度5400フィートから6500フィートにかけて効果的であり、港湾や空港に対するRAFの作戦にとって大きな脅威となっていた。そして最後に、ドイツの防空による撃墜数が少なかった原因は、正確には悪天候と、夜間追尾システムの不足と、そしてRAFの攻撃浸透距離が一般に限定されていたことが挙げられる。
ドイツ空軍の高射砲が困難を抱えていた一方で、爆撃機軍団も困難に直面していた。1940年10月28日に、Portalの代わりに爆撃機軍団の司令長官になったSir Richard Peirse空軍少将(Air Vice Marshal)はDouglas(?)に対して、広大な範囲の目標への攻撃を試みることで、「爆撃機軍団が器用貧乏(a jack of all trades and a master of none)になりつつあり、より少数の目標に絞らなければ我々の攻撃が嫌がらせ以外の何物でもなくなってしまう事になる」と知らせている。更にPeirseは続けている。「小規模の使い捨ての爆撃機軍団では、これから厳しくなりつつある天候状態によって、より使い捨てが強化されることになってしまう。私の最近の経験からして、現在の天候状態では遠距離の目標だと5機に1機だけが、中距離でも3機に1機しか目標までたどり着けないだろう。」Peirseの意見では、悪天候は、防御側だけでなく攻撃側をも傷つけてしまう両刃の剣のようなものなのである。更に続けて、小規模の爆撃機軍団の部隊では小さな損害しか与えることが出来ず、ドイツの工業や市民に対して打撃を与えることが出来ないとしている。実際にRAFは1940年の12か月間にドイツにある目標に対して9000トンの爆弾を投下していたが、これは1945年5月までにドイツに投下した爆弾の量の1%に満たないのである。
1939年から1940年の総評
1940年末には、ドイツ地上防空は幾つかの重要なことを達成した。例えば、西部戦線で果たした高射砲部隊の役割は、こうした部隊が地上作戦において如何に効果的であるかを示すことができた。同様に、無数の偽施設の建設は1年を通じて幾度となく、RAFのかなりの爆撃機をその主要な目標から遠ざけた。それに加えてドイツ空軍は人工の霧を作り出して工場を覆ってしまう機器や、発煙装置の試験も開始していた。最後に探照灯部隊が、高射砲とそれから成長し始めていた夜間戦闘機のどちらもにとって重要な補助物となっていた。しかし、このように達成されたものとは対照的に、1940年を通じた作戦によってドイツ空軍の防空システムの大きな欠点があぶり出されていた。聴音機の限界と作戦使用可能な射撃用レーダーの不足により、RAFを損害の低い夜間空襲に集中させることになってしまった。ただ、夜間射撃能力の不足は全くの無力というまでもなく、ドイツ側の能力の低さと同じようにRAF側のドイツに対する空襲もまだ相当に低調であった。こうした状態にイギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、ドイツへの爆弾の投下量が「現在は嘆くほどに少ない」と不満を述べ、今の状況は「スキャンダルだ」としている。ドイツ空軍にとっては、防空ネットワークに関する問題を解決する為の猶予期間が与えられたようなものであった。そして残りの最後の問題は、この際にドイツ空軍の指導者が偏向と偏見とに取りつかれていたということである。
皮肉にもゲーリングが高射砲指揮官を叱責したその同じ時に、ヒトラーは兵器産業の労働者達に対してスピーチを行い、その中でヒトラーは「今日、我々ドイツは、世界に類を見ない高射砲による防御網を持っている」と誇らしげに主張していた。ドイツが世界で最も広い地上防空網を持っているという点については、ヒトラーの言葉は正しい。1940年末には、高射砲の兵力は、50万人の兵員と、791個の重高射砲大隊、そして686個の軽高射砲大隊にまでになっていた。ヒトラーは高射砲に心酔していたが、しかし問題が存在していることにも気づいていた。実際に彼は近い将来に弾幕射撃が高射砲運用の中で重要な役割を果たす事になることを強調しており、「重厚な高射砲部隊と膨大な弾薬」のゆるぎない提唱者であり続けた。しかし弾幕射撃は防空作戦の拡大手段としては良い選択肢とは言えず、このヒトラーのドイツ帝国の防空における見通しが、ドイツの都市や工業、そしてドイツ軍を守る最適な手法となるかどうかは、時間のみが解決する問題として残った。
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