観音崎 砲台(下関)



2012.4.7 探索
2015.2.28 臨時砲台を探索




終戦後の米軍の航空写真(M124-156、国土地理院)




本砲台(7cmカノン)



臨時砲台(野砲)






 観音崎砲台と言えば、圧倒的に横須賀にある明治期砲台が有名であるが、昭和期に下関市の観音崎に築かれた砲台もある。同時期に沖の蓋井島に築かれた方は、それなりに有名なのだが、アクセスの容易なこちら側には殆ど人が入っていないようで、ネット上に探索記録は見当たらない。


 辺鄙な場所にあることから開発による破壊は受けておらず、敷地範囲としては、ほぼ全施設が残っているものの、金偏景気の際の鉄筋盗りにより、鉄筋コンクリートのほぼ全てが文字通り粉々に破壊されてしまっている。その為、昭和期砲台の特色である観測所や電燈庫、弾薬庫等の独特の構造物が影も形も無くなり、残念である。これまで見てきた中では、コンクリートが一番細かく破砕されている。まるでシロアリに崩された木造家屋の跡を見ているようだ。

 念のため、南側にある標高179mの山も探索しておいた。何も無かった。





近代築城史は、記述が殆ど無い上に標高や備砲数が異なっているので省略。

下関重砲兵連隊史によると、基本は近代築城史の丸写しなので省略するが、
注記として「昭和16年7月の戦備下令時に、7cmカノン3門、野砲2門が備砲された」とある。




現代本邦築城史 下関要塞より[1]:

任務:
 蓋井島砲台と協力し、観音崎西方海面に於ける敵艦船の航通を妨害し我が海上航通を援護すると共に関門防空の第一線を形成するに在り

備砲:11年式7cmカノン3(標高141m、144m)

起工:昭和12年6月1日
竣工:昭和13年10月8日

摘要:
 砲側庫を有せず其の代りに各砲座には1m20cm方形の弾薬置場2を有す



観音崎電燈所:
 射光機(96型150cm固定式)1
 照明座1、掩燈所(3m×4m)1、発電所及び属品格納庫1
 起工:昭和12年6月1日
 竣工:昭和13年10月8日






下関要塞観音崎砲台建築要領書(昭和12年2月調製、参謀本部)[1]

三、築設要領:
 1.砲台の首線は概ね真方位285度とし、平射の射撃区域は首線の左右を成るべく広く直接照準し得る如く設備し、且つ努めて砲台四周の高射に便ならしむ
 2.砲座は11年式7cmカノン3門を築設す
 3.電燈所は主として平射に協力し得る如く砲台南側に設く
 4.観測所其他付属設備は努めて之を省略す






よしみ史誌 よしみ史誌編纂委員会(吉見町町史)

(豊西村役場文書)S16.7に下関要塞司令部に急遽、豊西村長に対し蓋井島及び室津牛ヶ迫の一帯の地を防空陣地用地にして軍用路の建設を要請
約1ヶ月で
 蓋井島島内軍用路の啓開 工事人役721人
 室津上後山一帯の軍用路の啓開 3241人
安岡、黒井、川棚、小串等の自治会の出役で工事。
「未だ砲弾到着せず」と工事末期の日誌に繰り返し書かれている。






日付 記事[3]
昭和12年6月1日 起工(砲台、電燈所)[1]
昭和13年10月8日 竣功(砲台、電燈所)[1]
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)
第2中隊(観音崎)7Kは、下関と小倉に洞窟陣地、6月以降、新陣地へ移動
昭和20年8月 7cmカノン、工事は6月上〜7月上に開始

第2中隊
 安岡砲台(後山)(観音崎 7K1 600) 洞窟掘開コンクリ完了 運搬のみ、備砲未了
 鼻ヅラ砲台(垢田)(観音崎 7K2 600) 洞窟掘開コンクリ完了 備砲完了

[1] 現代本邦築城史
[2] 下関重砲兵連隊史
[3] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)








探索記録


本砲台:
 7cmカノン砲座周辺

 電燈所

 兵舎

 山頂東方の不明施設

 山頂から電燈所の間

 電燈所から兵舎の間


臨時砲台







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