地島 砲台



2014.4.19 探索
2015.3.15 再探索



米軍の航空写真(左:M122-91、右:M741-A-129、共に国土地理院)


右:未探索部も入れた全体図


左:探索範囲、右:終戦時頃の野砲の配置図[2][3](野砲の位置はかなりいい加減だと思われる)


 宗像大島の東方約10kmに浮かぶ地島にも、砲台が築かれていた。最初は大島砲台から(恐らくは45式改造固定)15cmカノン砲2門を移設する予定であったが、後に垂見峠へ変更され、代わりに野砲2門が配備された。戦後すぐの航空写真を見ると、3ヶ所の工事中の砲座らしき影が写っている。

 泊集落の北から出ている遊歩道の途中にある展望台の周辺に、砲台の遺構がある。展望台の左右に1ヵ所づつの工事途中の砲座跡と思われる大きな窪地が、またその南西斜面に崩落した地下壕跡や水槽がある。航空写真に写っている北西下の砲座については、行くたびにチャレンジしているものの、斜面が急すぎる上に崩れやすく、命の危険を感じて諦めている。くれぐれも無理な探索は控えて欲しい。この未探索の砲座を調べるには、最近流行のドローンでも使うしか無さそうだ。

 野砲陣地については可能な範囲で見て回ったが、これといったものは見つけられていない。
 それから地島は最近はイノシシが多い。探索でも真新しい糞を見つけて、ビビッてしまう。イノシシが出るようになったのは、ここ10年だそうだ。



 船の待ち時間等に、見かけた老人に片っ端から声をかけてみたところ、3人の方の証言を得ることができた:

(じいさんA)
 ・砲台は3つあった。
 ・展望台の下に一番北のものがある(?)。
 ・水槽が残っている

(じいさんB)
 ・松の丸太で偽砲台にしていた。
 ・3つあった。
 ・峠(泊集落から山向こうの集落へという意味で)の辺りにも掘りかけのものがあったらしい。

(じいさんC)
 ・穴は貫通していたが、崩れて塞がれてしまった。



証言や記録、遺構などから推測すると、以下のことを推測できる:

(1)元々、北西側で洞窟砲台(未探索)の掘削工事を進めていたものの、何らかの理由で中断し、展望台の両脇2ヶ所に変更される。この最初に工事の始まった北西の砲座には南面から地下通路が通っていたが、現在は崩落している。ただこの地下通路の入口がEかどうかは不明。もっと北西側に入口跡があるかもしれない。

(2)変更後の砲座(AとC)の掘りは甘く、同時期に造られた6ヵ所の砲台の内では下から2番目の進捗度である。もしくは、蓋井島のように横穴までは掘られていたものの、後に大規模に崩落して現在の地形になった可能性もある。 崩落地下壕Eが未探索の北西の砲座へ向かっていたものか、A に向かっていたかは不明だが、少なくとも掘った地下通路を有効利用しただろうから、Aへの地下通路はEを入口としていただろう思われる。崩落地下壕FはCに対するものだと思われる。

(3)兵舎等の遺構は確認できなかったが、水槽Dの位置から、それよりも下側に何かがあったのだろうと思われる。

(4)ここも工事中止の後に、偽装砲台が造られていたようである。






日付 記事
昭和20年2月下旬 第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)[1]
地島(第7中隊103名)で洞窟砲台工事開始、後に地質不良で位置変更(初期は北部)
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
工事中止、火砲は垂見峠へ
昭和20年8月頃 野砲2門[2][3]

[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 第56軍配備要図(防衛省戦史資料室、本土-配備図-49)
[3] 第145師団関係資料(防衛省戦史資料室、文庫-柚-132)








左:窪地Aを北西上の遊歩道から、右:同左から展望台Bを


左:窪地Aの斜面、右:窪地Aの南西側壁面


左:窪地Aの底部、右:底部から南西側を


左:展望台Bから北西を、右:展望台B


左:窪地Cを南西上から、右:窪地Cの南西上縁


左:窪地Cの底部、右:南西側の壁面を




左:水槽Dを北上から、右:水槽D


左:崩落した地下壕Eを南西から、右:同左の北東端


左:崩落した地下壕Eの近くの玉砂利、右:堀カス


左:崩落した地下壕Fを西から、右:同左を正面から



 展望台Bの両側に大きな窪地AとCがあるが、それぞれが工事途中の砲座だと思われる。
 工事中に位置変更になった為に工事期間が短かったこともあり進捗も遅く、杖坂峠のものよりも工事が甘く、ただの大型の縦掘にしかみえない。斜面が緩やかななので、縁から斜面を下って降りられる。

 展望台Bにも何かがあったのかもしれないが、何も残っていない。

 南西斜面は段々畑になっており、所々に遺構がある。2段下くらいにコンクリート水槽Dがある。畑に造られた水槽でもおかしくないが、証言内に砲台のというものがあったので、その当時造られたもののようである。
 遊歩道の階段の西側には崩落した地下壕Eがある。比較的大きく、窪地部も長い。掘り出した屑と思われる礫や、コンクリートに混ぜる予定だったと思われる玉砂利が散乱している。ここから更に西側も探索してみたが藪が酷く、探索できた範囲内ではこれといったものは見つけられなかった。
 水槽Dの下には崩落した地下壕Fがある。恐らくは砲座Cへと向かうものだったと思われるが、掘り出した土砂の量から、それ程掘り進められていなかったようである。






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