杖坂山 砲台
2014.3.15 探索
右:米軍の航空写真(R515-2-41、国土地理院)
山陰線長門二見駅の北西にそびえる杖坂山。この杖坂山から南へと伸びる尾根に、角島にあったクルップ式15cmカノン2基の砲台の工事が行われていたものの、工事は途中で中止され、
吉見
へと移設された。
山肌を掘り抜き、横穴を開ける前の状態であり、他の砲台との比較から、この種類の砲台の建造工程を推定することができる。
登山道は無い。
国道191号線脇にある食堂の裏手から、谷沿いに旧道が延びているが、これは杖坂山の頂上付近の峠へと向かうもので(地図中、青太線)、砲台のある尾根には向かわない。一度この道を進み峠まで行ってしまい、慌てて砲台のある尾根を探すも地図から切れており、エイやでそれらしい方向に進み、迷ってしまった。この時、近くでイノシシと野ウサギを見かけた。
食堂裏手の旧道を少し進んだ辺りで、左手(西)へと道が出ている。畑へ向かう道であり、今回はこれを進み、畑の奥にある放棄された畑まで進み、そこから尾根へ直登し、後は尾根沿いに進んだ。尾根に取り付くと、移動は比較的楽である。
砲台の掘り込み部へ降りる道は当然無く、急斜面を下るしかない。当然転落や崩落に巻き込まれる危険性があること、また直下を国道が通っており、落石により被害が出る可能性もあることから、行く際には注意して欲しい。イノシシにも注意。
地元の記録を調べると、地区の年表に以下のような記事がある。
滝部地区史年表 滝部地区新生協議会刊行
1945年8月:二見字市ヶ迫(木製の砲2門据付)に焼夷弾投下す
また、杖坂山の南麓、国道191号線脇の食堂のおかみさんの旦那の話では:
・石垣で作られている(らしい、直接の目撃証言ではないようだ)
・木製の砲を置いていた。それを狙って焼夷弾を落とされた
・(木製の砲に塗る)ペンキが無かったので、代わりにかまどの煤を集めさせられた
というものがある。
これらの話から:
(1)偽装砲台があった(本式の砲台の話は残っていない)
(2)焼夷弾による攻撃があった
事がわかる。
(1)偽装砲台
資料番号を失念してしまったが、防衛省戦史資料室のある資料の地図に偽装陣地についての記入がされており、その中に蓋井島と杖坂山周辺が含まれていた。また、このように地元で話が残っていることから、どのような形であったかは不明であるが、杖坂山付近に偽装砲台があったことは確かなようである。そして砲身に木材を使用した話はあちこちで残っているが、砲身に色を塗るのにかまどの煤を使っていたという話が残っているのは珍しい。
蓋井島の
偽装砲台
のように、尾根上に別の場所に造られていたのか、それとも掘り抜きの場所にあったのかはわからない。一通り見て回ったものの、蓋井島の偽装砲のような石組みは、掘り抜きAの南端にある石垣のみであった。
工事中止になったこともあるだろうが、ここに本式の砲台を造る予定だった話が、地元には残っていないことも面白い。
(2)焼夷弾による攻撃
焼夷弾ということで恐らくはB-29による空襲だと思われるが、戦略爆撃機で陣地を攻撃することは、まず無い。代わりに良くあるのが、市街地の空襲の際に投下できなかった焼夷弾を適当な場所で捨てることである。着陸時にも事故が多くリスクを軽減する為、また帰還時の燃料節約の為に、帰途中における爆弾の放棄は良く行われていた(こちらも米軍の資料か何かで読んだのだが、出展を忘れてしまった)。その焼夷弾が、偶々この付近に落下しただけなのではないかと思われる。
日付
記事[1]
昭和20年2月下旬
第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)
杖坂山(長門二見、第5中隊102名)で洞窟砲台工事開始
昭和20年 時期不明
地質不良による作業困難により、工事中止、
吉見
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[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
左:掘り込みAを北西上から、右:同左、もう少し近くから
左:掘り込みAの北東面、右:同左アップ
左:掘り込みAの東隅部、右:南東面
左:南西方向を、右:北西面
左:掘り込みAの東隅部、右:北隅方向を
左:南隅にある石垣、右:同左
左:掘り込みBを北西上から、右:同左南側
左:掘り込みBの北東面をアップ、右:底をアップ
左:掘り込みAの直上の尾根の風景、右:北東斜面途中の道C
杖坂山から南に下る尾根の南西斜面に、2ヶ所の掘り込みがあり、これらが工事途中で放棄された砲台跡のようである。
西側の掘り込みAは、計測していないがだいたい幅10m弱、奥行き15m程で、北東面(奥面)と南東面(左面)は岩盤で、平面に仕上げられている。しかし北西面(右面)は土質で、形状はあまり良くない。南隅付近に曲面の石組みが残っているが、用途はわからない。偽装砲台の盾部なのかとも思ったが、位置がおかしい。
東側の掘り込みBは、斜面が急すぎて下まで降りられなかった。ただ造りはAと同じである。
尾根の北東側斜面には、道が付けられている。砲台工事用のものかどうかは不明だが、斜面途中の道のようなメンテナンスにコストがかかることはあまりやらないと思われるので、軍道であった可能性もある。
北東斜面と北東谷も見て回ったが、地下通路の口らしいものは見つけられなかった。
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