蓋井島





2015.5.29 新規作成
2015.7.14 吉見町町史の記事追加、第2砲台に聴音機の記述追加
2015.7.26 蓋井島第2砲台に探照灯・聴音機の記事を追加



本州最西端で有名…でもない、毘沙ノ鼻の沖、約5kmに浮かぶ蓋井島(ふたおいじま)。
神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったという謂れがある島である。それにまつわる場所や、本土からすれば変わった祭りなどがあるものの、島を訪れる人の殆どは釣り客であり、観光地という程の場所でもない。しかし、実は砲台等の軍事施設跡が島内に多く存在しており、その密度(面積に対する箇所)は全国でも屈指のものである。




蓋井島に至るまでの経緯:

 この島の存在を知ったのは、2000年頃に読んだ、戦捜録の蓋井島探索記だった。
 しかし探索記では、砲台への道も見つからず、海岸を回りこんで急峻を直登し、生い茂った藪を払いつつ、ようやく辿り着いたという記述がなされており、恐らくここに行くことは無いだろうという感想しかなかった。

 それから瀬戸内海を転々とした挙句、4年前に下関に流れ着いた。同じ市内になったものの、そのイメージの悪さから、とても行きたいとは思えなかった。
 下関に来て2年目の初夏に、下見と言いながら蓋井島に渡ってみた。一応の観光地であり、また遊歩道も整備されている鐘ヶ崎灯台と風車発電所跡に登り、灯台裏の電灯格納庫跡らしき遺構を確認してみた。しかし時間が余っていたので、駄目元で乞月山も車道が行っている脇まで近寄ってみたが、目の前一面藪で道らしきものは見当たらなかった。
港に引き返し、船を待つ間に島内唯一の売店でアイスクリームを買い、主人と話をしていると、主人から「最近、藪を刈って乞月山に登れるようにはしたみたいだよ。軍道があるらしい」という話を伺った。

「え?」

 かなりなショックだった。戦捜録の望月さんが体中に擦り傷を作りながら探索した乞月山が、軍道経由で登れるようになっているとは。実際にネットを調べてみると、幾つか乞月山に登った記録があった。大山へ行った記録さえもあった。

「ああ。行けるのか…」

しかし、それでも戦捜録の生々しい探索記録が印象深く、行くのが怖かった。


 それから1年後、資料をたどっている内に、戦争末期に島内に横穴式の洞窟砲台が造られていた事が判った。少なくともネット上では誰も唾を付けていないこのネタは、モノにしなければならないと、ようやく覚悟を決めたのであった。足慣らしに本土側の観音崎砲台に行った後、日帰り遠征3回と1泊2日の遠征1回の計4回の遠征で、島内の多くの軍事施設跡を調査して、今回ここにまとめることにしたのである。







探索についての注意:

 簡単な地図と、アクセス方法について紹介するものの、崖に掘られている洞窟砲台等は道も無く、転落や崩落で負傷どころか死亡する危険性が高い為、行くとしても十分注意し、少なくとも1人では行かないで下さい。




陸軍:

蓋井島第一砲台
蓋井島第二砲台
乞月山洞窟砲台
北東地区洞窟砲台
臨時野砲陣地
鐘ヶ崎電灯所
偽装砲台


海軍:

白瀬防備衛所
賢女鼻防備衛所
蓋井島特設見張所(丙)
蓋井島特設見張所(辛)


日付 陸軍 海軍
大正8年5月 要塞整理要領 [1]
41cm榴弾砲4門(計画)
大正12年2月 要塞再整理要領 [1]
砲塔45口径30cmカノン2(計画)
昭和8年3月 要塞再整理修正計画要領 [1]
7年式15cmカノン4門(計画)
昭和10年3月20日 第1砲台竣功 [1]
45式15cmカノン改造固定(特) 2門(標高91m)、2門(標高135m)
昭和13年10月18日 防備衛所(乙)訓令、官房機密第5676号[6]
昭和14年8月31日 第2砲台竣功 [1]
11年式7cmカノン 4門
昭和16年7月 戦備下令(陸支機密第67号、7月7日)[3]
既設砲台の施設申受け、兵舎の建設[3]
臨時野砲陣地の構築(38式野砲2門、第5中隊の一部)[3]

吉見町町史 [7]
(豊西村役場文書)
S16.7に下関要塞司令部に急遽、豊西村長に対し蓋井島及び
室津牛ヶ迫の一帯の地を防空陣地用地にして軍用路の建設を要請
約1ヶ月で
 蓋井島島内軍用路の啓開 工事人役721人
 室津上後山一帯の軍用路の啓開 3241人
安岡、黒井、川棚、小串等の自治会の出役で工事。
「未だ砲弾到着せず」と工事末期の日誌に繰り返し書かれている。
昭和16年11月 下関防備隊を発足。六連、白瀬、賢女鼻防備衛所を佐伯から移籍。
防備衛所:白瀬(27名)、賢女鼻(18名)[4]
昭和20年2月下旬 第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)[2]
島内の2ヵ所(乞月山、北東地区)で洞窟砲台工事開始
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[2]
島内の2ヵ所の工事中止、火砲は浅川と山田へ
7cmカノンも洞窟陣地へ移動(工事は6月上〜7月上に開始)
昭和20年8月 引渡目録:[5]
白瀬:須式110cm探照灯1、97式水中聴音機8、他
賢女鼻:7cm野戦高角砲6、97式水中聴音機5、他

[1] 現代本邦城塞史
[2] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[3] 下関重砲兵連隊史
[4] 下関防備隊戦時日誌(アジア歴史資料センター:C08030390500-C08030392500)
[5] 下関防備隊引渡目録(アジア歴史資料センター:C08011466100)
[6] 呉警備隊戦時日誌(アジア歴史資料センター:C08030471400)
[7] よしみ史誌 よしみ史誌編纂委員会(吉見町町史)











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